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暁にもう一度  作者: 伊簑木サイ
第十一章 解呪
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解呪

「おやすみなさいませ」

「ええ。おやすみなさい」


 マリーが侍女を引き連れて寝室から出て行ってしまうと、ソランは医療鞄を暖炉の前に持ってきて開けた。

 殿下はまだ当分来ないだろう。さっき、将軍とエニシダが酒瓶を持って訪ねてきていた。ソランも残ろうとしたが、二人とも男同士の話だからとかなんとか言って、ものすごく不機嫌になった殿下だけを連れて客室に籠ってしまった。おかしな取り合わせの三人だと思わないでもなかったが、ディーが大丈夫ですよと請合っていたので、一足先に私室に下がったのだった。


 少し考えて、中からぼろ切れに包まれた砥石を出す。次に手早く髪を三つ編みにして縛ると、ベッドのサイドテーブルの上の洗面用の桶に水差しから水を注いで持ってきた。砥石の前にしゃがみこみ、剣を鞘から抜いて水で軽く濡らして、砥ぎはじめる。剣はここ何日も使っていないし、必要な手入れはきちんと施してある。全然必要などなかったが、この単純作業をしていると、他の何をするよりとても心が落ち着くのだ。


 ソランは陛下の御前を辞してから、殿下と一緒にエレーナたちの様子を見に医局に立ち寄って、アーバント医局長にお願いとお礼を述べてきた。

 領地を出てくるときに、二か月分しか薬を置いてきていなかったために、ソランが王都を離れる間の薬の追加を頼んでいったのだ。新しい分もそろそろできあがりますよ、と告げられて、ソランは恐縮して重ねてお礼を述べた。

 また、エレーナたちのことも焦らず気長に見守っていきましょうと逆に励まされ、少し泣きそうになってしまった。彼女たちを引き受けはしたものの、どうしてあげればいいのかわからず、不安に思っていたのだ。エレーナたちも、新しい場所に緊張はしているようでも、暗く怯えた様子はなかった。だから、明日また訪ねることを約束して、別れてきた。

 それから館に戻り、エメット婦人や侍女たちや局員の熱烈な出迎えを受け、そうしているうちにミルフェ姫やミアーハ嬢、両親と弟、祖父も尋ねてきて、皆で身分の上下なく、久しぶりの再会を喜んだ。

 おかげで胸の中は温かいものでいっぱいだった。それでも、こうやって静かな場所に一人になれば、王都の正門をくぐり、謁見の間を出るまで浴び続けた多くの人の視線や声が、澱となって頭や体にこびりつき、神経が冴えてしかたなかった。


 ソランは右手で柄を握り、左手を剣の腹に添え、砥石の上を、同じ角度、同じ間隔でもって、刃を滑らせていった。シャ、シャ、とリズミカルな音が耳に心地いい。無心になって、研ぎあげていく。

 一面を終わらせたところで洗い流してぼろ布で拭き取り、暖炉の火にかざし、刃先を確かめる。曇りなく光が弾かれる。乱れた線は入っていない。ソランは満足して微笑んだ。

 コンコン、と衣裳部屋に続く入り口のところで壁が叩かれた。目を上げると、殿下が夜着の上にガウンを羽織って立っていた。ソランは驚いた。


「ずいぶんお早いですね。お二人は帰られたのですか?」

「ああ。祝いの酒を持ってきただけだ。すぐに帰した。なにをしている?」

「剣の手入れを」

「見ればわかる。どうしてそんなことを今夜やっているんだ」


 呆れきった声で言った殿下は、部屋に入ってきて、溜息をつきつつ隣に座った。

 ソランは返答に困った。心に絡みつくいろんなものを忘れて無心になりたかったなどと正直に言えば、きっとまた心配させる。

 イアルなら、何も言わなくてもわかってくれる。ソランが心の平衡を取り戻すまで、黙って放っておいてくれる。

 でも、殿下は違う。ソランを強引に抱き締める。ソランの弱いところもみっともないところも腕の中に収めて、全部晒させようとする。それは正直に言えば鬱陶しく、とても腹立たしいことだった。

 誰だって隠しておきたいことぐらいある。それが好きでしかたがない人が相手なら、なおさら。きれいでいいところしか見せたくないものだ。

 それを許さないこの人は、傲慢だと思う。すごく自分勝手だと思う。絶対に迷惑この上ない人だとしか思えない。

 それでも。

 ソランは自分の抱く気持ちに思い至って、そっと溜息を噛み殺した。

 それでも、心が震える。体の奥底から熱くなる。だって、この人は、ソランのどうしようもないところも全部ひっくるめて抱き締めてくれる。みっともないところさえ、愛しんでくれる。

 ああ。だから、ほら、どんな鬱屈も、途端に些細なことになってしまう。いつのまにやら澱は霧散してしまった。

 ソランは横に首を振ってみせた。


「なんでもないのです。手持ち無沙汰だっただけで」


 そう言って鞘を拾い上げ、剣がしっかり乾いているのを確認して仕舞った。


「もういいのか?」

「ええ。気がすみましたから」


 砥石をぼろ布に簡単に包み、暖炉の傍に置いた。少し乾かさないとならない。洗面器もその横に移した。明日の朝には濁りは底に沈む。上澄みを使えば問題ないだろう。と、合理的というより杜撰極まりないことを考えた。実はそのへんが朴念仁だとか女として残念だとか言われる所以なのだが、ソランはまったくわかっていなかった。


「そうか」


 殿下の手がソランの背中に伸ばされ、くっと髪が引っ張られたと思ったら、ゆるく三つ編みにして縛っていた組紐を解かれた。手櫛で梳いてくれる。なんだかどこかがくすぐったくて、ソランは肩を竦めた。


「なんですか?」

「ん? そうだな」


 殿下は途中で言葉を切って、身を寄せてソランの唇に軽く口付けた。思わずつぶった目を開ける前に、離れていった唇が、今度は耳に吐息を吹きかける。


「今夜は私の部屋へおいで」


 なぜ? と思う間もなく手を取られ、引かれて立ち上がった。そのまま衣裳部屋に行き、不自然な場所にある扉の前に立つ。その脇にはランプが掛けられていて、鍵穴もよく見えた。


「鍵は持っているか?」

「はい」


 首から掛けていた鎖を引っ張り出して見せる。


「開けてごらん」


 ソランは鍵を差し込んだ。それだけで、かちり、と外れる音がした。


「どうぞ」


 殿下がソランの後ろから手を伸ばして、ドアノブを捻って押し開いた。ランプも外して掲げて先を照らして見せてくれる。

 そこは何度も朝に起こしに入った、見慣れたはずの殿下の寝室だった。ただ、こんな場所から見たことがなかったので、初めて来た場所のような錯覚をおこした。一度、任命書を枕に忍ばせに来たが、勝手に入るのが後ろめたくて、よく観察などしなかったのだ。

 向こう側の壁に据えつけられた暖炉が赤々と輝き、部屋の中はとても暖かかった。


「鍵を抜いて」


 殿下の指摘に、忘れていくところだった鍵を外して、首に掛けなおした。足元を照らしてもらいながら、暖炉まで行った。なぜか落ち着かない気分で、促されるままに敷物の上に座る。

 殿下はソランが無意識に持ってきていた剣を取りあげると、ベッドのヘッドボードへと持っていって置いた。

 敷物の隅に盆の上に載せられて二つの杯と酒瓶二本があった。


「あ、これは」

「そうだ。あいつらが持ってきたものだ。飲むか?」


 ソランは頷いた。なんとなく、間がもたなかったのだ。


「どちらにしますか?」


 封は切ってあった。そこで、注ごうと手を伸ばすと、やんわりと遮られて、殿下が自分で片方を取り上げた。捩じ込まれていたコルク抜を引き抜き、杯に半分ほど注いでくれる。


「あいつらに毒見させたから大丈夫だ」


 片方を渡され、ソランが受け取ると、殿下は優雅に掲げてみせた。それに合わせてソランも掲げて、乾杯をした。口にしたそれは、適度に甘いものだった。まろやかでこく深く華やかで、ソランはあまりの美味しさに、ほうと息をついた。


「気に入ったか?」

「はい。これはどちらの(かた)が?」

「エニシダだ。こちらも飲んでみるか?」

「はい」


 よくよく味わいながらも、するりと飲みきってしまったソランに、殿下はもう一つの方も注いでくれる。今度は杯に三分の一ほど注がれたそれを口に含むと、芳醇な香りが鼻に抜け、重厚でありながら清冽な味わいにうっとりとする。


「どちらもとても美味しいですね」

「ああ。だが、きつい酒だぞ」

「ええ。頭の中がほわんとして、いい気分です」


 楽しくなって、笑いかけた。殿下も微笑んで、何気ない仕草でソランから杯を取り上げると、口付けてきた。すぐに離れるが、頬を撫ぜられる。幸せな気分でその手に頬を寄せ、自分の掌も添えて頬との間で挟むようにした。

 この人が好きだと思う。体中がその思いで満たされる。幸せだけれど切なくて、少しだけ涙が滲んだ。


「おまえが好きだ」


 囁きとともに片腕が肩に回り、引き寄せられた。


「おまえは? 私が好きか?」

「はい」

「目を開けて」


 懇願の響きを感じて不思議に思って見ると、顎をとらえられて瞳を覗きこまれる。

 暖炉の穏やかな光に照らし出されたソランは、ひどく可憐だった。青い瞳は明度の低い中では濃い色を増し、まるで夜空のようだった。


「私を、望むか?」


 熱い瞳と声だった。ソランは体の中に火を灯されて、小さく震えた。殿下のものとも自分のものともつかない、あまりにゆるぎない熱に、急に怖気づく気持ちが湧き上がる。ソランは目をあわせていられなくなって、目をつぶった。


「ソラン」


 魂を揺さぶられるような声で呼ばれる。この存在こそが、ソランの望みのすべてだと思い知る。逆らいようもなく、湧き上がる思いに押されて告げる。


「望みます」


 かき消えそうに小さな返答だった。だが、吐息さえ聞き取れる距離では、それで充分だった。


「では、これからはアティスと呼べ」


 突然そんなことを言われ、戸惑うソランに、催促するように口の端に唇を押し付ける。ソランはつっかえながら、その名を口にした。


「ア。アティス、さま?」


 口にした瞬間、自らそうすることによって、その響きが体に心に魂にはっきりと刻み込まれたように感じた。ソランのなにもかもが、その名の人を求めてやまなかった。


「ああ、そうだ。それが私の名だ」


 強く抱き締められて、耳元で言い聞かされた。頷いて、縋りつく。次々に溢れかえる思いに苦しくてたまらなかった。


「ソラン。では、ソランの望むままに、」


 殿下は、いや、アティスは、その先を言わなかった。いつかのように、口付けで思いを伝える。ソランは全身全霊でもってそれを受け入れた。

 求められるままに自分のすべてを与え、求めるままに相手のすべてを与えられる。ソランはそれ以上の喜びも幸せも知らないと思った。

 そして、その夜、彼はソランを一晩中腕の中に閉じ込めて、暁の光を見るまで、けっして離さないでいてくれたのだった。

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