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暁にもう一度  作者: 伊簑木サイ
第十一章 解呪
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2 どうか、幸いを

 ソランの仕度がすむと、殿下が自ら迎えに来た。いつものように黒尽くめだったが、コートは艶やかに光る毛皮であり、それが長身に良く映えて、非常に豪勢でしかも端正だった。ソランは見惚れたまま、近付いてくる殿下から目を逸らすことができなかった。

 対するソランは、黄味の強いクリーム色のドレスにピンクの真珠をあしらい、女性らしい優しさが強調されて、まるで花のようだった。もっとも、装飾を施した剣帯で剣は吊っていたのだが。それでも所作に違和感がないので、凛とした美貌の彼女には、それもまた装身具の一つのように良く似合っていた。


 殿下は無言だったが、愛情深く微笑んで彼女を抱き締め、額に口付けた。それから楽しそうに瞳を覗きこむと、左の頬、右の頬の順にしてから、鼻の頭にもした。もう一度目を見交わし、今度は唇へ、とソランが身構えたところで、マリーが声を掛けた。


「化粧が崩れます。どうかお控えを」


 殿下はそれにかまわず、我に返って人目を気にするソランに微笑みかけてから、リップ音をたてて軽く口付けた。そして、悪戯っぽく尋ねる。


「口紅が移ってしまったか?」


 殿下の唇に言うとおりのものを認めて、かあっと頬が熱くなる。答えを待っている殿下に、少し、と小声で答えると、


「ぬぐってくれ」


 たしかにこのままで外に行かせるわけにはいかない。素直に従って恐る恐る殿下の唇に触れると、それにもチュッと吸い付かれた。思わず息を吸って硬直して、目を見開いたままさらに真っ赤になったソランを、殿下はゆったりと抱き込み、マリーへと振り返った。


「ご苦労だった、マリー。今日のソランは殊の外美しい。このまま寝室へ連れ込みたいほどだ。良い仕事ぶりだ」

「お褒めにあずかり光栄です」


 ソランは殿下の腕の中で、マリーの冷え冷えとした声を聞いた。ソランにだけわかる程度に、殿下が喉の奥で、くくっと笑う。 

 殿下はどうも、マリーをからかって楽しんでいる節がある。ディーの例から見て、気に入っていると見ていいのだろう。

 ソランはどきどきしてしかたない指先を折りこみながら、幸せな気分になった。マリーの魅力を誇りたい気持ちと、そうやって、殿下がどうでもいいようなことでマリーと張り合って、寛いでいるのがわかったからだった。


 初めて会った頃、殿下はいつも気を張り詰めて難しい顔ばかりしていた。ディーをからかったり、将軍と会っているときに、時々わずかに表情がゆるむ程度。それでも時折見せる笑みはとても魅力的で、ソランはよく、もっとそれを見たいと願ったものだった。

 それがいつからか頻繁に見られるようになり、それにしたがって、余裕を持って人と相対するようになったように感じる。敵か味方か、ではなく、敵ならば味方に、とでもいうような。それを可能にするだけの魅力が今の殿下にはあった。

 殿下を縛っていた重く固い何かが解け、内面に隠し持っていた光が溢れ出してきているのだ。ソランは満たされた思いで殿下の胸に頬を寄せ、微笑んだ。

 足音が近付いてきて、ソラン様、と声を掛けられる。


「コートをお召しください」


 殿下が抱える腕を離すと、マリーが黄金色の毛皮を着せ掛けてくれた。


「ありがとう、マリー」


 彼女の奮闘の証だろう、ほつれた髪をすくってそっと編みこみの中に差し戻してあげる。マリーは喜びと悲しみと憤懣の入り混じった様子で、唇を引き結んだ。そのいたいけな表情に、胸の奥がきゅっと締まる。


「ごめんね、マリー」


 ソランは囁いて彼女の頬に口付けた。




 フェルト神殿の神官は、カデナ領の領主であり、ベイルの父である、フェイル・クロゥだ。婚約の決まったソランたちに、これから子宝と安産の祈祷を行ってくれるという。

 もてなしの一環だが、これで早々に二人に子供ができたら、カデナのフェルト神殿の名は上がり、訪れる人が増え、この町は潤うだろう。

 それは取りも直さずクロゥ家の収入が増えることであり、ベイルを通じて、殿下の為になることでもあった。


 また、王都の西の入り口となるカデナ領と、殿下との強い結びつきを示すことも、重要な理由だった。東の要はディーがいずれ継ぐことになっているし、南はキエラに行く際に寄っている。今回の事は、政治的に必要な訪問でもあった。


 ソランは、殿下と腕を組んで馬車寄せへと向かって建物の中を歩きながら、いつもの癖で警戒して、意識を散じて周りの気配を探っていた。初めての場所であり、多くの人がいて雑多にざわめいていて酷く掴みにくい。落ち着かず、臨戦態勢で備えていた。

 と、突然殿下が足を止め、ソランの鼻を摘んだ。何事かと殿下を見る。


「かたい。もっと優雅に」

「はい。すみません」


 とっさに骨の髄まで染み込んだ武官の礼で頭を下げようとしたのを、額に手を添えられて止められた。その手が滑り、頬を包むように当てられる。


「おまえは、楽しみではないのか?」


 殿下の瞳に、しようがない奴だ、というような色を見付けて、ソランは殿下の手へと頭を預けるように首を傾げた。


「私たちは結婚する。それに幸多かれと祈ってくれるというのだ。これほど嬉しいことはないだろう」


 結婚という言葉に、ソランの心臓がいっぺんに騒がしくなった。


「私が夫でおまえが妻だ。実にいい響きだな?」


 ソランがドギマギしているのを見抜いて、クスリと笑う。


「そうだ、そういう初々しい顔をしていろ。今は警備のことは考えなくていい。ただ、私の婚約者であればよいのだ」


 ああ、そうだった。常に愛情を示してくださるこの方のためにも、私は文句の付けようのない淑女にならなければいけないのだった。できないなどと弱音を吐いてはいられない。

 ソランは瞬時に気持ちを切り替え、頬にある殿下の手を力強く握って、気合いを込めて返事をした。


「はい。承知しました。全力を尽くして淑女として振る舞います」

「おまえは、まったく」


 なぜか殿下は呆れた顔をした。そして、おかしそうに喉の奥でクツクツと笑いはじめる。


「おまえは最高に可愛いな」


 そうして堪えきれないとばかりに、あははは、と声を上げて笑ったのだった。




 殿下の大笑いにはまったくもって納得がいかない旨を、馬車の中で言い募ってみたのだが、どういうわけか殿下はもっと上機嫌になって、自分の膝の上にソランを抱え上げた。(あらが)ったが、いやか? と艶っぽい声で耳元で言われると、どうにも拒絶できなくなる。

 馬車の揺れに体勢を崩して殿下にしがみつけば首筋に顔を寄せられ、とんでもない感覚に身をよじったところで馬車が停まった。


 扉がノックされる。ソランが急いで元の座席へ戻ろうとしているのに、殿下は腰を抱いたま放してくれなかった。そのせいで、扉の開いた先で待ち構えていたディーと目が合い、とんでもなく気まずい思いをした。彼の方からそっと目を逸らしてくれたのが、余計にいたたまれなかった。


 殿下はやっとソランを下ろすと、先に自分が馬車から降りて、ソランに手を貸してくれた。その仕草が見たこともないほど紳士的で、一連の行為のとどめのように、ソランの心を射抜いた。

 最早全身が心臓になってしまったようだった。胸といわず指先といわず、体中が疼いて動かせず、ソランは体を支えられたまま真っ赤になって不器用に立ち尽くした。


 女に興味がなく、扱い方を知らない? そんなのは嘘だ。女を落とす手練手管に通暁しているとしか思えない。だって、ソランはまさに生け捕り状態ではないか。

 しかし、殿下の浮いた話など誰も聞いたことがなく、そもそも女だとバレたら局から追い出されると言われていたのだ。ミルフェ姫も兄弟喧嘩をしながら苦言を呈していた。ということは、持って生まれた才能なのだろうか。

 なんて迷惑な才能だろう。迷惑、という点で殿下らしいと言えばらしかったが。

 そのうち本当にソランの心臓が壊れてしまいそうだった。


「行くぞ?」


 ソランは辛うじて頷き、さし伸べられた腕に己の腕をからめた。殿下が退いたことで正面が開け、篝火と警備兵が、道に沿ってずらりと並んでいるのが見えた。

 そこから横に視線を転ずれば、二十メートルほどの空白地帯がおかれ、もっと物々しい警備兵に遮られて群集がこちらを見ていた。

 ソランの中から熱気が抜けていき、瞬時に全身に緊張が漲った。殿下の色香に惑わされている場合ではなかった。とんだ失態だ。


「アティス様!」


 どこからか掛けられた声に、殿下が応えて手を上げた。それを見て、わぁっと歓声があがり、我も我もと呼びかけてくる。そこにソランの名も混じっていた。殿下がソランを見下ろし、手を振ってやれ、と言う。ソランは笑顔を作り、手を上げた。人波が不規則に動き、騒がしくなり、熱気が高まる。ひとしきり手を振ってから、その中を歩き始めた。


 彼らは次代の王を見に来たのだ。『エランサ侵攻』などという報を聞けば、誰もが心穏やかではいられなかっただろう。それを追い払ったという人物を、王太子に一番相応しいと囁かれている人物を、本当に噂通りであるのか、その目で確かめたかったのだろう。


 この軍事大国において、戦を治める手腕を持つことは、恐らく何より求められることだ。殿下には間違いなくその才がある。だが、それをわかりやすく示すことはできない。

 だからこそこんな風にするしかないのだ。本物の戦功と、虚実混合の噂と、実物でそれを上回る威厳を見せて示すしか。

 本来の殿下はこんな華美な衣裳を好みはしない。ソランとて、こんな高級品、こんな理由でもなければ恐れ多くて袖を通せるものではなかった。しかし、貧相な格好の人物に、信頼を寄せるのは難しいだろう。まずは、人々の信頼を得ること、不要な不安を植えつけないことが肝心だった。


 ソランは、為政者が最も為さねばならないことは、民に安寧をもたらすことだと思っている。衣食住が足り、明日を安心して迎えられるようにすることだと。祖父に口で直接諭されたことはない。ジェナシス領を治める勉強をしながら、毎日の生活の中から、そのように学び取った。

 そのためには、国を荒れさせないこと、つまりは戦を減らすことが必要だ。天候の異変も大規模な被害をもたらすが、それは多分に局地的だ。人も物も大量に消費するだけの戦は、国そのものを弱体化させる。


 ただ、情勢は厳しい。いずれ訪れるエーランディア聖国に備え、まずは国内の改革が必要であり、恐らく戦火は避けられないだろう。

 近い内に国民に苦難を強いることになる。その時、この歓声が失望の怒声に変わるか、それとも助力を誓う鬨の声になるか。殿下やソランたちのこれからの行動に、それがかかっているのだ。


 ソランは殿下の腕に絡めた手に、力を込めた。バートリエでも感じた、目の前に道が開けていく感覚だった。殿下は前を見たまま、わずかに腕を引寄せることによって応えてくれた。きっと同じものを感じているに違いない。

 辿り着きたい未来に行き着くために払われる、たくさんの苦難と苦悩と、この歓声に象徴される栄光と重圧を。


 ソランは静謐を湛えて殿下に寄り添った。迷いはなかった。恐れもなかった。この人と共に歩む、いつでもそれしかソランにはないのだった。




 神殿の奥の広間は天井が窓に覆われており、傾いた日を受けて穏やかに輝いていた。ソランは殿下と並んで椅子に座り、麦穂を持った巫女が神官の祝詞に合わせて舞い踊るのを見守った。

 それは個人の願いを神に届けるというよりも、女神の与えてくださる豊穣と子宝に感謝を捧げ、褒め称え、次の恵みも請うものだった。


 それを見ながら、無駄だと思っていた神々に『願う』という行為が、そうではなかったのだと思い至った。

 たしかに最早神々は地上にはいない。失われた神によって、天界と地上は切り離されてしまった。それでも神々の思い描いた理想は息吹となってこの世界を巡り、(ことわり)として地上を潤している。フェルトの恵みが途絶えることなく毎年もたらされるように。

 それは、人の手ではいかんともしがたい神々の業だ。それらの前では、人はただ、請い願うしかないのだろう。

 だから、ソランも殿下と共に祈りを捧げた。巡る息吹の一つでも、この願いに呼応してくれればと願いながら。


 本当はソランだとて、良く知りもしない人々の幸福までを願ったりはしない。ソランは殿下とは違う。エニュー砦で王都周辺を見下ろして、この地の豊かさに神々に感謝を捧げはしても、守らねば、などと思いはしなかった。ただ、殿下と領民と家族と親しくなった人々が、心安く暮らせることが第一だった。

 でも、それにはこの国が安泰である必要があり、それは何よりも殿下の願いだった。息をするのと同じくらい自然に、殿下の行動の一つ一つが、それを基準にしているのは疑いようもなかった。

 ソランが誰よりもその幸いを望む人の幸せは、そうした先にしかない。今歩んでいる、この道の先にしかないのだ。


 だからどうか、フェルトの恵みが滞りなく繰り返されますように。そして少しでも多くの安寧が、地上にとどまってくれますように。

 この地に生きる人々と、彼らのために生きる殿下のために。どうか、幸いを。


 ソランは全霊を傾け、『世界』そのものに祈りを捧げた。

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