エピローグ
暗闇がまだ続いていた。寒さが増している。夜明け前の一番闇が深い時だった。
彼女は彼を抱きしめていた。追われている身ゆえ、焚き火を焚くことはできなかった。仕方なく二人で共に大きな毛布にくるまり、左腕に彼の頭を抱え、右腕をその胴に回し、ぴったりと己に引き寄せていた。神である彼女は疲れを知らない。だが今は深い悲嘆がその顔に影を落としていた。
「嘆かないで」
彼女の姿は暗闇の中でもなぜかはっきりと見える。引き結ばれたまま答えない彼女の唇が痛々しく、彼は手を伸ばそうとして呻いた。それとともに、彼女の顔も苦痛に歪む。再び口にのぼりそうになった謝罪を彼女は呑み込んだ。
すまない、と何度も謝った。約束を守れなかった。貴方を守ると契約したのに。
その度に彼は、謝らなくていい、と言った。貴女は守ってくれた。その証に、私は今、貴女の腕の中にいるではないか、と。
彼女の加護がなければ、セルレネレスの呪いのかかった矢を受けた瞬間に命は奪われ、一瞬で魂まで砕かれていただろう。
呪いを身に受けた彼は、実感として知っていた。それは、死などという生温いものではなく、存在を抹消させる呪いだった。
後方の味方の陣から射られた矢は、盾となろうとした彼女を素通りし、彼の心臓を射抜いた。彼は彼女に矢柄を切り落とさせ、そのまま陣頭で指揮を執り、自軍を勝利へと導いた。
だが、決して取り除けぬ鏃は、彼に死の苦しみを与え続けていた。それは鏃と同じに、彼女にも取り除けない痛みだった。
彼女が加護する限り、彼は生き続けるだろう。けれど、精神はやがて痛みに蝕まれていくにちがいない。
彼は彼女に請うた。加護は暁の光を見るまで、と。最後を貴女の腕の中で過ごし、マイラの御許に行きたい、と。
彼女にそれを断ることはできなかった。
「後悔はしていない。なにも」
静かに彼は言った。答えぬ彼女に微笑みかける。
「貴女に会えた。それだけでこれほど満ち足りているのに、貴女は笑ってくれない。貴女は私がいるだけでは足りないのか?」
彼女は首を横に振った。
「その貴方を失うのが辛いのだ」
「どうして? 次は会ってはくれないのか?」
「次」
「そう、次に私が生まれ変わったら」
彼女は泣いているような表情になった。涙が零せるならそうしていただろう。人ではない彼女には不可能だったが。
「必ず、会いに行く」
「良かった」
彼は浅く息をついた。話し続けるのは酷い痛みをもたらすのだ。
「その時はもう一度、貴女と暁を見たい」
「ああ。約束する」
彼は苦笑した。彼の望みを、彼女は本当に理解しているのだろうか? けれど、彼女はもう、約束してしまった。神の言葉はそのまま預言になってしまうというのに。
だったら来世、私は彼女に見合うだけの男になろう。それで許してもらうしかない。
辺りがうっすらと明るくなってくる。二人の目の前でハレイ山脈に鮮烈な光が当たった。世界が輝きだす。
「美しいな」
そう呟き、彼はこの世で最も美しく愛しい存在に視線を戻した。その姿を、魂に焼きつける。
「ああ、楽しみだ」
彼の無邪気な笑みに彼女も微笑みを返した。
それが彼らの地上での別れとなった。
終




