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暁にもう一度  作者: 伊簑木サイ
第十章 バートリエ事変
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閑話 聖なる

 誰よりも何よりも、お強くてお優しくてお美しい。

 ソラン様は、私たちの大切な方。




 ソラン様に初めて会ったのは薄暗いテントの中だった。

 踏み入ったところで目にした、薄闇の中に黒々と凝る二つの闇に、思わず息を呑んだ。恐怖に足が竦んで、棒立ちになってしまった。少し目が慣れると、二人の男性だとわかった。お一人は息が苦しくなるほど威厳に満ちた方で、もうお一人は静謐な空気を纏った方だった。


 故郷を襲った男たちとは全然違っていて、この方たちが私たちに何かするとは思えなかった。ファティエラやスーシャたちから、いろんな話も聞いていた。五年前にあったこと、それから『殿下』がずっと保護してくださったこと、そのお人柄故に、どうしてもお傍に仕えてご恩をお返ししたかったこと。


 私とお会いしたいと仰っている『殿下』が尊敬に値する人だということは、重々承知していた。だからこそ勇気を振り絞って会おうと思ったのだった。一族の者たちの窮状をお伝えし、なんとしてもお力をお貸しいただけるように頼まなければならなかった。


 そう意気込んで来たはずなのに、普通の人々とは次元の違う存在感に、体中に力を入れていないと震えだしてしまいそうだった。

 怖いのではなかった。ただただ畏ろしかった。『殿下』のお声は穏やかで、こちらを気遣ってくださっているのも伝わってくるのに、あたりに漂う空気が波打ち、その(さざなみ)ごとに心が畏怖に震える気がした。幼い頃に会った自国の『王』さえ、これほどではなかった。

 強いて言えば、ラショウ・エンレイに似ていた。ほんの少し。空間に漣を起こし、人の心を揺するところが。


 必死に『殿下』の仰ることに耳を傾け、その意味を咀嚼しようとした。けれど、上擦った気持ちの下では考えが纏まらず、考えようとすればするほど頭の中が真っ白になっていった。私はほとんど恐慌状態をおこしていた。

 その時、『殿下』の傍らに蹲っていた闇にしか見えないモノが動いて、あまりの恐怖に、もう少しで叫んでしまうところだった。声は飲み込めたけれど、体が大きく震えたのはどうしようもなかった。目を見開いて息を止めていると、その『人』が慌てたように謝ってきた。

 片言で。涼やかな声で。

 それがソラン様だった。


 『殿下』が私の妻だと説明なさると、微笑ましい仕草で恥らわれた。お若い様子からも、結婚なさったばかりなのだろうと推察した。

 自分には決して訪れないだろうそれに、羨ましさと嫉ましさで、ちくりと胸の奥が痛んだ。でも同時に、初々しい無垢さに心が和らいだ。一族の子供たちの未来の幸福を望むように、彼女の幸せも自然と喜んでいた。


 話し、動きだされたソラン様は、さっきまでの静謐さはどこへいってしまったのか、とても生き生きとした可愛らしい方だった。それに、とっぴょうしもない方でもあった。夫に男だと思われたまま口説かれたなどと、とんでもないことを告白なさって、『殿下』に止められるほど。


 お二人の様子は仲睦まじく、ソラン様が『殿下』にとても(いつく)しまれ、また、ソラン様も『殿下』に深く心を寄せていることが見て取れた。

 それは、お二人ぐらいの歳頃の若者たちの多くが交わす、情熱的で刹那的で見ていられなくなるような危ういものではなく、もっと自然で、なぜか胸が痛くなるものだった。


 ふと、風が吹いて、自分の髪の先がラショウの肩に届いた時のことを思い出していた。私が落とした野菜を拾い集めてくれた彼の指が掌に触れた時のことも。


 同時に、一族の男たちが殺され、あの男たちに蹂躙された時のこともばらばらの破片となっていくつも脳裏に閃き、息苦しくなった。

 体の表面から肉ごと感覚をそぎ落としてしまいたい衝動に駆られる。体を引き裂いて、あの記憶を掻き出してしまいたかった。厭らしい男たちに触れられた自分が汚らわしくてたまらなかった。


『エレーナ!』


 ただ一度名を呼んだ、ラショウの声が耳に甦る。

 助け出してくれた彼さえ怖かった。怖くて、逃げ出した。本当は、一族のために彼の下に身を寄せるべきだったのに。皆はそんな私に従ってくれた。彼に追われるままに陸橋を渡り、異国の地にまで来てしまった。私を見捨てなかった彼女たちを、このまま路頭に迷わせるわけにはいかなかった。


 そう。絶対に、迷わせるわけにはいかないのに。嫌な、黒く巨大な、おぞましい記憶が次々に溢れ、息ができなくなっていく。

 イヤ、イヤ、イヤ、イヤ! コワイ、コワイ、コワイ……。恐怖に塗りつぶされた気持ちだけが暴走していく。

 助けて。助けて。お願い、誰か。

 必死で求めた。与えられるはずのない救いを、絶望しながら。


 その時、温かい手が冷たく強張り感覚を失くした手を握ってくれた。崩れ折れる体を抱きとめてくれた。優しい声で傍にいると励ましてくれた。

 一人にしないと、助けになると、ソラン様は繰り返したどたどしい言葉で伝えてくれた。

 それはずっと欲しかった言葉だった。一度拒んだ私には、もう二度と与えられるはずはないと思っていた救いの手。

 私は、それに縋らずにはいられなかった。




 後悔したのは翌日だった。

 ソラン様が尋ねていらして、明日、男たちに決闘を申し込むから、見届けに来て欲しいと仰ったのだ。

 まさか、そんなことになるとは思っていなかった。ただ、明日から安心して生きられる場所が欲しかっただけだったのに。

 引き止めた。そんなことをする必要はないと。ソラン様が危ない目に遭うことはないと。だいたい、たった一人で七百人からの相手をするなんて、無謀以外のなにものでもない。


 そう言いながら、本当は心の中で、あの男たちが殺されるのを見たいと思っていた。むごたらしく殺されればいい。肉の一片まで形も残さぬほど、切り刻まれてしまえばいい。

 そうしなければ、あの記憶がいつまでも頭にこびりついて、薄れることはないと思った。奴らが、憎くて憎くてたまらなかった。奴らが今ものうのうと生きているのが許せなかった。一族を殺し、女たちを犯した奴らに、この手で剣を衝き立ててやりたかった。


 きっと、ソラン様には、私の醜い望みが伝わってしまっていたのだと思う。けれどソラン様は、これは私の望みだ、と仰った。私がそうしたいのだ、と。

 迷いのない目で。透き通った眼差しで。

 それは、私の望みを叶えるにしては清らか過ぎるものだった。


 それに私はひどく安心した。ああ、この方を汚すことはできない、と。どんな暗く醜い思いも、彼女に届いた途端、なにか違うものに変わっていく。私の、私たちの中に大きく横たわる闇は、決してこの方を染めることはない、と。

 この人のお傍になら、いられる気がした。醜い心を抱えたままでも。穢れたままでも。この気が狂わんばかりの記憶を消すために自分を殺してしまわなくても。

 誰よりも何よりも美しいこの人のお傍でなら。




 ソラン様は決闘に挑む寸前まで、私たちを気遣ってくださった。怖かったら耳を塞いで目を瞑りなさいと仰った。エランサの風習でなかったら、きっと決闘には立ち合わせてくださらなかっただろう。

 本当にお優しい方なのだ。そうでなければ、会ったばかりの私たちのために決闘を引き受けてくださったりはなさらない。

 子供たちのこともとても愛しんでくださった。可愛くてしかたないといったご様子で。あんなに楽しそうにはしゃぐ子供たちの笑顔を見たのは久しぶりだった。

 本来はそういう方なのだ。愛情深く、親身になって寄り添う、お優しい方。




 ああ、でも、剣を抜いたあの方をどう表現したらよいのだろう。表情一つ変えず、冷静に一瞬で人を殺すあの方を。


 まるで、裁きの神パルテノスのようだと思った。人は死ぬと冥界の入り口で裁きを受けるのだという。現世で犯した罪は生きている間に償うべきものだが、それが足りなければ、地獄で罪を贖うのだそうだ。何度殺されても、どれほど責められても決して死ねない魂の姿で。

 魂を裁き、罰を与えるのがパルテノスだ。かの神は美しく、残酷だと言われている。どんなに容赦を請おうと、言い訳をしようと、一切受け付けず、ただ(ことわり)に則って裁きを下していくと。


 ソラン様もまた、一片の慈悲も見せなかった。

 恐ろしかった。体が震え出すほど恐ろしかった。


 あの夜から始まった悪夢に、どれほど嫌だと、怖いと、助けてと叫んだか知れない。それは聞き入れられることはなく、むしろ嘲笑われた。抗うこともできず、蹂躙されるしかなかった。

 あの無力感が甦った。ソラン様の前に立った男たちが感じているだろうそれを、一体となって感じていた。


 恐怖に震えながら、もっと、と思った。もっと、苦しめ、もっと、絶望しろ、もっと、もっと、もっと、ただ死なせてなどやるものか、泣き叫べ、そして(みじ)めに、(むご)たらしく死ね、意味なきもののように、屠られろ。

 暗い悦びに心が震えた。奴らに植え付けられた闇が体中に広がり、流される血に酔い痴れた。




 なのに。




『おまえは、一人でも、そうやって命乞いをした者を助けたことがあるか?』




 冷や水を浴びせられた心地がした。突然、我に返った。

 いた、のだ、あの地獄の最中(さなか)に、たしかに、そうした者がいた。

 赤ん坊や小さな子供は服を脱がされ性別を確かめられた。そうして連れて行かれてしまった子もいた。でも、見て見ぬ振りをした男たちも、いたのだ。

 若い娘に子供の服を着て汚物を体に擂り込めと囁いた男も。一晩中呼び出しておいて辱めを与えなかった男も。

 いた、のだ。

 憎い、憎い、憎い男たちの中に!




 たとえ一人でも赦されるなど、耐えられなかった。奴らが私たちからすべてを奪ったのだ。愛しいものも、優しいものも、幸せも、過去も、未来も。奴らが、生きることを煉獄へと変えてしまった。

 この世に一欠けらも残さず抹消してやりたかった。そして地獄でパルテノスに責め苦を負わされればいい。


 けれど。『命乞いをした者を助けたことがあるか?』。

 助けなければ、私は奴らと同じモノになる。

 ソラン様に裁かれるべきモノに成り果てる。




 血を浴びて尚、聖なる輝きを失うことのない方。

 なぜパルテノスが残酷でありながら美しいと言われるのか、わかった気がした。




 気付けば、冷たい風が吹いていた。たくさんの兵が決闘を見守っていた。

 そして、ラショウと目があった。硬い岩を鑿で削ったような鉄面皮な人。でも、その瞳はいつでも雄弁で、覗き込めばなんでもわかった。だから、気付いた。まだ愛されていると。

 いいえ、違う。本当はずっと知っていた。助けに来てくれた時から。逃げる私を呼んだ声を聞いた時から。


 だけど、私が受け入れられなかった。彼とあの男たちの違いがわからなかった。共に生き残った彼女たち以外、世界のすべてを失ったと思っていた。それに、この体の中には、奴らの植えつけた闇以外にも、命が宿っているかもしれないのだ。どこの誰とも知らぬ輩の子が。


 目は彼から先に逸らされた。彼は立会人としての責務に戻っていった。彼もまた重いものを背負い、黙って耐えてそこに立っていた。私の、私たちの痛みに、彼も傷ついて、共に背負おうとしてくれていた。


 心が(さざなみ)に揺すられる。本当は何も感じたくなんかないのに。憎んで恨んで蔑んで奴らと同じモノになってしまえれば、楽なのに。私は諦めてしまいたいのに。消えて無くなってしまいたいのに。

 涙が溢れる。溢れて彼が、ソラン様が見えなくなった。




「エレーナ」


 心配した隣にいたアウラが肩を抱いてくれる。


「違うの。なんでもないの」


 そう伝えれば、彼女はそれ以上何も聞かずに、黙ってそのままでいてくれた。彼女も泣いていたのかもしれない。他の皆も。

 涙が出るにまかせ、しばらく目を押さえていた。後ろで赤ん坊が泣きだす声が聞こえた。それをあやす声も。

 振り返ると、誰もが悲しみに疲れきった顔をしていた。子供たちでさえ、母親に取りついて縮こまっていた。


 私が、私たちが諦めたら、彼女たちの、そしてこの子たちの未来さえ奪うことになる。他でもない、私が。奪われた痛みを知る、私たちが。

 だから、私たちは。

 生きないと。


「子供たちを見逃してくれた男の顔を覚えている?」


 痛みを堪えた視線が幾つもこちらに向けられる。


「辱めを与えなかった男の顔を覚えている?」


 全員が私を見ていた。


「私たちは、ソラン様に恥じない生き方をしなければいけない。命懸けで救いの手をさし伸べてくださったあの方に」


 涙が再び出てくる。嗚咽交じりで彼女たちに頼む。


「お願い。一緒に助命をお願いして」


 誰も答えてくれない。それでも言葉を重ねる。しゃくりあげながら、切れ切れに。


「ごめんね。苦しいのはわかるの。赦せないのも。私だって、赦したくないもの。

だけど、私たちこのままじゃ本当に何もかも失くしてしまう。私たちが、あの方に相応しい人間にならないと、きっと、どんなに助けようとしてくださっても、駄目になってしまう。あいつらと同じモノになってしまう。それだけは、駄目。

お願い、一緒にお願いして、一緒に、……一緒に、生きて」


 必死に搾り出した声が、無様に裏返った。それに、傍にいた何人かが手をさし伸べてくれた。それが切っ掛けだった。誰もが泣きながら、寄り添いあう。冷え切った冷たい体を寄せあって、痛みを分かちあう。

 お互いのぬくもりに少しだけ痛みが和らぐまで、私たちは世界の片隅で泣くしかなかった。




 残酷なほどに優しく、無慈悲なほどに美しい、血を浴びて尚、聖なる輝きを失わない方。

 私たちの心に残った小さな光に力を注いでくれる奇跡。

 ソラン様は、私たちの大切な方。

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