06*旅立ちの朝
夜が明けたばかりの早朝、ノルマリスは屋敷を出た。
持っているのは、旅行鞄を一つだけ。
貴族令嬢とは思えない物の少なさである。
外は、ひんやりとした空気に包まれていた。
冬の足音が近づいてきている。
ブルームガルテン国の王都は、夏が終わるとグッと気温が下がる。
南部には残暑というものがあるらしいが、ここにはないのだ。
旅立ちの朝というにはうら寂しい雰囲気が漂っていたが、それでもノルマリスの表情は明るく――なかった。
「どうしましょう……」
旅行鞄を抱えてとぼとぼと門へ向かって歩くノルマリスは、思い詰めた表情をしている。
傍から見たら、侯爵一家の横暴に耐えきれず逃げ出してきた憐れな使用人だ。
そんな彼女の頭の中は、一つのことでいっぱいだった。
――ルリエーブルが帰って来ないなんて!
なんということだろう。こんなことは初めてだ。
鬼と呼ばれる先輩騎士による地獄のしごきを受けた日さえ、体を引き摺るようにして帰ってきたのに。
「もしかして、遅ればせながらやってきた反抗期かしら?」
それならば、心配はいらないだろう。
子どもから大人へと成長する過程で誰もが通る道だ。
「けれど……なにも今でなくても良かったのではない?」
義弟の成長は喜ばしいことだが、なにせ今日はノルマリスが旅立つ日なのである。
休日返上で護衛を務めてくれたけなげな義弟に、せめて「いってきます」の一言くらいは面と向かって言いたかったと、ノルマリスは項垂れる。
「不義理を働いているようで申し訳ないわ」
ルリエーブルにはとても良くしてもらった。
彼がいなければ、ノルマリスは自分を見失っていたかもしれない。
「ルリは気がついてくれるかしら」
彼の私室に手紙を置いてきたが、読んでもらえるだろうか。
一晩悶々としながら書いた超大作――もとい手紙なので、大分読み応えがある内容になっている。
あいさつの代わりになってくれることを祈るばかりだ。
「時間稼ぎはこれくらいにして、そろそろ諦めて行くとしましょう」
いつまでもルリエーブルの帰りを待っているわけにいかない。
後ろ髪を引かれる思いだが、門の前に止まる馬車を見て、ノルマリスは歩調を速めた。
通常、地方に派遣される花の聖女に与えられるのは質素な馬車だ。
ひどい時は、乗合馬車を使うようにと言われるらしい。
だが今回、その心配は無用だ。
王太子の婚約を祝うための派遣なので、わかりやすく豪華な馬車が手配されるはずだ――とメイディが言っていた。
「たしかに、聞いていたものよりだいぶいい馬車だわ」
これならば、決して短くない旅も心地よく過ごせるだろう。
ホッと胸を撫で下ろしながら馬車に駆け寄ると、ある人物たちがノルマリスを待っていた。
「えっ、メイディ様? それに、ハイス侯爵様まで。こんな朝早くに、どうしたのですか?」
「いやだわ。そんなこと、決まっているでしょう? ねぇ、あなた」
「もちろん。木香薔薇の聖女様を見送りに来たのだよ」
ぷくりと頬を膨らませるメイディの目は、「案の定、家族の見送りがないじゃない!」と言っているようである。
そんな妻を、ハイス侯爵は愛に満ちた目で微笑ましく見ていた。
「見送りだけではないのよ。わたくしたち、あなたの旅に同行させたい人を連れてきたの」
メイディはハイス侯爵と目配せをしたあと、一人の女性を前に出した。
くすんだ暗めの赤色の髪に、深い緑色の目。
警戒心のない穏やかな顔立ちと福福しい体形は、ぬいぐるみのようである。
懐かしい顔にノルマリスはあっと小さく声を漏らして、ふわりと表情を緩めた。
「まぁ、マリーンではありませんか」
「お久しぶりです、ノルマリス様」
そう言って、マリーンはくしゃりと破顔した。
マリーンことマリーン・ケファは、かつてロートレック侯爵家に勤めていたメイドだ。
エリナの理不尽な要求からノルマリスをかばった時、メイドの分際で刃向かったからという理由でクビになった。
その後は、ノルマリスの紹介でハイス侯爵家に雇われていたはずだが――。
「あなたも見送りに来てくれたの?」
不思議そうにしているノルマリスに、メイディはふふっと笑う。
見慣れたいたずらな笑みに、これはなにかあるのだろうなとノルマリスは察した。
「この子、あなたがヴルツェルに派遣されると聞いて、暇をくださいと願い出てきたのよ。ロートレック侯爵家は絶対に、侍女をつけないからって」
「しかし、ハイス家としては有能なメイドを手放したくなくてね。しばらくの間は研修という名目で、あなたに同行させてはどうかという話になった」
聞けば、マリーンはメイド業だけでなく秘書的な仕事にも適正があるらしい。
宿の手配などは任せてほしいと言われて、ノルマリスは恐縮する。
ハイス侯爵夫妻の提案はノルマリスにとって都合が良すぎた。
しかし、断るにはあまりにも魅力的な提案だ。なぜなら、マリーンはルリエーブルの次に信頼している人物だから。
「わたくしについて来ても、勉強になるかどうか……。ねぇ、マリーン。わたくしに恩義を感じる必要なんてないのよ?」
断るべきだと、頭ではわかっている。
だが、生まれて初めて王都を出る不安はノルマリスを弱気にさせ、曖昧な言葉を紡がせた。
「私が……。いいえ、あたしが、ノルマリス様について行きたいのです。ご迷惑でなければ、連れて行ってください」
メイディのそばがいいに決まっている。
けれど、マリーンの決心は固いようだ。
(どうしましょう……)
「ダメだと言われても、乗合馬車で追いかけるまでです!」
「それは……」
ノルマリスの気持ちはグラグラ揺れた。
「ノルマリスちゃん……」
「ノルマリス様……」
とどめとばかりに愛らしい女性二人からすがるように見つめられて、それでも否と言える人はいるのだろうか。
(ああ、ハイス侯爵様が嫉妬のあまり恐ろしいお顔をされていらっしゃるわ)
これにはノルマリスもたまらず、逃げるようにマリーンの手を取って馬車に乗り込んだのだった。