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暁にもう一度  作者: 伊簑木サイ
閑話集 古語り

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閑話 女神の剣

 掃討戦が終わり、後始末を始める他部隊を尻目に、突撃部隊だけが、指揮者の陣取る小高い丘の上へと戻ってきた。


「湯を用意してください」


 ティエンは己の身辺を固める兵に指図して、騎馬の一群に歩み寄った。

 一団は統一感のない粗末な格好をしており、老若男女の別さえなかったが、間違いなくこの国でも屈指の精鋭部隊であった。

 彼らは一人の女性騎兵から少し距離を取り、取り囲むようにしていた。まなざしは気遣いに溢れ護衛と言うに間違いはなかったが、実態は監視という方が近いのかもしれなかった。

 ティエンは努めて柔和な顔と声を心がけて、その女性に声をかけた。


「リリア」


 彼女は片手に剣を持ったまま、虚ろに宙を見ていた。いや、ここにはあらざるものを見、耳を傾けているのかもしれない。すらりとした小鹿のような肢体をした少女だったが、放つ威圧感は抜き身の剣そのものであり、馬共々血で塗れていないところはなかった。


「リリア、戦は終わった。剣をおさめてくれるかい?」


 彼女に近付き、手綱を持つ方の手に触れる。


「リリア、剣をおさめておくれ」


 彼女の利き手がふっと持ち上げられ、一同が息を呑んだ。彼女は未だ臨戦態勢であり、不用意に近付いた彼が斬り捨てられてもおかしくなかったのだ。が、そのまま真っ直ぐ下へと振られ、ひゅっと空を切り裂く音と共に、付いていた血がいくらか辺りに飛び散った。次はそれを無造作に自分のブーツに擦り付けはじめる。両刃の大剣であるために、その四つの面をそれぞれ磨いているのだろう、二度目と三度目の間に手の中で柄がくるりと回された。ブーツも血塗れだったおかげで、然程きれいになったようには見えなかったが、彼女はそのまま見もせず、鞘へと刀身を滑り込ませた。

 とたんに、張り詰めていた体が崩折れる。それはまるで糸の切れた操り人形のようだった。馬から転げ落ちそうになるところを、ティエンは掴んで引寄せた。一度地面に座らせ、体勢を整えてから抱き上げる。

 彼におとなしく抱かれたリリアは、気を失っているのかと思いきや、虚ろな瞳を瞬きもしないで見開いたままだった。




 比較的大きなテントに彼女を運び込み、敷布の上に下ろすと、ティエンは一つずつ彼女の装備をはずしはじめた。兜、手袋、鎧、直垂、ブーツ。それから上着、ズボンも脱がすと、躊躇いなくその下の下着も剥ぎ取っていく。すべては汗と血でぐしょりと湿っていた。

 すっかり裸にしてしまうと、もう一度抱えあげて湯の中に入れた。それからティエンは自分の血塗れになってしまった上着を脱ぎ、それも一緒にリリアの装備類と敷布で包んで、テントの外で待っていた兵に渡した。

 彼女の元に戻り、優しく声をかける。


「目を瞑っていてくれるかい? 石鹸が目に入るといけないからね」


 そっと瞼に手をやり、見開いた目を閉じさせる。そして、丹念に石鹸を泡立て、彼女の体を洗っていった。

 長かった豊かなこげ茶の髪は、戦に出る前に短く切り揃えられ、今も顎のあたりまでしかない。きちんと血飛沫は避けているのだろう、顔はほとんど汚れていなかったが、今日も革の手袋を通して染み付いた血が、彼女の手指の色を変えていた。特に念入りに洗うが、日々他人の血を吸う肌は茶黒く変色し、色濃くなってゆく。もう一度、肌の肌理の一つ一つまで洗うようにしても、その色は薄くはならなかった。

 ティエンはその指先に口付けた。掌にも口付け、そのまま彼女の名を呼ぶ。


「リリア」


 彼女は何の反応も返さなかった。出会った頃は、あれほどくすぐったいと笑い転げていたのに。


「リリア」


 何度も名を呼ぶ。呼びながら、全身を洗い流した。

 初めは、敵がいなくなれば正気に返った。次は声を掛けられれば。その次は陣に戻ってからになり、今はこんなにされていても、意識を取り戻さない。

 ティエンは恐ろしいという気持ちは胸の奥底に沈め、決して表に出さないと決めていた。人の恐れるが故に抱く想像こそが、真に避けるべきものだと思っていた。人は己の夢想した方へと未来を紡ぐ。良い未来を引寄せたいのなら、そこへ至る道をこそ想像するべきなのだ。


 すっかりと洗い終え、風呂から引き上げ、新しい敷布の上に座らせた。体を拭く。その間も名を呼ぶ。新しい下着を着けさせ、今度は寝床に横たえた。毛布を掛ける。

 風呂としていた盥には蓋をし、あがり用の湯の入っていた桶と濡れた拭き布も載せ、引きずってテントの端へと寄せた。それからティエンも濡れてしまった服を脱ぎ、下着となってリリアの横に滑り込んだ。


 彼女は目を閉じたままだった。が、眠っているわけではないのは、動かされなければ身動ぎもしないことでわかっていた。何よりも、雰囲気が違う。

 彼女は草原に吹く風のような人だ。日の光に満ち溢れ、自由で生き生きとした息吹を伝える人。ティエンは一目でそれに魅せられたのだ。闇の中にあっても、ほの明るく輝いているようにすら見えた。

 彼女を抱き寄せ、頬と首筋に口付け、そうしながら背を擦る。


「リリア、リリア」


 体に刺激を与えつつ、魂を呼び起こす。

 戦場にいる間は、彼女は巫女として神威をその身に降ろす。忘我のうちに神の操り人形となるのだ。それは人の魂に耐えられることではない。繰り返すほどに、彼女の魂は磨り減ってゆく。

 早くこの戦を終わらせなければ、彼女は息をするだけの(うろ)になってしまうだろう。それでも命だけは奪われないのだ。彼女のもう一つの使命は、神の娘を産むことなのだから。

 彼女が慈悲深いと言う女神は、彼女の体しか必要としていない。

 ティエンは怒りに唇を引き締めた。

 神々など消えうせろ、と思う。理だけ残して、立ち去ればいい。無慈悲な運命があるのは仕方ない。だが、それが『何か』の意志で与えられることが許しがたく、受け入れがたい。抗うことすら許されない、従うことしか求められない。それは、生きる意味さえ奪う行為だ。そんなモノを敬い崇めることなどできはしなかった。

 だが、リリアは喜びのうちに従う。女神の剣たる自分を誇らしく思っているのだ。


「ティエン」


 彼女の声が聞こえた。彼はとっさに微笑んで、彼女の瞳を覗きこんだ。


「お帰り」


 彼女には恐れも怒りも不安も見せるつもりはなかった。彼女を迷わせる必要はない。彼女は彼女であればよい。手の届かないところへ行こうとしていても、そんな彼女を愛している。

 だから、私は私で全力で彼女を引き留める。決して女神になど渡しはしない。女神だけではない、他の何ものにも。


「ただいま」


 そう答える唇に彼は軽く口付けた。少し離れて目を見交わし、そこに宿る魂を確かめる。彼女は表情豊かに笑っていた。


「愛しい人、気分はいかがですか?」

「あなたがいてくれて、嬉しい」


 そう言ってすり寄る。腕を彼の背に回し、さらなる口付けをせがむ。ティエンはそれに応えた。


 数千年前に女神が下した預言の時は訪れ、後は失われた神が甦るのを待つだけだ。

 そのために、女神は血を寄越せという。その昔、かの神は、人の血に呼ばれて戦乱の地に降り立つ神だった。故に、未だ深い眠りにある失われた神を呼び起こすには、人の血が、地を覆うほどの嘆きが必要なのだと。

 そう、その神の行く所はどこも戦乱の地なのだ。その神が加護の証の剣を授けた宝剣の主もまた、いつも時代の転換期に現れる。

 おそらくこの先、この理不尽な戦など及びもせぬほどの混乱の時代が訪れる。

 時代が彼らを呼ぶのか、彼らが時代を呼ぶのかはわからない。わからないが、ティエンにとってそんなことはどうでもよいことだった。


 早く、早くおいで、と願う。まだ足りないというのなら、いくらでも血を捧げる。いくらでも罪なき人々を殺す。だから、これ以上リリアが、あなたの母が失われる前に、どうか生まれてきておくれ。

 我らの娘よ、どうか、私があなたを愛せるうちに。

 嘆きが憎しみに変わり、愛を汚す前に。




 この声が、彼女を引き留めているうちに。

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