07*無自覚な姉心
ノルマリスとマリーンを乗せて、馬車は走り出した。
ロートレック家の屋敷の前で、ハイス侯爵夫妻に見送られる。
なんともチグハグな光景に、ノルマリスは微苦笑を浮かべた。
王都からヴルツェルまで、およそ二週間の旅だ。
ノルマリスにとって、未知の世界である。
マリーンがいる手前、はしゃいだりはしないけれど。
期待と不安が入り交じって、ふわふわとした心地だ。
思い悩むように窓の外を見つめるノルマリスに、マリーンは尋ねた。
「不安ですか?」
「そうね。王都を出るのは、初めてだから」
窓の外をゆっくりと流れていく王都の街並み。
しばらく見ることはないのだと思っても、離れがたいとは思えなかった。
頻繁に地方へ派遣されている花の聖女たちが言うことには、王都ほど便利な場所はないのだそうだ。
だから、地方へ行く時は王都でうんと買い物をしていくのだとか。
(……わたくしは、鞄一つで十分)
ノルマリスの世界は、とても小さい。
神殿とロートレックの屋敷、その往復だけで完結してしまう。
王都であろうと地方であろうと、やることは同じだ。
最低限の衣食住と木香薔薇の祝福。それさえあれば、事足りる。
(そういえば……エリナのお願いも、始めはわたくしのためだったのよね)
木香薔薇の聖女になったあと、ノルマリスに対する両親の態度はあからさまだった。
視界に入れない、声を掛けない、声を掛けられても応えない。
そんな中、エリナからの頼まれごとはノルマリスにとってささやかな息抜きになっていた。
(いつの間にか、嫌がらせの一つになってしまったのだけれど)
もう、あの素直で優しいエリナに戻ることはないのだろうか。
残念だ。とても。
区切りをつけるように心の中で王都と家族に別れを告げ、ノルマリスはマリーンへ視線を移した。
「でも、あなたがついてきてくれた。だからきっと、大丈夫」
ノルマリスがにっこりと微笑むと、マリーンは一瞬つらそうに顔を歪めた。
それから気を取り直すように満面の笑みを浮かべ、ドンと胸を叩く。
「ええ、任せてください。こう見えてあたし、いい宿の見分け方を熟知しているんですよ」
「あらまぁ、そうなの?」
聞けば、マリーンは宿屋の孫娘らしい。
それも老舗の高級宿だと聞いて、ノルマリスは驚いた。
「あたしは後継者ではないので、好きにさせてもらっているんです」
「それなら、どうしてメイドをしているの?」
ノルマリスの疑問はもっともだ。
彼女の家柄ならば、働かなくたって許されるはず。
わざわざメイドという難儀な職業を選んで就くなんて、よほどの理由があるに違いない。
「宿を利用する貴族を見ているうちに、彼らの生活に興味を抱いたんです。キラキラで、とてもすてきでしょう? あと、恋愛小説の影響もありますね。夫人と騎士の秘密の関係とか泥沼な話を聞いてみたくて。メイドなら遭遇するチャンスもうわさ話を耳にすることもあるだろうと思って、志願したんです」
マリーンは、ノルマリスが思っていたより真面目ではなかったようだ。
だが、ある意味ロートレック家は宝庫だっただろう。
意地悪な家族に無視されている令嬢なんて、おとぎ話の冒頭のようである。
(でもそれなら、ハイス家への紹介は大きなお世話だったかもしれないわ。だって、泥沼とはほど遠いもの)
表情を曇らせるノルマリスに、なにを考えているのか察したのだろう。
マリーンは「違いますからね⁉」と両手をぶんぶん振りながら否定した。
「むしろ、感謝しているのです。貴族にもいろいろあることが知れて、勉強になったと言いますか……。とにかく! ノルマリス様がしてくれたことは絶対に余計なお世話ではないので、堂々としていてください」
「え、ええ……」
まくし立てるように一気に語られて、ノルマリスはぽかんと呆気にとられた。
なんとか返事をしつつ、しかし目はまん丸になっている。
マリーンはコホンと咳払いをすると、「ところで」と話題を変えてきた。
「お屋敷を出てきた時、ひどく落ち込んでいらっしゃる様子でしたが……まさかまた?」
また、とは家族のことだろう。
マリーンがそう思うくらい、ロートレック家ではノルマリスへの冷遇が当たり前になっているのだ。
話の流れで「違うのよ」と言いかけたノルマリスは、はたと気がつく。
(……! なんということかしら。わたくしったら、すっかり忘れていましたわ)
思い出した瞬間、ノルマリスはさっと表情を強張らせた。
ハイス侯爵夫妻とマリーンの登場に驚きすぎて忘れていたが、昨夜からずっとルリエーブルのことで頭を悩ませていたのだ。
「ルリ……」
「ノルマリス様?」
「ああ、ごめんなさいね、マリーン。違うのよ。あなたが想像するようなことはなかったわ。あの人たちはまだ眠っていたもの」
「では、なにがあったのですか?」
「実はね、朝になってもルリが帰って来ていなくて。ヴルツェルへ向かうことも、お別れのあいさつも告げられないまま出発かと思ったら、少し……悲しくなってしまったの」
「えっ、そんなことが……? ルリエーブル様が帰宅しなかったなんて、にわかには信じられないですね」
「マリーンもそう思う?」
「ええ。ルリエーブル様は言っていましたよ。一日の始まりと終わりに姉上を見ないと夜も眠れないって」
「あの子がそんなことを? 少し大袈裟じゃないかしら」
ノルマリスは驚いたように目を見開いて、そして嬉しそうに、だけどどこか寂しそうに微笑んだ。
無意識にだろう。慈しむように襟のブローチに触れるノルマリスに、マリーンは生温かい視線を向けた。
幸せを呼ぶと言われている青蜂をモチーフにした小さなブローチ。
四年前、木香薔薇の聖女になった祝いと十六回目の誕生日の祝いを兼ねて、ルリエーブルがプレゼントしてくれたものである。
「どうでしょう。少なくとも、あたしには本気で言っているように見えましたが……」
「見習いとはいえ、騎士は騎士ということかしら。きっと優秀な騎士になるわね。姉として、鼻が高いわ」
「姉……」
「そうよ。わたくしは義理の姉だけれど、あの子がロートレック家に来た時からずっと見守ってきたもの。だから、姉でいいのではないかしら」
「姉……。なるほど、姉ですか……」
「なにかおかしい?」
「いえ、なにも。おかしいところはないです」
「そう?」
「はい、ただちょっと――」
その時、ガタンと馬車が揺れた。
小石を踏んだのだろう。何事もなく走り続ける馬車に、二人はホッと息を吐く。
「はぁ、びっくりしたわ」
「ええ。ノルマリス様、おけがはございませんか?」
「大丈夫よ。それよりマリーン、さっきなにか言いかけていなかった?」
「さっき……。ああ、えっとですね、仲が良くて羨ましいですって言ったんです。あたし、兄には揶揄われてばかりなので!」
「まぁ。それはそれで、仲良しなのではない? 遠慮がないってことだもの。ルリは大きくなってからすっかり甘えなくなってしまって――」
ルリエーブルの話をするノルマリスは、いつだってこうだ。
生き生きしていて、とても嬉しそう。
キラキラした目は恋する乙女と同じなのに、どうして彼女は気づかないのだろう――と、相変わらずなノルマリスにマリーンはこっそり肩を竦めたのだった。