10 辿り着きたいと願った場所
ソランは剣を持ち、殺気を放ったまま仁王立ちして、男たちが両手足に縄をかけられるのを見守った。
殿下の采配でウィシュタリア軍も警備に協力し、作業は混乱もなく粛々と進められ、小一時間ほどで終了した。
エンレイがやってきて、初めて顔を合わせた時と同様に己の左肩を二度叩き、挨拶をした。
『捕縛は全て完了しました。彼らの身柄は私が預かり、直ちにエランサの慣習に従って裁きます』
近くで火がいくつも熾されていた。それごとに、水や砥石、斧、腕を乗せる台、包帯に血止めの焼き鏝が用意されている。日が暮れるまでに作業は完了するだろう。その後、彼らには一晩の猶予が与えられ、明日の朝、日が昇ると同時に陸橋へと放たれる。
自分たちでそのように計画しておきながら、あまりの用意の良さに、ソランは発作的に笑いだしそうになった。なんという茶番だろうか。
一番嫌な役目を引き受ける彼は、なのにソランに敬意を表する。厳しさが際立つ顔は表情を浮かべないが、その目はいつも真っ直ぐで、強さを湛えていた。まるで、どんな状況も受け止めると決意しているかのように。そしてまた、ソランにも同じ強さがあると信じているように。削げた容貌は計略家にしか見えないのに、彼はひどく愚直に感じられた。
たいして言葉を交わしたわけでもない。本当にそんな人柄なのかはわからない。それでも今はそうとしか思えず、殺伐とした緊張感に疲弊しきった心が奮い立たされる。この人物の前で無様な真似はできない、と。
だから、ソランはおもむろに剣をしまうと、右手をさし出した。これがエランサでどういう意味を持つのかは知らない。でも、ウィシュタリアでは信義を固める意味を持つ。
彼はさし出された手を数秒眺めていた。やがて躊躇いがちに少し離れた場所に手をさし出してくる。ソランはそれを勢いよく掴まえ、強く握った。握りつぶさんばかりの力で。
手を見ていた彼は、はじかれたように顔を上げた。確かに驚いているはずなのに、それでも彼の顔はかすかに眉が顰められているだけだった。
見つめ合い、力を入れ返してくるのを待ち、固く握り合ったところで一度上下に振ってから力を抜いた。自然に手が離される。
ソランは一歩下がって優雅な騎士の礼をした。そして黙って踵を返し、いつまでも見送る視線を感じながら、殿下の待つ場所へと向かったのだった。
殿下の御前で片膝をつく。頭を下げたまま、報告する。
「悪しき輩は、御名の下にすべて跪きましてございます」
「見事な仕業であった。おまえが我が旗下にあること、誇りに思うぞ」
「ありがとうございます」
二つの歩く音が近付いてくる。視界に入った長靴がすぐ目の前で止まった。ふっと何かが落ちてきて、冷たいものに顎を持ち上げられた。殿下の気遣う瞳に覗き込まれる。安堵感が体中に広がり、気がゆるんでいくのがどうにも止められなかった。
顎に触れているのは、殿下の手袋を外した手だった。こんな寒い日に動きもせずに座っていれば、こうなるのは当たり前だ。
冷え切った指先に、どうしようもなく胸が軋んだ。頭の芯がぼうっとし、考えが纏まらないままに囁く。
「お待たせして、申し訳ありません」
「黙れ。謝罪は受け付けん。くだらぬことを言うな」
殿下が眉間に深い皺を刻んだ。怒っているのではないのはわかっていた。不用意な一言で心配させてしまったのだ。馬鹿なことを言った。情けない。これしきのことで集中を欠くなんて。思わず奥歯を噛み締めたソランの顎をぐいと引き、殿下は強いまなざしで立てと促した。
そうしながら、殿下は空いた手を後ろに突きだし、傍らのディーから真っ赤な物を受け取った。冷たい手が離れていき、ふと寄る辺ない思いに囚われる。が、次の瞬間には、ばさりと布の広がる音とともに緋色が視界の端をかすめ、背中の冷気が遮断された。殿下がその布地で、ソランの体を覆ったのだ。
若葉色の瞳が真剣にソランを見守っており、ソランはそれに魅入られた。
「我が軍旗を授ける。常に我と共に戦場に在れ」
ソランは目を見開いた。褒美をいただけるとは聞いていた。でも、それがどんなものかは直前になってもまだ決まっていなかったのだ。
軍旗はそれを掲げる者の分身だ。まして殿下のそれは、王族として地の色を変えただけの国旗の意匠を許されている。それを与えられるのが、どれほどの意味を持つのか、わからないわけがなかった。
命を預けられたに等しく、それ以上に、常にその名を託されたと同じになるのだ。この旗を掲げるかぎり、ソランは殿下の代理さえ務められる。
ソランには過ぎた褒美だ。身に余る栄誉だ。それを充分承知していても、熱い塊が体の芯に添って立ち上るのを止められなかった。
必ずや、と思う。最早誓うまでもない。私の魂にはこの人の盾となり剣となると刻まれている。この人と共に生きるのだ。
この人が共に生きて欲しいと願ってくれるのなら、そのための場所を、権限を与えてくれるというのなら、ソランにとってそれ以上の喜びはないのだから。
嬉しいはずなのに、胸が張り裂けそうな痛みも感じて、泣きたくなってくる。微笑むことすらできず、喉が詰まって、声がかすれた。
「ありがたき幸せにございます」
掛けられた軍旗が落ちないように胸元で両手で掴み、深く頭を下げるので精一杯だった。
だがすぐに殿下に片手を取られ、顔を上げよ、と囁かれる。ソランの心を支えるように旗ごと上からしっかりと手を握ってくれ、ともに空へ向かって持ち上げられる。ソランは反対側の端をもう片手で持ち、腕を伸ばして旗を広げた。
とたんに、どおっと鬨の声があがる。声が反響し、幾重にもなって擂り鉢の底にいる二人の上に降ってくる。
ウィシュタリア。ウィシュタリア。
斜面の上に居並ぶ兵たちが、国名を高らかに唱える。何度も、何度も、途切れることなく。
殿下はソランと並んでゆっくりとその場でまわり、集まってきていた全軍に、ソランと旗とをはっきり示して見せた。
それに反応して唱和する声が更に高まって大気を揺らし、熱狂が殿下とソランを包む。
愛馬が連れてこられ、二人は声に押し上げられるようにして馬にのぼった。イアルが、脱いであったマントを渡してくれる。それを軍旗が再び竿に括り付けられる間に、手早く纏った。
鬨をあげ続ける兵たちの片隅で、ホルテナたちが小さくなって固まっているのが馬上から見えた。辺りはどう動き出すかわからない興奮に包まれている。さぞ怖い思いをしているだろう。
ソランは旗を渡そうとしている顔見知りの兵へととっさに屈み、私の花が萎れないように気を配って欲しい、と頼んだ。彼は快く引き受けてくれた。
それに幾許か安心し、身を起こし、旗を受け取ると、重い竿の下端を鞍に押し当て、全軍に見えるように左腕で掲げてみせた。
わぁぁぁぁぁっ。
歓声があがる。
ソランは、風で翻る度にあまりの重みに揺らぎそうになるのを堪えながら、殿下の後に続き兵たちの間をゆっくりと進んでいった。
ウィシュタリア。ウィシュタリア。
国を称える声が、いつしか殿下とソランを呼ぶ声に変わっていくのを、一歩ごとにひしひしと感じた。『ウィシュタリア』は殿下の名でもあり、彼に従いその軍旗を掲げるソランは、全軍の代表であった。『ウィシュタリア』と叫ぶ度に、ソランに仮託された一体感が増していく。
凄まじい感覚だった。抗いようのない熱気が絡みつき、上へ上へと押し上げられていくような。それは領地の収穫祭で感じるものとは比べ物にならないほど強大だった。
これが一国の名を冠する重みなのだと、初めて知る。
それでも、それを恐れる必要はなかった。幼い頃に祖母が教えてくれた。拒めば重荷となるが、受け入れれば力となる。今、まさに、全軍が殿下とソランに力を与えてくれようとしていた。世界を変える力を。
ああ、ここが、殿下と見ていた場所だ。バートリエに来て以来、辿り着きたいと願っていた場所。
熱狂した歓呼の声はバートリエの地を満たし、いつ絶えるともなく誇らかに響き渡ったのだった。