4 王とは
カデナを出てからずっと山裾をまわりこむようにして東へと向かった。昼過ぎ、常にこんもりとあった左手側の山並みがようやく切れ、突然開けた視界に、ソランは息を呑んだ。
北には雪を頂いたハレイ山脈が神気を纏って連なり聳えていた。その手前の開けた大地には豊かな水が流れ、農地が広がり、その中央に、優しい姿をした美しい街があった。
王都はまるで、皿に山盛りに盛られた菓子に、真っ白いクリームを塗りつけたような姿をしていた。防壁がないために、白い石材で造られた建物が幾重にも複雑に重なって見える。中央部あたりは一段高くなって、城壁に囲まれた王城と、その中に建つ三つの塔が、仕上げの飾りのように日の光に照り映えていた。
ああ、帰って来れたのだ、とソランは思い、胸が熱くなった。王都にはたった数ヶ月いただけだったのに、懐かしく慕わしい気持ちでいっぱいになった。
道は王都の入り口である正門へと続いていた。その両脇に、重騎兵が出迎えとして何十騎も並んでいるのが、遠くからでもよく見えた。また、門には二つの旗が掲げてあった。一つは実り豊かな大地を示す深緑のウィシュタリアの国旗であり、もう一つは真紅の殿下の御印だった。
近付いていくにつれ、旗の中にきらきらと光る金糸で縫い取られた紋様が判別できるようになった。両方とも、東大陸と同じ名を持つマイリアノの花と太陽を意匠化した王家の紋が描かれており、殿下のものには、さらに宝剣の主であることを示す剣の図案も配されていた。
旗の図案が見分けられるほど正門に近付いたところで、ソランは殿下に名を呼ばれた。
「ソラン」
「はい」
穏やかな声に、ソランも落ち着いた気分で返事をした。手綱を放し、こちらへ手を伸ばしてくるのを見て、馬を寄せてその手を掴んだ。
殿下は静かな強いまなざしで見つめてきた。ソランはその瞳に吸い込まれるように意識を奪われ、王都を前にしてざわめく心が凪いでいくのを感じた。
「ソラン。おまえは私のものだ。おまえは、私以外の何ものにも仕えることを許さぬ」
突然の横暴なまでの申し渡しに、ソランは、ただ、はい、と答えた。否やなどあるわけもなかった。ソラン自身が何度も殿下に伝えてきたことでもあった。それは二人にとってただの確認に過ぎず、だからソランは殿下の真意を汲み取ろうと、まっすぐに視線を見交わし、次の言葉を待った。
「だが、もし、私の許から去りたくなった時は、私を殺せ。生きているかぎり、私はおまえを放してはやれん。おまえが逃げても、おまえを守る者も、おまえが守りたいものも、すべてを殺し、必ず滅ぼす。そうされたくなければ、殺してから逃げろ。よいな?」
「はい」
間髪入れず答えたソランに、殿下は苦笑を漏らした。何かを言おうとしたが、首を横に振って、自分でやめた。殿下もわかっているのだろう。言うまでもなく、ソランはそうするだろうと。
生きているかぎり、きっとこの思いは断ち切れない。それほど深く魂を絡め取られてしまっている。それはお互いにわかっていた。
今のソランには、お互いを愛する以外の感情が芽生えるとは思えなかったが、絶対になどと言い切るほど愚かにはなれなかった。殿下も同じなのだろう。だからこそ、もし、と言った。故にソランも、もしもの場合の返事をした。
そう。もしもいつか、不幸にもこの気持ちが愛ではないものに変わってしまったとしても、ソランも殿下も、愛したと同じ強さで相手を思い続けるのは疑いようもなかった。それを断ち切るには、相手を殺すか、自分が死ぬかしかないと、理屈ではなく本能で感じていた。きっとそれは、己の魂を殺すようなものなのだろうということも。
「いい返事だ」
やがて殿下は不敵に笑んで、ぎゅっと手を握り返してきた。
なぜ、今、そんな話をするのか、なんとなくだがソランにも感じるところはあった。たぶん、もう後戻りはできないからなのだろう。
あの門をくぐったら。王都へ踏み入れたら。
それでも殿下は、ソランに今さら決意を問うたりはしなかった。共に生きることを疑ったりはしなかった。その先の、もしもの時の約束をしただけだ。それも、ソランに死ねとは言わなかった。殺すとも言わなかった。ただ、自分を殺せと命じた。
甘い言葉で彩られていなくても、それは間違いなく深い愛情を告げるものだった。それ以上の何も示してもらう必要がないほど、充分すぎる言葉だった。
だから、ソランは気持ちのままに輝く笑顔で、何度も請うてきた願いを口にせずにはいられなかった。
「いつまでもお傍に置いてくださいませ」
「ああ。離すものか」
殿下も微笑んで強く頷いて、そして、名残惜しげに手を放したのだった。
殿下は、出迎えの重騎兵によって人払いされた正門をくぐり抜けたところで、馬を降りた。それにならい、まだ門をくぐっていない者も含めて、同行者全員が馬を降りた。
殿下は皆が見守る中、マントを払っておもむろにその場で跪いた。両手も地面について、ゆっくりと大地に口付ける。
いつのころからかはっきりしないが、軍備を持って王都に入る者は、このようにするのが倣いなのだそうだ。王都の主である王への恭順を示すものと言われているが、ソランには本来は違うものだったのではないかと感じられた。
王都を再び目にすることができたとき、それほど思い入れのないはずのソランでさえ、王都に対する言い知れぬ思慕を感じずにはいられなかったのだ。これが、ここから命懸けの戦に赴き戻ってきた者だったなら、その思いはもっと強かったことだろう。できることなら王都を抱き締め、その無事と、戻ってこれた己の幸運を喜びたかったにちがいない。
だから、大地に口付けることは、とても自然な感情の発露だったのではないかと思ったのだ。
殿下は顔を上げても、しばらく口付けた場所に目を落としたままだった。そして、ふっと慈愛に満ちた笑みを浮かべ、地面を一撫でしてから立ち上がった。再び馬にのぼる。それに従って、ソランたちも騎乗し、殿下を囲んだ。
肩から赤の飾り布を斜めに掛けた重騎兵の先導で、一行は進みだした。厩街を通り過ぎると急に明るく開け、向こうまで見渡すことができるようになる。
手前には船着場があり、その先には幾重にも複雑に重なる白い建物と、曲がりくねる水路と、それらを飾る瀟洒な橋があり、それらのそこかしこに赤と緑で飾り付けがされているのが見えた。そして、その全部を埋め尽くして、たくさんの人々が立っていた。
その人々からも、こちらの姿が見えたのだろう、いっぺんに、わっと歓声があがった。その中を、殿下は三百の軽騎兵とウィシュミシアとクレアの代表、それに馬車に乗せたエレーナたちを従えて、進んでいった。
人々は重騎兵たちと同様に、誰もがどこかに必ず赤を身につけていた。服や帽子や手袋や、そうでなければ赤いハンカチを腕に巻きつけている者もいた。口々に殿下の名を呼び、その横をやや遅れて行くソランの名も同じように呼んで、熱に浮かされたように手を振っていた。
ソランは冑を脱いで顔をさらしていた。微笑み、時々手を振ってみせると、それに合わせて人波が激しく揺れた。街中を埋め尽す彼らの手や体が動くことによって、まるで街全体が一つの生き物になって、慶びに踊っているように見えた。
道はどこも狭く、馬車がすれ違う程度の広さしかない。今は道沿いに人々がいるために、馬が二頭並んで進むのにやっとだ。
重騎兵の護衛だけでなく、所々に王都警備隊やジェナシス領の者、それ以外にも様々な配下の者が陰から見守っているのを見つけたが、ソランは艶やかに微笑みながらも警戒を解くことができなかった。これ以上の暗殺の好機はない。標的の通るルートは決まっており、道は複雑な上にたくさんの人出で、逃走には事欠かないのだから。
そうして神経を尖らせながらも、ソランは、彼らやカデナで受け取った熱気と、バートリエのものとの違いを、頭の隅で考え続けていた。
それはバートリエのように、ソランたちに力を与え、ただ高みへ押し上げていくだけのものではなかった。同時に縋りつき、絡みつく、どこかそら恐ろしい感覚も与えるものだったのだ。
ソランは押し寄せる熱狂の渦を受け流しながら、意識を広げて、それからはみ出る不穏な動きをする異質なものを拾い出そうとしていた。そうすると一人一人の顔や動きが頭に一つ一つ刻みついていくようで、膨大な量の情報に神経ばかりが冴え、体の感覚が薄れていった。
領地での祭事で冥界の神気を吸い込んだ時のように、体の中に、自分のものではない気が溢れ、猛烈な奔流となって通り過ぎていく。たくさんのたくさんの人々の声が思いが、ソランの中にこだました。
その瞬間。ソランは突然、目が覚めるような思いにとらわれた。この違和感の正体を、脈絡もなく悟った。
彼ら。ここに集う力無き彼らこそが、『国』なのだ。
『国』とは王を指すのではなく、ましてやそれぞれの地を支配する領主でもない。なぜなら、もしも彼らと諍って討ち滅ぼしてしまえば、残るのは空っぽの大地しかなくなってしまうのだから。そんなところを治めてなんになるというのか。ここにいる彼らがいるからこそ、治めるに足る地になるのではないのか。その意味で、彼らこそが、この『国』の本当の主なのだ。
そして、今まさに、その主の審判を我々は受けているのではないか。
歓声は祝福を孕み、振られる手はどれも、国の中枢である王城へと誘っている。それに安堵しながらも、ソランは慄然とせずにはおれなかった。
だとしたら。民こそが国なのだとしたら、王とはいったい何なのか。
瞬時に思い至った答えに、ソランは泣きたいような気持ちで、半歩先に行く殿下を見遣った。
王とは、『国』に仕える者のことを言うのではないか。そう、ここに集った彼らに。『民』に。
神官が神に仕えるように。いや、それ以上の覚悟を持って。命を懸けて、生涯を捧げて、己を捨てて。そんな風に公のために尽くすことのできる者は稀だ。だからこそ、人々はその尊い志を敬い、その下に平伏すのではないか。
民が王に仕えるのではない。王が民を支配するのではない。国を治めるとは、本来は力ではなく、民に仕えることによって、その総意を得て為されるべきものなのではないか。
殿下は、それを承知しておられる。覚悟を済ませておられる。ソランにはそうとしか思えなかった。
殿下は王都に入ってから、一度もソランを振り返ることはなかった。ただ前だけを見据えて、ゆっくりと馬を進めていた。その背中は大きく、そして孤高だった。
ソランは堪らない気持ちに胸が震えて痛んで、そっと苦しい息を繰り返した。こんな感傷は何の役にも立ちはしない。気持ちを息にのせて吐き出し、心を鎮めて、殿下をお守りするために、内向きになってしまった意識を再度広げようとする。
と、その時ふいに、さっき受け取ったばかりの言葉に、もう一度耳朶を打たれた気がした。
『おまえは私のものだ。おまえは、私以外の何ものにも仕えることを許さぬ』
ああ、そうか。そうだった。
ソランは深く得心し、悲しみと喜びに彩られた、見る者の心を捕らえて放さない表情を浮かべた。
殿下に寄り添うからといって、私まで人々に仕えることはない。私はこの方にだけ仕えればいい。唯一人の、私の『王』に。それがこの方の望みであり、私の望み。きっと、それだけでいいはずだ。
私にとってこの方は、出会ったときから心惹かれてやまない、光そのものなのだから。
美しい静かな微笑と決意を湛えた、世継ぎの君に寄り添うソランの姿は、人々の心を打った。
威風堂々とした王子とその婚約者の姿は、彼らの未来の確かな希望として胸に刻まれたのだった。