3 その誇りを与えたのは
クロゥの領主館へと戻るために馬車に乗り込み、人々の熱気から物理的に遮断されても、彼らの熱は、まだソランの心にも体にも宿ったままだった。そのため気分は高揚していたが、そんな自分すら少し離れて俯瞰している意識は常にあり、人々の熱狂も冷静に分析していた。
この熱は王族が彼らに庇護を与えている間だけ寄せられるものであって、彼らを失望させれば、あっという間に同じ質量の怨嗟になるのだろうと。そういった、移ろいやすく、また、やっかいなものなのだと。
ソランは馬車の座席に深く身を沈め、ほう、と息をついた。そんなソランの頬を、殿下がそっと撫ぜた。
「疲れたか」
「少し」
ソランは素直に頷いた。そして、尋ね返す。
「殿下はどうですか?」
「私か? そうだな、うん、少し」
苦笑する。そうとしか言えないことに気付いたのだろう。体にそれほどの負担はなくても、気疲れはあった。
今回、バートリエであったことは、本来ここまで大騒ぎするほどのものではない。マリーは噂の伝播に神殿も関わっていると言っていたが、おそらく意図的に人々を煽っているのだろう。問題は、誰が、であった。問わずとも知れてはいたが、ソランは確認をとっておくことにした。
「私に聖騎士の位を授けるという噂が流されているようですが」
「おまえに対する恩賞だ。私には王太子の位が下される。後でベイルから正式に陛下の御言葉が伝えられる予定だ」
殿下は当たり前のように、そう告げた。
「心苦しいばかりですが、お受けしないわけにはいかないのでしょうね」
ソランは目を伏せて溜息混じりに言った。
「おまえ以外の誰があんなことをできたものか。当然の褒美だ」
強く言い聞かせる調子の殿下の声につられて、視線を上げた。ソランはそれに抗議せずにはおれなかった。
「いいえ。今もバートリエの寒空の下で警備を続けている兵たちの功績です。そこへ横から出て行って、私が恩賞だけ攫ったようなものです。しかも噂にあるような実態はないのです。いくら私でも千の兵を一人で相手などできません。なぜそこまでして私の名を高めねばならないのですか」
「まったく、おまえは」
殿下は複雑に微笑んで、ソランの頬を両手で包みこんだ。どこか痛みを感じているようでありながら、瞳はひどく優しかった。
「だからだ。兵たちの献身を埋もれさせないためだ。あれらは未だ所属の決まらぬ私兵でしかない。王妃の命で謀反人の領地から切り離され、身柄を拘束されている身分だ。誰かがあれらを代表して功績を誇らねば、誰にも知られることのないまま埋もれてしまう」
ソランは、その理不尽さに奥歯を噛み締めた。残務処理で残っている間に触れ合った彼らは、非常に士気の高い、高潔な志を持った者たちだった。
ソランは彼らを思い出して泣きたくなった。眉を顰めて涙を我慢したが、声は震えたものになった。
「彼らこそが恩賞を受けるべきです。弱き者を守り、この国の礎となることを、あれほど誇りに思っている者たちこそが」
殿下は目を細めて、柔らかな笑みを零した。
「その誇りを与えたのは、おまえだ」
ソランは意味がわからず、瞬きを繰り返した。涙腺がゆるんで、視界が歪む。
「覚えておらんか。おまえは決闘の最中に、ウィシュタリア軍は、と言ったのだ。
おまえが、ではなく、ウィシュタリア軍は、弱き者を虐げる者に容赦はせぬ、と。逃げる者を必ず捕らえ、死を与える、と。
おまえはあれらを信じ、背中を任せた。その時から、あの決闘はおまえだけのものではなく、あれら自身のものになったのだ。
だから、そのおまえの誉れを一番喜ぶのは、あれらだ」
涙が一粒だけこぼれた。ソランは鼻をすすりあげた。ソランはなにも特別なことを言ったわけではなかった。ただ、当たり前のことを言っただけだったのに。
「私は、どうやって彼らに報いればいいのでしょう」
「おまえが与えたもので充分だと思うが?」
そこで殿下はソランと額を合わせ、至近距離で瞳を覗きこんで、ふっと笑った。
「納得しておらんな。では、これならどうだ。どうせあれらとは長い付き合いになる。そのうち、必ず報いる機会は巡って来よう。その時に返せばよい」
「はい」
ソランはやっと気持ちに区切りをつけることができて、小さく頷いた。ソランの気分が落ち着いたのを悟ると、殿下は涙の跡に口付けてから、体を起こした。頬の手が離され、代わって手を握られる。
「聖騎士の名はそれだけで抑止力になる。リリア・コランティアがそうであるように。私が王都を離れる際には、その名と与えた旗が、おまえの盾となってくれるだろう」
ソランは聞き捨てならない言葉に、座席の背面から弾かれたように背を離した。殿下へと体ごと向き直る。
「それは私を置いて戦にいらっしゃるということですか?」
「おまえとて、出産の前後はどうにもならんだろう」
さらりと言われて、なぜか自分の妊娠した姿が思わず思い浮かび、言葉に詰まって赤面した。
「おまえの傍を離れたくはないが、こればかりはわからんからな。もちろんある程度は状況をコントロールするが、手の及ばんことは必ず起こる。それは許せ」
殿下は先のことまで考えて、常にソランを守ってくれようとしている。そう気付いたら、急に自分の手を掴んでいる手も、隣にある体も、とても大きいものに感じられ、対して自分が小さな可愛らしいものになってしまったような気がした。
そして、自分の片腕にむくむくしたちっちゃな赤ん坊を抱き、もう片方には幼児を抱いて、その子供たちごと広い胸に抱き締めてもらう映像が頭の中を流れ、ソランは一人で恥らって息を止めた。
殿下に伝わるはずもないのにバレそうな気がして、その前に妄想を追い払おうと力んで、ぎゅっと拳を握る。
「どうした?」
「なにもないです!」
勢いよく否定し、しまった、と思った時には遅く、ニヤリとした殿下が、ソランへと身を屈ませた。
「やけに挙動不審だな。なんだ? 白状しろ」
握っていた手が再び頬をすっと撫で、次いで、ついっと下唇に添って触れる。その艶かしい感触に、ソランはびくりと身を震わせた。
「さて。思いを込めた口付けの一つもして請わねば、教えていただけぬか、婚約者殿?」
殿下の目は本気だった。全精力を傾けて、ソランに吐かせようとしている。どういうわけか、殿下はソランが恥らって口にしたくないことばかり言わせようとする。彼は基本的にいじめっ子気質なのだろう。その上、我儘で傲慢で人の迷惑は顧みない。いつでも最後はソランが折れるしかなくなる。
ソランは諦めて、それでも恥ずかしさに目を逸らして口にした。
「こ、こどもは何人……」
欲しいですか、は言えなかった。不自然に黙ったソランに殿下は身を寄せ、おまえは? と耳元で囁いた。息が耳に当たり、ソランは身を竦ませた。
「ひ、一人よりは、兄弟があったほうが」
「うん、そうだな。私もそう思うぞ」
「では、ふ、ふたり、は?」
「遠慮するな」
「え? えーと、では、さん? よにん?」
殿下が答えてくれないので、人数を増やしていく。
「ごにん? ろくにん? しちにん? あの、多くないですか?」
恐る恐る聞くと、くくくく、とおかしくて仕方ないという笑い声がした。ソランは座席の上で許される限り身を大きく引き離して、殿下を睨みつけた。
「からかいましたね!!」
「からかってはおらん」
腹を抱えて笑っているくせに、息も切れ切れにそんなことを言う。ソランは馬車の床面を踏み鳴らして、地団駄踏んだ。
「殿下なんて、もう知りませんっ」
「待て、真面目に聞いたんだ。聞いたんだが」
おさまりかけていたのに、殿下がまた発作的に笑いだした。そして、苦しそうに笑いながら呻く。
「おまえこそ。腹が痛いだろうっ」
なんでソランのせいになるのだ。これがイアルなら殴り倒してやるのに。
拳を握りつつも、ぷいと顔を背けた。
ひとしきり笑い終えると、殿下はぐったりと背もたれに寄りかかって、手だけ伸ばしてソランの手を掴んだ。それを振り払おうとしたが、しっかりと掴まれていて敵わなかった。
「おまえが望むなら、私はいくらでも付き合う。五人だろうが十人だろうがかまわん。全員かわいがってしっかり養育する。私たちの子だ。変わり者は生まれても、馬鹿はおらんだろう。先が楽しみだな?」
ソランは顔は背けつつも、手を振り払うのはやめた。殿下の言い様に、もう、ほだされつつあった。
殿下は拒絶されないと見て取ると、ソランの腰に腕をまわし、傍へと引寄せた。そうして、こめかみに口付ける。
「だが、残念だ。さっそくといきたいところだが、フェイルの奴が屋敷じゅうに念入りな警備を布いている。寝室の壁という壁の向こうで、耳をすませた兵が一晩中部屋の中を窺っているだろうからな。奴らにおまえの可愛い声を聞かせるのは業腹だ」
そこで、深い深い溜息をついた。
「仕方ない。今日は、おまえはマリーと同室で休むといい。女同士、積もる話もあるだろう。私は一人寝をかこつとしよう」
勝手なことを言うだけ言うと、ソランの腰を強く抱き、頭に頬をくっつけて、またもや溜息をつく。そんな殿下に、ソランはどうやっても、どうにも勝てない気しかしないのだった。