閑話 遠き日の夢
そこから見た景色は、美しく祝福に満ちていた。
左手には大河が流れ、眼下をその支流が曲がりくねり、日にきらめきながら王都へと流れていく。なだらかな起伏を描く大地は地平線の彼方まで青く輝き、秋の豊穣を予感させた。
我が愛する祖国。愛する人々の住まう地。
彼は目を細め、唇の両端を引きあげた。
我が罪深さを忘れたことはない。何千年経っても、薄れることはない。あの日のままに、後悔が心を苛む。罰してくださるというのなら、喜んで受けよう。この命が役に立つというのなら、いくらでも捧げる。
それで、今度こそあれの願いが叶うのなら。
彼は首をめぐらし、ハレイ山脈に向かって囁く。
「女神よ、我が働きをご照覧あれ」
もう一度、王都へと視線を向ける。その光景を目に焼きつける。背後が騒がしくなってきていた。
エニュー砦に向かう一本道を、王太子軍が登ってきているのが見えていた。狭いここに入りきらなかった兵たちが、なし崩しに襲われている。せっかくの大軍も、こんな狭い場所では役に立たない。そう、役に立てさせないためにここに立て篭もったのだ。
王太子軍はもうまもなく門扉に殺到して攻め込んでくるだろう。だが、知らせを受けても物見台に立ったまま動こうとしない彼にしびれをきらして、味方の領主たちがやってきたようだ。
「陛下、ご指示を」
誰が陛下だ、と思う。正式に即位などしていない。するつもりもない。
彼らを招き入れ、扉を守る衛兵に、何があっても私が良いと言うまで開けてはならぬと告げる。衛兵は彼の本当の思いを知る者だった。知っていてなお、彼に仕えるためについてきた。
衛兵は深く頷くと、領主の部下たちを押しやり、物見台から締め出してくれる。彼に任せておけば、必ず時間稼ぎをしてくれるだろう。
陛下と呼ばれた男は、領主たちへと振り返った。
これで、倒すべき相手は八人だけ。贅沢に浸り、領主の本分を忘れた彼らなど、幼い頃から将軍位について甥を守り立てていこうと励んできた彼にとっては、物の数ではない。
「さて、ここまで仕えてくれたおまえたちに礼をしたく思う」
彼は、笑った。獅子のごとき笑みだった。領主たちも儀礼的に笑い返しながら、不穏を感じ取って顔を強張らせた。
その顔を満足気に眺め、一番近くにいた者に歩み寄り、その笑みのまま抜刀した。何が起こったのかもわからないうちに、一刀で首を叩き落す。そして抗議の声を上げる前に、詰め寄って二人目を葬り去った。さすがに三人目は抜刀して歯向かおうとしたが、彼の敵とはなり得なかった。早々に討ち取り、助けを呼びながら逃げ出そうと惑う者たちを一人、また一人と手にかけていく。
「なぜ!」
最後の男が転んで後退りながら喚く。
「おまえが許された者なら、冥界で女神に尋ねるといい」
憎しみすら込めて、その体に剣を叩き込んだ。
まったく、どいつもこいつも余分な脂肪を付けおって。せっかくのクレインが、すっかりなまくらになってしまった。まだ一仕事残っているのに、どうしてくれるのだ。これでは自分の首さえ掻き切れん。
彼は男の服で刃を拭いながら顔を顰めた。
それにしても、あの似非神官も人事だと思って面倒なことを押し付けてくれたものだ。攻め入る軍に呼応して領主たちを粛清し、密かに打ち果てよとは、堂に入った非道っぷりだ。どうせ死ぬのだから、少しでも残される者の仕事を減らしていけなど、あの冷血漢でもなければ、言えぬことだろう。
だが、哀れでもある。女神の剣たる巫女を、人として繋ぎとめようというのだ。さて、戦が終わるまでに、彼女の心がどれほど残っていることやら。
喉の奥で笑う。あの神官もまた、己や巫女と同じに、慈悲深く無慈悲な女神に捧げられる供物なのだ。
「どれ、少しでも減らしておいてやろうか」
遠い昔に妻であった甥に泣きつかれ、生まれ変わっても尋ねていくと、約束してしまった。彼の傍にいるであろうあの似非神官に、次に会った時にねちねちといたぶられるのはごめんだった。
ふと足元に横たわる男の剣に目がいく。ああ、そうであった。この男もクレインの剣を大枚を叩いて買い入れていたのだった。
「これはくれてやるから、こっちは貰うぞ」
聞こえないだろう男に声を掛け、真っ更なそれを手にする。
「さあ、もう一働きするか」
彼は足を振り上げ、気配の入り乱れるあちら側へと、扉を勢い良く蹴り開けた。
国王の侍従であるクライブ・エニシダは、花束を持って城の奥にある聖堂の前に立っていた。そこは王家の墓所のまだ奥にある、宝剣の主のための墓所であった。
遷都の理由は当時から詳らかにされず、なぜここに王都が築かれたのか、様々な憶測が論じられてきた。東西に対してほぼ大陸の中央に位置し、北はハレイ山脈と大河サランのおかげで攻め込まれにくく、また、水の豊富な豊かな土地を抱えているため、というのが主流の説として定着している。
だが、本当の理由はただ一つ、この墓所を守るためであった。王都の名アティアナは、アティスの女性名の一つなのである。
聖堂は建築当初のままの古い小さな建物だ。その中にはにちょうど人が一人横たわれるほどの岩が一つある。その岩の中央部には、十数センチの細い切れ目が入っていた。
そこにあの宝剣が突き刺さっていた。それは、遺体も見つからなかったあれの、まるで墓標のようだった。
それを目にした時の衝撃を、ここに来る度に思い出す。だから彼は、宝剣の主に腹を立てる度、ここに来る。
岩の上の枯れた花を取り去り、埃を払ってから、新しい花束を手向けた。
宝剣の主は、死ぬとここに葬られる。彼を除けば何人たりとも持ち上げることの出来ない剣を、その手に掴んだままここに寝かされ、次の主が来るまで宝剣を抱き続ける。
遺体は時を止めたままなのだと聞く。腐りもせず、何百年もそのままあり続け、次の主に剣を持ち去られると同時に塵に戻るのだと。
そう、初めから、宝剣の主は骨の欠片も残さないのだ。
それでも、遺体を確認できなくても、あの宝剣がここに突き立っていたのを見た時、あれはもう、本当に戻って来ないのだと思い知らされた。
あれが呪いの矢で射られたことは、報告を聞いて知っていた。部隊ごと姿を消したことも。それでも、どこか信じてはいなかった。あれが殺されるはずはないと思っていた。だから、妃たちの不穏な動きも見て見ぬふりをしていた。
ああ、そうだ、死ぬはずがないと思っていた。あれを失うなど、思いもしなかったのだ。
あれは本当に良くできた王子だった。それ以上に、人としてとても健やかな子だった。強靭な肉体と寛大な心を持っており、幼い頃から教え諭されたとおりに王国を愛し、同族を愛し、それらを守るためにどんな犠牲も厭わなかった。
誰もがあの子を褒め称え、惹かれ、愛した。
あれを失って、呆然とするほどの喪失感を味わった。だが、思い知ったのはそれだけではなかった。
同時に、同じほどの暗い喜びに満たされた。それは、初めて気付かされた、あれに対する殺意だった。気づいた途端、私は無意識に抱いていた己の望みの汚らわしさに戦慄した。
なぜ、いつの間にそんなことを望んでいたのか。答えは自分の中にあるはずなのに、何千年もそれを取り出すことができなかった。
しかし今生、あれの傍近くに再び生きる機会を得て、答えを得た気がしている。
あれは、人として異質すぎるのではないか。あれほどの才能を持ち、地位を与えられ、並ぶ者のないほどの権力さえ持っていると同じなのに、それらを己のために使おうとは露ほども思わない。まわりの者にうながされ、請われなければ、身を守ろうとすらしないのだ。
ただ、国のために。国民のために。
それは、人として異常なことではないのか。
あれは、まるで目を射る光だ。眩しく、それ故に鬱陶しい。そして、光に照らされれば影ができるように、あれの存在は周囲の人間の心の中に影を作り出してしまうのだ。
だから、惹かれ、愛しながらも、畏れ、恐れ、憎まずにはいられなくなる。その死を望むほどに。
その彼が、唯一人の女性を欲しいと言いだした。そのために王国にこの身を売ると。しかも、彼女が失われたら、この国を血の海に沈め、灰燼に帰すとまで言ってきた。己の命よりも大切にしてきた民草を盾に、女を守ると言うのだ。
それは引き受けようという位に比べて、なんと身勝手で危うい動機であることか。
だが、それで初めて、あれの足元にも影があるのだと実感することができた。その影もまた、我々と同じく大地に縫いとめられているのだと。
いや、縫いとめられてしまったのかもしれない。運命の女によって。ただの男にされてしまったのかもしれない。
先程廊下で、婚約者だと紹介したときの、あれの目つきを思い出す。思わず、腹立たしさに、ふん、と鼻を鳴らす。
誇らしげで自慢げで、しかもクソ生意気にも手を出すなと威嚇しおって。
誰が手を出すか、あんな化け物じみた女! 心に影を持つ者にとっては、目を潰さんばかりの輝かしさではないか。あれを平気で愛せるあれの神経をこそ疑う。
女神の愛し子、世界の欠片、失われた神、黒の神官、そんな恐ろしい隠し名を持つ女なんぞ、あれでもなければ釣り合うわけもない。
まったく。どこまでいっても、どれほど生まれ変わっても、あれはあれなのだ。決して失われなどしなかったのだ、あの稀なる魂は。
彼は人形のような美しい顔に、ひどく人間くさい笑みを浮かべた。痛みを知った後にこそ感じることができる、喜びの表情であった。
「さあ、もう一仕事するか」
未来の国王殿に、宰相閣下と第一王子と共に、領主たちから軍を取り上げた後の法律を作れと命ぜられている。いずれ、その地位さえ奪うことを視野に入れたものを。
壮大な改革だ。それでも、今度こそ、その夢を叶えさせてみせる。
それが、遠い昔、己があれに示して見せた夢なら、なおさら。
彼は暗い聖堂から表へと出て、眩しさに一瞬目を眇めた。それから、剣を持つには向いてない今生の体を見下ろし、肩を竦めて、眩しい光の降り注ぐ庭園を、王宮に向かって歩き出したのだった。