閑話 黒の神官
アティスの護衛をしていたエメット・グラシテが死んだのは、花が咲き乱れる頃だった。若葉が深い緑に変わる手前の美しい季節だった。
その頃のアティスは、木々の多い王宮の庭に住み着く数多のスズメに夢中だった。毎日庭を隅から隅まで歩き回り、子スズメが落ちていないか探していた。見つけると拾ってきて、飼うのだ。
飼えば子スズメの餌がいる。パン屑を与えたりもしていたが、親スズメを良く観察して小さな虫を与えているのを発見すると、今度は子スズメ探しの途中で捕まえた虫を、服のポケットに突っ込むようになった。
今はエメット婦人と呼ばれているジェニファーが、脱いだ服を片付けようとしてうっかりポケットの中に手を入れてしまい、すさまじい悲鳴をあげたことがあった。あの時は、暗殺者に襲われたかと誤解して、王宮中に緊張が走ったものだった。
先の大乱の残党狩りがほぼ落ち着いたとはいえ、まだ戦いの記憶の生々しい頃だった。また、早くも派閥ができ、きな臭くなってきた頃でもあった。
だが、明るく屈託のないあの子に、よけいな恐れや憎しみを植えつけようとする大人はいなかった。細心の注意を払って守りながら、宝剣の主を歪めないよう、伸び伸びと育てられていた。
幼い頃から観察力に優れ賢かったあの子は、年々護衛をまくのがうまくなっていた。本人は鬼ごっこや隠れん坊のつもりだったのだろう。姿が見えなくなる度に大騒ぎして探したものだが、大人たちは特に咎めはしなかった。まだ戦えないあの子に何かあった時、助かるためには上手に隠れる必要がある。それは必要な技能だったのだ。
しかし、その隙を衝かれてアティスは襲われ、優秀だったエメットは駆けつけて自分の命と引き換えにあの子を守りきった。
下手人は、社交界に出た私に娘を盛んに会わせていた男の手の者だった。
やりきれなかった。
お転婆でアティスといい勝負だったジェニファーは、婚約者を失って憂いを秘めた乙女となり、あれほど駆けずり回っていたアティスは、黙って窓辺で空を見上げるばかりとなった。
もう少しアティスが大きくなり、王族としての責務を負えるようになったら、私は臣下に下るつもりだったのだ。いずれあの子のために使う命だ。それまでは私が矢面に立ち、あの子を守るつもりだった。しかし、それが裏目に出た。
アティスとでは年上すぎて相手にならない娘を持つ親は、私が王位に就くことを望んだ。娘を王妃として覇権を握るために。
母が殺さなくても、私が望まなくても、前世と同じように、私の存在があの子を殺す。
とうとう預言の時が来たのだと悟った。
『その時がきたら、宝剣の主のために命を差し出しなさい。我はおまえの決心に慈悲を与えよう』
幼き日に、妖艶で美しい黒の神官イリス・ファレノが、無慈悲な女神の声で、私に囁いた約束の時が。
事件があった数日後、イリスが面会を申し込んできた。
先の大乱ではジェナシスの民を率いるアーサーに従い、あまり体が丈夫ではないのにその医術で以って献身的に人々を救った彼女は、聖女と慕われ崇められている女性だった。
だが、それは彼女の表の顔。
彼女のもう一つの顔は、政治の中枢にいる一握りの人間しか知らない。
慈悲深き無慈悲な女神の巫女たる彼女の降ろした神託によって、先の大乱が企てられたのだとは。
その彼女が小さなガラス瓶を渡してきた。アティスの目の色に似た、きれいな緑色の小瓶だった。
「女神が待っておられます。眠るように苦しまずに逝けましょう」
彼女は目を合わせることもなく礼をし、部屋を出て行った。
私は小瓶を光に透かして見た。そうするとまったくアティスの目の色と同じになった。あの子の瞳が楽しげに踊るように、少量の液体が揺れていた。
不死人にとって、死は新しい生の始まりでしかない。これを飲むだけで眠るように逝けるというのなら、服を着替えるのと大差なかった。
その夜、私はそれを飲んで眠りについたのだった。
けれど。
「兄上! 兄上!」
どういうわけか、その夜に限ってアティスは私の寝室を訪ねてきて、私の異変に気付いたのだった。
そして、アティスの幼い必死の呼び声に私は引き留められた。目覚めるはずのない眠りから引き戻され、宮廷医師たちの尽力によって命を取り留めた。
家族や私を担ごうとしていた領主たちの嘆きの中、いうことをきかなくなった生きるだけで苦痛をもたらす体を抱えて、私は深い安心を覚えた。
ああ、やっと罰を与えられたのだ、と。あの子を殺した罪を、これで贖えるのだ、と。
確かにこれは女神の慈悲だと、そう思ったのだった。
それが間違いだったと悟ったのは、あの日。新しい黒の神官に見えた時。
私の懺悔を聞きながら、あの子の感じただろう痛みを知っているかのように、あの方は泣かれた。私たちのしてきた勝手に怒りを見せられた。
そうして、あの子の真の望みは武力に拠らない平和なのだと、人には過ぎる理想を語られた。
女神の愛し子、世界の欠片たる失われた神。当時のあの子に加護を与え、宝剣を授けた存在は、人として在り得べからざる孤絶した美しい本質を変えずに甦られた。
あの方の描く世界に、人は届くことができない。人はそれほど強くもなければ純粋でもない。地を這いずりまわって生きている我らには。
でも、それが神の、いや、世界の意志だというのなら、我ら人は従うしかない。ただただ赦しと加護を願うしかない。
跪き、乞い願った私に、あの方は仰られた。生きて、あの子の力となれ、と。
私の手を取り覗き込んだ瞳には責める色は欠片もなく、どこまでも明るく透き通ったものしかなかった。
その時、染み入るように理解した。私は許されていたのだと。私は、いいや、私たち人は、生きることを許され、この大地に生きているのだと。それこそが世界の意志であり、それに、人も不死人も関係ないのだと。
真に神々の意志に従うというのなら、我らは生き貫くことをこそ心掛けねばならないのだ。後悔に言い訳ばかりして、死んでみせたとしても、なんの償いにもなりはしない。逃げずに、この生と向き合うべきだったのだ。
恐らく、許しとは与えられるだけのものではないのだろう。私がそうだったように、与えられたとて気付けなければ、それまでなのだから。だからたぶん、それは己の中に受け入れるものでもあるのだ。
私が私であることを。罪も喜びも望みも欲望も、すべてに目を逸らさず。
生きていることこそが、許されている証なのだから。
たとえどんな終わりが訪れたとしても、生き貫いた生にこそ意味があり、神々はそれをこそお悦びになるのだろうから。
法改正の草稿を考えるのに疲れ、エルファリアは休憩にミアーハにお茶を淹れてもらうことにした。彼はカップに口を付けながら、ベッドの上に散らかった書類を片付けてくれている彼女に尋ねた。
「噂は王都にまで広まったのかい?」
「はい。王宮のものよりすごいことになったものが」
彼女は溜息に似た苦笑を漏らした。
「一万の軍勢をたった一人で迎え撃ったことになっているようです」
「それはちょっと行き過ぎだね。今頃、訂正の噂を流すのに躍起になっているのかな」
「そのようですね。あれではソラン様がおかわいそうです」
そこに心底の同情を感じ、彼は首を傾げた。
「かわいそう?」
「ええ。どこの女性が筋骨隆々の偉丈夫だなどと語られたいものですか。まことしやかに流れていたアティス様の女性に興味がないという噂や、男装していた頃の話が混ざって、熊の化身のような語りようですわ」
エルファリアはこみ上げた笑いに、思わずむせた。ごほごほと咳き込み、お茶をこぼしてしまう。カップは優しく引き取られていき、温かい手が背をさすってくれた。
「ああ、大丈夫。発作ではないから」
「はい」
ミアーハは穏やかな笑みを浮かべた。この頃は体調も良く、こうやってベッドの上で起きていられる時間が延びている。他の何ができなくても、エルファリアが安らかでいられる、それだけで彼女は掛け替えのないことだと喜んでくれる。
彼は布巾で濡れた箇所を拭う彼女の手を取って握った。
ずっと、許されないと思い込んでいた。『命じた者』と『実行した者』が幸せを得るなど。また、今生では彼の存在故に死んでいったエメットたちに対しても。
でも、それはたぶん違う。エメットもジェニファーも、そんな償いを求めたりするような人物ではない。そして、アティスも失われた神も女神も。
許さなかったのは己自身を投影した彼らでしかなかった。許せなかったのは自分だったのだ。
本当の彼らは、ただ、生きなさい、と言うだけだ。すべてを受け入れて、自分の命を生きなさい、と。時に無慈悲に見えるほど、慈悲深く。
彼はずっと考えていたことを口にした。
「ミアーハ、アティスたちに子供が生まれたら、私と結婚してもらえるかい?」
彼女は目を瞠った。不安に瞳が揺れる。彼女もまた、自分の影に怯えているのだ。
「ソラン様はきっと喜んでくださる。アティスも。慈悲深き女神も」
「女神も?」
本当に? 言葉にならない思いを汲み取って、頷く。
「私たちが逃げずにこの命を全うすれば。女神はそれこそをお望みだ。だから、お願いだ、ミアーハ。私と共に生きてはくれまいか。私には貴女が必要なんだ」
エルファリアを見つめる彼女の瞳に涙が盛り上がって、ほろほろと零れ落ちた。彼は答えられない彼女の頭を引寄せて胸元に抱え込んだ。
「大丈夫。私たちも幸せを求めていいんだよ。ソラン様がそう教えてくださった」
人は苦しみしか見えない中では生きていけない。どんなにわずかでも、光ある未来が望めなければ、死に逃げることばかり夢想するようになる。エルファリアがそうであったように。
生きるとは、絶対に、死を待つ行為ではない。ならば、生きるために、エルファリアたちも光を求めなければならない。どんなに怖くても。罪悪感に苛まれても。
生きなさい、と言われた時から考え続けていた、それが彼の辿り着いた答えだった。
そして、未来を望むのなら、彼はミアーハとそれを分かち合いたかった。痛みも苦しみも、なによりも喜びを共に。
ミアーハの腕が伸ばされ、彼の背に縋りつくようにまわされる。
「幸せになろう、ミアーハ」
エルファリアは彼女の嗚咽が静まるまで、そっと優しく頭を撫ぜ続けた。