2 王都屋敷
船着場から奥の階段を上れば、そこは玄関ロビーだった。
王都勤務で時間のある者は全員集まっていたらしく、二十数人に出迎えられた。わあっと寄り集まり、口々に挨拶が始まる。ソランはしばらくもみくちゃにされていたが、祖父の三言で、皆が固まった。
「明日、早朝に出仕する。イアルもだ。明後日からは視察に随行予定だ」
屋敷を仕切っているエレンが鋭く祖父を睨み、ツンと顔を背けた。ソランは、その仕草がマリーに似ているのに気付いた。きつい性格に見えてもおかしくないのに、むしろ可愛らしいところが特に。
「御領主、この埋め合わせは必ずしてもらいますよ。皆もそのつもりで協力して頂戴」
そして矢継ぎ早に指示を出していく。
「ソラン様はこちらへ。湯浴みの用意をしてございます」
「ありがとう。マリーの結婚の儀に立ち会わせてあげられなくてすまなかったと思っています」
「いいんですのよ。気になさらないでください。こういうことは勢いが大切ですから。むしろ良いきっかけになったと喜んでおります」
エレンの言葉に些細な違和を感じる。しかし、それがどこなのかよくわからない。その微妙な何かについて思案していると、そんなソランの様子に何を思ったのか彼女は微笑んで、
「マリーが一目置いている同年代の男性はイアルくらいなものでしたのを、お気づきになっておられましたか?」
「一目…? 力いっぱいやりこめていましたが」
それはもう、時々目を覆いたくなるほど容赦なく。
「自分を飾らないでいられる相手は、そう多くはございませんよ」
あれをそういう言葉に置き換えられる心の広さに、ソランは瞠目した。
「ソラン様もきっともうすぐですよ」
「なにがですか?」
「恋です」
さらっと言われたそれに、苦笑がこぼれる。
「当分無理そうです」
だいたい明日からも男装で出仕だ。女性であることを隠す必要はないが、公言はするなと言われている。
声の質が質だからバレてもおかしくないはずなのだが、少なくとも留学中はバレなかった。女の子には告白されたし、野郎どもはありがたくない猥談に、ソランを混ぜてくれた。師匠は笑い死にしそうだからはやく訂正しろと言っていたが、結局言い出せなくて、そのままにしてきてしまった。
「無理なんかじゃありませんとも。アーサー様もリリア様も大恋愛でしたよ」
その話はどちらも、本人たちから耳にタコができるくらい聞かされていた。ソランは、祖父母や両親が語る様子を思い出し、温かい気持ちになった。お互いの体に触れて寄り添いあい、幸せそうに微笑みを交わす姿。
しかし、自分に置き換えると想像がつかない。まったく空を掴むような話としか思えないのだった。
「そんなことより、エレン小母さんは、もうここで迷子になりませんか?」
「一人で歩こうと思ったらなりますよ。ですから行き先を船頭に告げて、降りる時に道を聞くのです」
頷く。ということは、この街では船頭が一番道に詳しいということになるのだろう。それに案外、船の上では色々な話がされる。様々な噂話を仕入れることができるだろう。
ソランは、船頭の元締めがどんな人物なのか気になった。できるならば、会ってみたい。
「船頭になるには、どのくらいかかるんでしょう」
思わず呟く。と、
「修行に三年、都中を渡るには八年と聞いております。……ソラン様、その朴念仁なところは誰に似られたのでしょうね。不思議です」
嘆くように言われた。
「こちらです。中でマリーが控えております。申し訳ないのですが、お時間がございません、お急ぎお願いいたします」
エレンはノックをしてドアを開け、浴室にソランを通した。
髪を乾かす時間も惜しく、高い位置で束ねてしまった。真っ黒く真っ直ぐなそれは、肩甲骨の辺りについてしまう。上着がいくらか濡れてしまうその状態で、この屋敷での私室になる部屋に案内された。
一階が食堂や浴室、台所、その他家事室等があり、一階の一部と二階部分が領民たちの部屋、三階に領主の私室と来賓室があった。
ソランの部屋は三間続きで、入ってすぐが居間、隣が寝室で、そこに小さな衣裳部屋が別に付属されていた。領地の私室とよく似た感じに仕上げてあって、初めての場所なのに落ち着く。
ソランはソファに座り、マリーはその背にまわって、未だ諦めず髪を乾かそうとしていた。
「マリーの部屋は?」
「隣の建物の三階。右側の半分全部なんですって」
小さく溜息をついている。振り返ろうとして止められ、仕方なく窓から見える王都の景色を横目で見た。
「ああ、あちらに住んでいる人たちもいるんだ」
「ええ。ここ何年かこちらの仕事が増えて、うちみたいに家族ごと来ている人たちも多いから」
「そうみたいだね。心配していたんだけど、みんな元気そうで少し安心した」
「ソランも弟たちに会ったでしょう? 相変わらずうるさいったらないわ。心配なんてぜんぜん必要ないわよ」
「うん」
それでも心配だった。領民たちは祖父の部下として様々な場所に潜り込んでいる。
さっきのラルフのように船頭をしていたり、他の領主や大商人の下だったり。もちろん王都だけでなく、必要とあれば国中のあらゆる場所に入り込み、情報を掴んでくる。
昔はそうやって金目のものを盗んできた。今は情報を国王に売る。金より命の方が大事だと言い聞かせてあるから滅多なことはないが、過去に何人も死んだり怪我をしたりしていた。
「あとでマリーの部屋に行ってもいい?」
「え? ええと、そうね、いいわよ」
歯切れの悪い返事に、あまりよくなさそうだと察する。
「さっきも溜息ついていたけど、どうしたの? そんなに酷い部屋だったの?」
「まさか! その逆。あんなに何部屋もまだいらないのに」
不自然に黙り込む。
「何部屋もあるんだ。ああ、そうか、イアルと一緒だから」
途端にマリーの手が止まった。つついてはいけないポイントだったらしい。今夜しか共にいられない二人のために、マリーが意地になりそうな話題は回避することにする。
「家具はもう入っているの?」
「うん。お母さんたちがだいたいそろえておいてくれたから。布類は結婚祝いでみんなが作ってくれたので間に合うし、あとは細々したものだけ」
「そっか。じゃあ、部屋がマリーの満足いくように整ったら、お茶に招待してくれる?」
「ええ、もちろん」
「ドライフルーツと胡桃の入ったケーキが食べたい」
「ごろごろするくらいいっぱい入れたのね」
「うん」
扉がノックされる。マリーが受け答えに出た。
「お針子が参りました。衣装合わせをお願いできますか?」
領外の者がいるために、さっきと違い、畏まった様子で尋ねてくる。それに頷いてみせた。すぐに五人もの女性が入ってきた。一人が年嵩の婦人で、他は皆若い。その年嵩の婦人が丁寧に挨拶をしてきた。
「お初にお目にかかります。ゲルダ衣装店のチェイニーでございます。以後お見知りおきくださいませ。本日は、頂いたサイズ表で仮縫いしてまいりましたものをお確かめいただきたく参上いたしました」
「急がせることになってすまないが、よろしく頼む」
一般に旦那様奥様と呼ばれる身分の者は、目下の者に礼を言ったり頼んだりしてはならないという。使う者に甘く見られるからだ。しかし、ソランはそれは違うのではないかと思う。そんなもので人を縛っても、追いこまれていくのは己ではないのか。祖父は所詮盗賊上がりだからな、と笑う。私たちは私たちのやり方で良かろうよ、と。
ソランは立ち上がり、祖父曰く『女たらしの笑顔』で微笑んでみせた。