03*木香薔薇の祝福
婚約破棄宣言から一週間が経った。
ノルマリスとアリスターの婚約破棄は問題なく受理され、アリスターはエリナと婚約を結び直した。
それによってロートレック家でのノルマリスの立場はますます悪くなったが、それでも彼女はルリエーブルの手を取って王都から逃げることはなかった。
木香薔薇の祝福を求める人がいる限り、ノルマリスは王都を離れるつもりはない。
陰でハズレ聖女と嗤われようとも、彼女は木香薔薇の聖女であることに誇りを持っているのだ。
「──結果は以上です。なにかご質問はございますか?」
「いいえ、ありません。ありがとうございます、聖女様。私、きっとすてきな旦那様をゲットしてみせます!」
「ええ。それでは、お気をつけてお帰りください」
「ありがとうございました!」
本日最後の訪問者を見送り、ノルマリスはふぅと緊張を解いた。
しかし、家に帰ることを考えると途端に憂鬱な気分になる。
「帰りたく、ないな……」
ぽつりとつぶやいた、その時だった。
ドアノブが回る音がして、ノルマリスは振り返る。
「ノルマリス様〜」
「お願いがあるんです〜」
ノックもなしに部屋へ入ってきたのは、女性神官二人だ。
一人は水が入っているバケツを、もう一人はモップを持っている。
ばっちり化粧をしているところを見るに、これからデートだろうか。
嫌だけど救いも感じる微妙な予感を抱いて、ノルマリスは笑みを張り付ける。
「はい、なんでしょう?」
答えながら、ノルマリスは胸中でため息を吐いた。
(いつものアレかしら? それとも、アレ……?)
この二人との付き合いは、三年ほどになる。
一年の聖女訓練を経て、花の聖女として神殿でおつとめするようになってからだ。
神官の主な仕事は、聖女のフォローである。
ノルマリスが存分に祝福を使えるように、スケジュールを調整したり、環境を整えたりする。
しかし、彼女たちからそのようなことをされたことは一度もない。
(逆のことなら、されていますけれど……)
ノルマリスと同時期に聖女の儀を受けた彼女たちは、聖女になれなかった失望感や日頃の鬱憤をノルマリスにぶつけて解消しているらしい。
ノルマリスが家族から冷遇されている話は多くの人が知るところになっていたから、自分たちがいじめたって問題ないだろうと思っているのかもしれない。
最初は私物を隠したり、呪いの手紙を机に置いたりと小さないたずらを繰り返していたが、ノルマリスが気にしないでいると雑用を押し付けてくるようになった。
ある時は掃除を押し付けられ、またある時は「友人なんだから融通しろ」と神殿外で花の祝福を使うよう強要される。
拒否の姿勢を取ると「祝福をもらえなかった私たちを馬鹿にしている!」と吹聴して回られた。
神官の多くは、花の聖女になれなかった者だ。
ノルマリスがされていることを、多くの神官たちは見て見ぬふりをした。
それが、花の聖女に与えられる通過儀礼だから。
聖女たるもの、この程度で弱音を吐くなんてあり得ない──ということらしい。
(薔薇の聖女様には、しないのに)
花の女神の名前は、ローゼリア。
薔薇の名を持つ影響なのか、花の聖女の中でも特に薔薇の聖女の力は強く出る。
ゆえに、薔薇の聖女は尊ばれるのだ。
木香薔薇も薔薇だが、異国の固有種であるせいか力は弱い。
幸か不幸か、ノルマリスは身の回りのことはなんでもできるようにしつけられていたから、特に困ることはなかった。
家に帰っても妹のわがままに振り回されるだけなので、むしろ好都合なくらいだ。
まさか、黄薔薇の聖女になるための教育がこんな形で役に立つとは思いもしなかったけれど。
「私たち、これから用事があるんですぅ」
「お掃除、お願いしますね〜」
水の入ったバケツとモップを押し付けられる。
三年前はおろおろと受け取るばかりだったノルマリスも、今となっては慣れたもの。
「ええ、わかりましたわ」
押し付けられたモップを握りしめながら、ノルマリスはおっとりと微笑んだ。
そんな彼女を見て、神官たちはププッと嘲笑を漏らす。
「じゃあ、お願いしますねぇ」
「失礼しま〜す」
バタバタと部屋を出て行く神官たち。
やがて、廊下の向こうから声が聞こえてきた。
「わかりましたわ、だって」
「押し付けられてるってわかってないのかな〜」
「神殿前で婚約破棄されるくらいだもの。鈍いんじゃない?」
「ハズレ聖女だもの、仕方ないわよ〜」
わかっておりますとも、とノルマリスは肩を竦めた。
バケツとモップを持って、彼女たちが担当している清掃区域へ向かう。
花の聖女が掃除用具を持って歩いているというのに、すれ違う神官たちは驚きもしない。
ノルマリスも当たり前の顔をして、神官たちの横を通り過ぎた。
神官四年目の彼女たちが割り当てられているのは、敷地の奥にある塔だ。
なにに使われる施設なのかわからないが、中には螺旋状の階段があって、上から下までモップで磨くことになっている。
「新米神官に任せないということは、それなりに重要な場所なのでしょうね」
掃除道具を持って階段を上がるのも、慣れたものだ。
モップを動かしながら、ノルマリスは天井を見上げた。
そこには見事なステンドグラスがはめ込まれている。
花の女神ローゼリアをモチーフにしているのだろう。
薔薇と戯れる美しい女性が描かれている。
「…………」
ふと思い立って、ノルマリスは手を止めた。
モップを片隅に置き、ステンドグラスの下にひざまずく。
ステンドグラス越しに月明かりが差し込み、さまざまな色が床を染めていた。
花園のようなそこで、ノルマリスはゆるく手を組んで目を閉じる。
なんのしがらみもなく祈りを捧げるのは久しぶりのことだった。
ノルマリスはいつも、誰かのために木香薔薇の祝福を使っていたから。
ゆるく組んだ手の中に花の感触を覚えてそっと目を開ける。
手の内に、咲きかけの木香薔薇の蕾があった。
ノルマリスの視線の先で、次第に花は咲きほころんでいく。そして──。
『ヴルツェルで、あなたを待っています』
花のささやきに、ノルマリスは目を見開いた。
こんなことは初めてである。
「わたくし宛てのお告げ……?」
木香薔薇の祝福は、花が開く時にささやき声が聞こえる。
花のささやきはノルマリスにしか聞き取れず、それを伝えるまでが彼女の役割だ。
──ヴルツェルで、あなたを待っています。
それは一体、どういう意味なのだろう。
ノルマリスに来いと言っているのだろうか。
「ヴルツェルって、南部にある小さな街よね……?」
けれど、今すぐに行くことはできない。
今日も明日も明後日も、予約でいっぱいなのだから。
申し訳なさを感じて心の中で謝りながら、ノルマリスはのろのろと掃除に戻ったのだった。