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暁にもう一度  作者: 伊簑木サイ
第十章 バートリエ事変
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閑話 『英雄』たちの舞台裏

 桟橋まで戻ったところで馬を降りた。旗は竿から外させ、ソランに羽織らせた。

 普通、戦闘に参加する騎士は旗持ちをしない。騎士見習いの仕事だ。が、今回のように特別な場合は、騎士は常に利き手を空けるために左腕一本で旗を掲げる。

 騎士であればそのくらいのことは当然とされているが、実はかなりの腕力を必要とする重労働だ。緻密に丈夫に織られた旗自体の重みもあるが、それを支える竿も折れないように頑丈なもので、それらが風に翻弄されるままに翻ると、一定の角度に保つことすら難しい。


 旗を離したソランの手は小刻みに震えていて、それを隠すためだろう、強く握りこみ、脇に降ろされた。

 イアルが竿から外したそれを、アティスは受け取り、ソランの背に掛けてやる。胸元で掴みやすいように引寄せてやりながら、そのまま気楽な調子で話し掛けた。


「スーシャが船で湯を用意して待っている。どうだ、嬉しかろう?」


 ソランは疲れも見せずに笑った。


「楽しみですね。ずいぶんな贅沢です」


 基本的に船の中に火気は持ち込まない。火事がおきたら船ごと水底に沈むしかなくなるからだ。だが、ジェナスの船は違う。賢者の国の国主たる彼女のために、この世の最高峰の技術で以って陸地と同じ生活ができるように設計されているのだ。

 普通の船なら荷を積むためにほとんどのスペースが取られ、乗員には寝る分しか与えられないものだが、あの船はジェナス一人を運ぶための船なのである。彼女の居住空間はもちろんだが、それ以外は綺麗な水や温かい湯や食事を用意するための施設に割かれているのだった。

 豪華な客室があるのも知っていたから、もとから船の移動ならば彼女の船に乗り込もうと思っていた。暗く狭く不衛生で壁の薄い何から何まで筒抜けの船になど、なるべくならソランを乗せたくなどなかったからだ。


 船に乗り込むと、出迎えた船長に旗を託し、すぐにマストに掲げさせた。ソランをいつもの寝室として使っている客室ではなく、ジェナスの居室に案内させ、アティスは全員に休憩を申し渡した。

 自分も客室に移動しようとし、やはり気になってソランのいるほうへと赴く。居室前の護衛室に入るとイアルがベンチに座っていた。自然に立ち上がって、どうぞ、と譲られる。そして、彼は扉の脇に立った。


 アティスは遠慮なく四人掛けのそこに一人で座り、ディーに鎧を脱ぐのを手伝わせた。そうする権利のある地位にあり、それに見合う義務と責任を負っていると自覚した時から、それに相応しい態度を取るのも義務の内だと心得ている。

 それでも、闘う者を前にし、じっとしているのは辛いものだ。たとえソランをあの場で失おうと、泰然自若としていなければならなかったのだから。


 今回のことは、完全に策に溺れたのだと自覚していた。大軍を動かせば、それに見合う戦果がいる。たかが八百ほどの敗残兵を叩いて終わりにするわけにはいかなかった。

 また、実際に戦闘になれば、たとえ相手が少数であっても、こちらも無傷ではすませられない。こんなつまらぬことのために、一兵卒でも失うのは避けたかった。


 新王太子領となる、元は敵地であった領地で養われた騎士や兵の心を、順番に時間をかけて把握していけば、今回のことは避けられたのかもしれない。だが、平穏な状況の中、人の心を捉え、信頼を得るには時間が掛かる。まして、自分にはそれほどの人望がないことも承知していた。アティスはソランのように、溶け込むようにして人々の間に入ってはいけない。そのかわり、非常の下では彼らを支配する自信があった。


 その非常を演出するために選んだのがバートリエであり、エランサ軍の侵入であった。しかし、エランサの指揮官エンレイはそれを察知し、別の手を打ってきた。それも彼の弁明を信じるならば、五割は偶発であったらしいが。少なくとも、女性たちを伴う気はなかったのだと言っていたのは、本当なのだろう。


 状況は刻々と変化する。それに対応するための優秀な部下たちだ。この状況下でアティスがなさねばならない最低限の事は、ウィシュタリア、クレア、ミシアの三国の国境を守ることであり、民に被害が及ばない様にする事であった。それは間違いなく行えた。すべて、部下たちのおかげだった。


 己が一人でできることなど、高が知れている。武芸に特別秀でているわけでもなければ、天才的な頭脳を持っているわけでもない。稀に驚くほど運の良い者もいるが、むしろ自分の間の悪さは平均より悪いのではないかとすら思う。第二王子であるのに宝剣の主であるなど、その最たるものだろう。


 それでもこのような立場にあるのは、血筋と宝剣のせいだ。そして、それのおかげで才能に溢れた彼らの力を集め、使うことができる。アティスにできるのは、彼らに為すべきことを示し、行為に及んだ時には、その結果に対する責任を負うことだけだった。


 だが、それが今日ほど辛いと感じた日はなかった。

 幼い日に、護衛をしてくれていたエメット婦人の婚約者を失ってから、まわりの人間とは距離を置くようにしてきた。だからといって彼らを失う痛みが減るわけではなかったが、少なくとも取り乱さぬくらいの心構えを持つことはできた。


 しかし、ソランに対してそれはできない。彼女は彼のすべてだからだ。

 彼女がいるからこそ生きたい。生きたいからこそどんなことも背負う覚悟ができる。その彼女を失えば、生きてなどいたくなかった。

 それでも彼女との生を意味のないものにしたくなければ、彼女を失っても生き続けるしかない。美しいはずのこの世は、だからこそよけいに耐え難い獄舎となるだろう。

 彼はソランの背を見守りながら、一人残されることばかり考えていた。最も恐れることを考えずにはいられなかったのだ。


 代われるものなら、代わりたかった。他の者でよいなら、別の誰かに任せていた。それができないからこそのこの状況であると理解しているつもりであったのに、心がいうことをきかなかった。心拍が速まり、じっとりと嫌な汗を掻き、手足は感覚がなくなるほど冷たくなった。


 アティスがエランサ人の女たちを保護すれば、たとえ何もなくとも、ソランの立場を弱くする可能性があった。彼女をその他大勢の女の中の一人にすることはできなかった。ソランは、何ものにも換えがたい唯一人の人として、誰からも認識されなければならないのだから。

 だからと言って、彼女たちを他の男に与えることもできなかった。あれだけの人数の女を与えれば、今回の一番の褒賞になってしまう。


 この事変において、最も名を挙げねばならないのはアティスかソランであり、そのために、手間隙かけてバートリエに壮大な茶番を仕掛けたのだ。しかも、これは単なる足がかりでしかない。先は長く、もっと大きな困難が待ち受けている。この程度で躓くわけにはいかなかったのだ。


 こんなことを、これから何度繰り返していくのだろう。すべてを投げ出し、ソランだけを攫って二人だけで生きていけるなら、どんなにいいだろうか。ソランがそんなことは絶対に望まない女だと知っていて、彼は夢想せずにはいられなかった。

 彼女は、泣いている者がいれば、寄り添って慰める。困っている者がいれば、我が事のように手を貸す。己の何を差し置いても、常に領民のために力を尽くそうとする。他者の喜びが彼女の喜びなのだ。

 そんな女に共に逃げてくれなどとは言えない。そんなことを言えば、いっそ涙ながらの説教を喰らうだろう。優しすぎる彼女は、ろくでなしの男など捨ててしまえばいいのだと、思いつきもしないのだろうから。

 アティスにとってソランは、愛しくて愛しくて気が狂いそうに愛しくて、そして、どうしようもなく手に負えない女なのだった。




 スーシャが心配と困惑の表情で部屋から出てきた。


「ソラン様がイアル殿を呼んでおられます。鎧を脱がすのを手伝ってほしいと仰っています」


 イアルがどうするかと問うように視線を送ってくる。


「おまえでは無理なのか?」


 たとえイアルであっても、湯の用意をしてあるような部屋に、他の男を入れることはできない。アティスはスーシャに尋ねた。


「領地に伝わる特殊な結び方をしてあると仰っておられました」


 そんなはずはない。確かにイアルが着せ付けたが、変わったことをしているとは見受けられなかった。ソランはどういう理由でか、彼女を遠ざけたかったのだろう。或いは、イアルに救いを求めたか。

 じり、と胸の奥で嫉妬と彼女の安否を気遣う不安が体を炙った。


「わかった。では、スーシャは調理室へ行き、新しい湯を沸かして持ってきなさい。せっかくの湯もだいぶ冷めてしまっただろう。持ってきたら、ここで待機しているように」

「かしこまりました」


 彼女が部屋を出て行くのを見送り、アティスは居室の扉をノックすることなく中に入り込んだ。

 ソランは部屋の隅で蹲り、一人で苦しそうに嘔吐(えず)いていた。湯を浴びる為に使う水差しを手元に置き、そこを覗き込むようにして屈んでいた。マントや手袋や手甲や脛当ては外され、きちんと整えられて床に広げた布の上に置かれていたが、胴や直垂は着けたままの姿だった。

 黙って歩み寄り、胴の袷を解いて、吐き気が引くのを見計らって上へと引き抜いてやる。

 されるままにしていたソランが力なく振り返り、彼を認めて目を見開くと、顔を隠すようにして勢い良く俯いた。声を絞り出して小さな叫び声をあげる。


「出て行ってください!」


 それには取り合わず、彼は直垂の留め具もはずした。すぐに体から取り去ってやる。それで少しは楽になったはずだが、再びソランは口を押さえて体を丸めた。堪えても零れ落ちる呻き声を漏らしながら。

 アティスは堪らずにソランを背なから抱きしめた。我が事のように辛く苦しくて堪らなかった。


「……ぃやっ。一人にしてっ、くださ、い」


 言葉を途切れさせながら必死に訴えてくるそれをはねつける。


「駄目だ。一人にはしない」


 ソランはもがいた。


「や。やだ。離して」


 無意識なのだろう、頼りない涙声をあげながら、肩で息をし、アティスの手を振り切ろうとした。


「ソラン」


 触れた全身から、震えが伝わってくる。彼女の怯えと混乱が手に取るようにわかった。

 緊張が解け、高揚が過ぎ去り、本来の自分に戻ってしまったのだろう。たった一人で七百人からの男を脅しつけ、屈服させようと、彼女はまだ十六の娘にすぎない。恐ろしくなかったはずがないのだ。


「いやだ。いや。いや。イアルッ」


 他の男の名を呼ぶ口を、手で塞いだ。彼女が助けを求めるのが自分でないことに傷つき、苛立った。そこによけいな含みがないと知りつつ、それでも嫉妬した。


「おまえには、私だけだっ」


 耳元できつく言い放つ。ソランがびくりとひときわ大きく体を震わせた。そして、すすり上げるような息をした。

 こんな状態の彼女を追い詰めてどうするのだと自分を罵りつつ、譲れないのだと心が叫んでいた。

 ソランは急に体を強張らせ、必死でアティスの手を口から外そうとした。気付いて退けてやると、水差しに向かって嘔吐く。朝早くに消化の良いものを食べたきりだ。吐く物など胃の中にありはしない。ただ胃液が食道を焼き、熱く苦く苦しいだけなのだろう。それでも長く続いた緊張に、臓腑がおかしくなってしまっているのだ。

 はあはあと肩を上下させながら、ソランは搾り出すように懇願を吐きだした。


「見ないでくださいっ」


 そして一人で蹲って拒絶する。それは、怪我した獣が他を寄せつけず、一匹で蹲って傷を癒すのに似ていた。

 彼女は確かに強い。体も、心も。一人で放っておいても、じきにいつもの闊達さを取り戻すだろう。

 だが、そうだとしても、アティスはソランを放っておくことができなかった。目の届かないところで彼女が苦しむことに耐えられなかった。


「見ていたいんだ」

「こんなのを見て、何が楽しいんですかっ。どうして、こんな情けないことを言わせるんですかっ」


 ソランは抱きしめ続ける彼の手を拒むように、床に手をついて下を向いたまま、頑なに(なじ)った。


「情けなくなどない」

「情けないでしょう! みっともなくて!」

「みっともなくない」

「みっともないです!」


 ソランは焦れて叫んだ。怒りに満ちた声だった。


「そんなわけあるか。あんな無茶をしおって!」


 一日五十人の相手と区切ったのは、ソランの安全のためだった。なのに彼女は自ら一度に全員を相手にしようとしたのだ。


「生きた心地がしなかった。百年くらい寿命が縮まったぞ!」


 ディーならすかさず、だったらもう寿命が尽きていますね、と混ぜっ返しただろう。自分でも馬鹿なことを言ったと思った。それでも、それが本心だった。あまりの不安に今にも心臓が止まりそうだったのだ。


「頼む。無茶をしてくれるな。おまえを失ってまで、欲しいものなどないのだ」


 アティスはソランの耳元に口を付けるようにして顔を埋めた。彼女の温かさが、生きているという実感が欲しかった。

 ソランは身動きもせず、彼の腕の中でおとなしくしていた。いつのまにか体の震えも強張りも解け、もう拒絶の色はなかった。彼女も彼の体温に安心を感じているのが伝わってきて、心が満たされた。

 彼女の唇を求めて、頬に許しを請う口付けをする。体を自分へと向けさせ、反対の頬へも口付けたところで、ソランに口を手で塞がれた。アティスが咎めるまなざしを送ると、彼女も同じ瞳で見返した。


「口の中が気持ち悪いんです。絶対嫌です」

「私はかまわん」


 塞がれたまま、もごもごと抗議する。


「私がかまうんです!」


 ソランは時々、アティスにとってどうでもよい小さなことに拘る。しかも訳のわからない理屈で。そういう時は頑として受け付けないのも、何度か文字通り痛い目にあって理解していた。

 今回もそれらしかった。断腸の思いで仕方なく引き下がることにする。


「ああ、では私が湯浴みを手伝ってやろう」


 ぱっと思考を切り替え、次の楽しみを提案する。


「な、なにを言っているんですか。常識がないにも程があるでしょう!」


 ソランはうろたえて腕の中から逃げ出そうとした。


「おまえに常識を諭される日がくるとは思わなかったぞ」

「私は常識的です! 常識を蹴倒して歩いている殿下に言われたくありません!」

「おまえ、己というものを、もう少し知れ」

「殿下こそ常識に敬意を払ってください」


 そこまでお互いに散々な言葉で諭しあっておいて、ふっと黙って見つめあい、次にはなんだかおかしくてたまらなくなって、同じタイミングでふきだした。二人で声をあげて笑う。

 そうしてディーが気を利かせて扉をノックし、新しい湯が冷めてしまうと告げるまで、二人は体を寄せ合って笑いあったのだった。

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