第5話 買い物
ゆさ、ゆさ、と小さく体が揺れる。
「レネア、おきて! あさだぞ!」
意識が浮上していくにつれ、ぼそぼそと耳障りだった音がはっきりと聞こえてきた。
ぐらぐらと体に伝わる振動と声はテノ兄さんのものだ。
「レネア、がんばって」
あれ、でもこの優しい声は誰だろう。
まだ半分眠っている頭の片隅で不思議に思いながら、その声に従うように腕を動かして目を擦る。
そして意識がはっきりしてくると、ゆっくりと上半身を起こして目を開けた。
「あ、おきた! レネアおはよー!」
「おはよう、レネア」
視界に映ったのは、満面の笑みのテノ兄さんと小さく微笑んだエルト兄さん。
そうだ、昨日エルト兄さんが帰ってきたんだ。昼はご馳走を食べて、夜もいつもより遅くまで騒いで。
エルト兄さんがいないのが日常だったのに、やっと家族が揃ったという感覚が確かにあった。そして少しの間だけど、それが続くのだ。
そういえば、エルト兄さんにこれを言うのは初めてだ。
差し込んでくる光に目を細め、2人を見て口を開く。
「おはよう」
今日も、一日が始まる。
◇◆◇
朝ご飯を食べ、着替えも済ませる。ここまではルーティンになっているけど、この後の予定はいつも真っ白だ。
さて、今日はどうしようか。
テノ兄さんは、と見れば、母さんに話しかけにいくエルト兄さんをちらちらと見て何か悩んでいるみたいだ。
ほとんど記憶のない兄という存在に戸惑っていたけど、昨日1日でずいぶんと懐いていたから、今日も遊びたいのかもしれない。
でもエルト兄さんはもうこの世界の基準では大人だしな。内職とかがあれば難しいだろうし。
なんて考えながら兄さんと母さんの話に耳を澄ませる。
「母さん、ちょっと買い物に行ってくるね」
「何を買うの?」
「『ライヒュ』。こっちの方が安かったらこっちで買っておこうと思って」
「ライヒュ」が何かはわからないけど、どうやら買い物に行くらしい。
じゃあその間はテノ兄さんと2人で留守番かな。
これからの予定を簡単に立てていると、隣にいたテノ兄さんがたたたっと駆け寄って行った。
「ねぇ! それ、オレもついてっていい?」
えっ。付いて行って何をするんだろう。
驚く私を1人置いて、一瞬考えた様子の母さんはすぐに頷く。
「テノなら大丈夫だろうし、いいわよ。兄さんに迷惑かけないようにね」
「よっしゃ!」
「……絶対にはなれないでね」
「うん! レネアもいいよね?」
じゃあ私は1人になるな、と思っていたら、名前を呼ばれてぴくりと肩が揺れる。
私は関係ないと思ってたけど、どうやら一緒に行きたいらしい。
「レネアも? うーん、それは……」
「寒いし、レネアにはちょっと遠いんじゃないかな……」
案の定2人は難色を示している。確かに足の遅さと体力、外の寒さを考えると快諾し辛いだろう。
どうするのかなと見ていると、母さんが私の方を見て尋ねてきた。
「レネアは? 行きたい?」
「え……、……うん」
どっちでもいいが本心だったけど、テノ兄さんが一緒に行きたそうに私を見ていたから頷いておく。
なおも悩む2人にテノ兄さんの眉はどんどんと下がっていって、顔を顰め始めた。
結局折れたのは保護者2人で、私の外出も許可が下りた。
「……レネアがつかれたら、おれがおぶってくよ」
「そう、じゃあよろしくね。2人とも、ちゃんと兄さんの言うことを聞くのよ」
「うん!」
元気になったテノ兄さんがいの一番に動き出し、大人に手伝ってもらいながらてきぱきと防寒具を付けて出かける準備をする。
そしてしっかりと着込んだのを確認すると、母さんに見送られて家を出た。
逸れると危ないからということで昨日の帰りと同じようにエルト兄さん、テノ兄さん、私の順に手を繋いで、時折寄ってくるブタを避けながら歩く。
「にーさんはしごとしてるの?」
「ううん、まだまだ。父さんみたいになるのはまだ先かな」
テノ兄さんがエルト兄さんに色々と話しかけ、その元気のよさに行き交う人の視線を集めている。
その表情はみんな微笑みを浮かべていて、見守られてるみたいだ。だから小さな子どもを保護者なしで遊ばせるのに不安がないのかな、と思う。
あ、そういえば。訊くのを忘れてた。
「にぃさん、『らいひゅ』ってなに?」
初めて聞く言葉でわからなかったもの。
母さんに馴染みがなさそうな様子が見られなかったってことは、一般人でも使う物のはずだけど。
「あぁ、まだレネアは知らないか。テノはわかる?」
「まなびやでつかうやつ!」
「そうそう。『ライヒュ』はね、大きな石の板に『ワト』を『ニュート』ときに使う物なんだ」
………? 何て?
説明されたら、わからない言葉が増えてしまった。たぶん、「ニュート」が動詞だとは思うけど……。さっぱりわからない。
「『わと』……? 『にゅーと』……?」
復唱しながら首を傾げる。
そんな私にエルト兄さんは焦ったような表情で小さく唸り、とつとつともう一度丁寧に説明し始めた。
「えぇと……、1、2、3とか、あ、い、うとかあるでしょ? それを、うーん……形? にしたのが『ワト』。それで、『ワト』を…………。その形をきずつけたりして見えるように残すのが『ニュート』」
つまり、「ワト」が「文字」のような意味で、「ニュート」が「書く」という意味?
そして石版に文字を書く時に使う、ってことは、「ライヒュ」が「チョーク」みたいなものかな。時代的には「石筆」とか「蝋石」って呼ばれる物の方が正しいのかもしれない。
「わかったかな……。ごめんね、説明が下手で」
「ううん、わかった。ありがとう」
たぶん理解できた、と思う。
「入学して夏をすぎたころかな、それくらいから文字の練習を学び舎でし始めるんだ。テノもしばらくしたら石筆は自分で買いに行くようになるから、この道は覚えておくといいよ」
「わかった!」
「うん」
教育水準は低いと思っていたけど、少なくとも幼稚園レベルの教育は施すらしい。
でも日常生活で文字は見ないし、学舎を卒業したらすぐに働き始めるようだから、庶民ではその後の教育はなさそうだとも思う。
「……レネア、つかれてない?」
「ううん、だいじょぶ」
話題がひと段落ついて、エルト兄さんがぎこちなく覗き込んできて尋ねる。
元々、本当に足が動かなくなるまで自分で歩くつもりだったし、今も多少の疲れは感じるけどおぶってもらうほどではない。
首を横に振れば、そっと頷いて無理はしないでねと言われた。
そうしてしばらく歩くと、目的地である店に着いた。
「とうちゃく。ここが石筆の売ってるお店だよ」
職人の店が並ぶ通りの半ばで立ち止まったのは、前世のような店ではない、この世界ではよくある自宅と仕事場が一体化した家。
「『ドュライエ タム』!」
エルト兄さんが聞き慣れない言葉を言いながら、開け放たれた扉の中に入る。
拙いながらそれを復唱して後に続くと、中には予想通りチョークのようなものと、鉱石の類いだと思われる商品がずらりと並んでいた。
「いらっしゃい。何の用で?」
「石筆を買いに。……2人ははしの方で座って待ってて」
エルト兄さんより少し上くらいの男の子が出迎えて、エルト兄さんがそれに答える。何もすることがない私たちは促されるまま、2人で入り口から少し離れた壁に寄った。
衛生的でない町で過ごす内に、汚い床に座ることに何も思わなくなってしまった。
それでも一応綺麗そうな場所を見繕ってから座り、疲れた体を休めながら買い物の様子を見守る。
兄さんたちの言葉には、ところどころ意味がわからない音や言葉が混ざっていた。ちょっと変わった音はたぶん丁寧語なんだろうなと推察はできるけど、理解できるのはまだ先になりそうだ。
でも、今から勉強しなくちゃ身につくものも身につかない。
2人の様子を見ながら、できる限り会話を聞き取ろうと意識を集中させた。
そうやってエルト兄さんたちの方に注目していたから、テノ兄さんが端に寄ることなく歩き始めたのに気づかなかったし、店に人が入ってきたのにも気づくのが遅れてしまった。
ドンッと小さく音がして、続いてテノ兄さんの驚いた声と舌打ちが聞こえてくる。
驚いてそっちを見ると、深紫の髪をした大柄な男の人がテノ兄さんを睨みつけていた。
「……ふらふらしてんじゃねェよ」
「ご、ごめんなさい……!」
どうやら、男の人が入ってきたのに気づかずテノ兄さんが後ろに下がって、ぶつかってしまったらしい。
無精髭を生やした強面の男の苛立ったような声に、テノ兄さんは飛び退いて謝る。そして彼の様子がよっぽど怖かったのか、怖いのを我慢するような表情で私の方に駆け寄ってきた。
その男の人はといえば、もうこっちには一瞥もくれずにカウンターの方へ向かっていく。
「こんにちは。ちょっと待っててください、『セクラァ』呼んでくるので」
カウンターにいた2人も小さな騒ぎに気づいていたらしく、こっちを向いていた。けれど店員である男の子はさっきの出来事を気にする様子はなく、ひと声かけてカウンターの奥へと消えていく。
残されたエルト兄さんは店員の背を見送ると、側に立つ男の人に向き直った。
「すみません! さっきぶつかってしまったのは、わたくしの弟なんです。けがはありませんか」
「あ? チッ……ガキを連れてくるならしっかり躾けとけ。邪魔だ」
「はい。すみません」
謝罪を終えたエルト兄さんがこっちを見て手招きするや否や、テノ兄さんは素早く移動する。
私も行くべきかなと思ったけど、関係ないかと考え直して上げかけた腰を下ろした。
「テノ」
「ぶ、ぶつかっちゃって、ごめんなさい!」
「すみませんでした」
テノ兄さんの頭を下げさせながら、エルト兄さんももう1度謝る。それに対して男の人は鼻を鳴らすだけで何も言うことはなく、もう興味はないというように視線を戻した。
いまだに不機嫌そうには見えるけど、怒ってはいなさそうだ。
私と同じことを感じたのか、エルト兄さんもほっとしたような表情になる。
そして重い空気が少し晴れたところで、名前なのか役職名なのかわからない「セクラァ」らしき人が、さっきの男の子を従えてやってきた。
「いらっしゃい。待たせてすまないな」
年は50代くらいだろうか。恐らくこの店の店主、親方と呼ばれるような立場の人だろう。
厳格そうな店主は歓迎の言葉をかけると、ふとエルト兄さんに視線を止めた。
「おや、君はどこかで見たことがあるな。えぇと……」
「お久しぶりです。2年前まで石筆を買いに来ていました」
エルト兄さんは軽く頭を下げて、次いで側にいるテノ兄さんを横目でじっと見つめる。
テノ兄さんはその視線に小さく首を傾げていたけれど、すぐにその意味に気がつくと背筋を伸ばし、自己紹介ならぬ他己紹介をし始めた。
「この人はエルトにーさ……エルト・マーセインです!」
「この子は弟のテノ、あっちにいるのが妹のレネアです」
「あぁ、マーセインさんのところの! 君は聖騎士見習いなんだってな。しっかりしているし、流石マーセインさんの息子さんだ」
私の紹介の番には立ち上がって会釈をしておく。
店主は無愛想だった表情を少し緩めると、右耳から垂れるピアスをちらりと見て、エルト兄さんを褒め称えた。
大人と接することがあると、たまにこういうことがある。私たち子どもの言動というよりも、父さんの名声から私たちにも色眼鏡がかかっているような。
父さんが「聖騎士様」と慕われているところを見ることもあるから、人々にとって聖騎士というのはそれほど大きな存在なのかもしれない。
確かに、恐ろしい(らしい)魔物から命がけで守ってくれる、普通の人々にはない力を持った人なのだから、尊敬の対象になるになるのもわからなくはない。
と、和やかな空気が流れていると、不意に冷たい声が空気を切り裂いた。
「見習いとはいえ聖騎士なのに、悪魔かどうかの判別もつかねェのか」
嘲りを含んだ声は全員を硬直させ、肩にのしかかるような重い空気がこの場を支配する。
その声の主、さっきテノ兄さんがぶつかった男を見ると、その目はエルト兄さんを捉えていた。
「カロフュード。この者たちは常識的な行動を取っているだけだろう。それにまだ見習いだ、そんなことを言うもんじゃない」
「へいへい。さっさとこっちの用件を頼むよ」
あぁ、そうか。
この世界では、悪魔に捕われるのを避けるため、自分から名前を教えない。
それは相手が悪魔であることを危惧しての慣習だ。
けれど裏を返せば、自ら名前を告げるということは、相手への信頼の証明になりえるということだ。
それにこの男の言う通り、人には見えないものを視て倒す聖騎士ならば、自ら名前を告げないということは、魔物を見極めることのできない未熟者であると公言しているようなものなのかもしれない。
「すまないな、この男の言ったことは忘れるといい。……ホッド、この者たちの続きを」
「はい!」
店主が男の子に指示し、自分はカロフュードと呼んだ男を連れて店の一角へと寄っていく。
男の言葉に頰を薄らと赤くしたエルト兄さんは、男の子に促されるがまま男から視線を逸らすと、ぎこちなく石筆を選びに戻った。
「あ、い、う」とあるけどもちろん五十音をそのまま言ってるわけじゃない。英語で言うなら「A、B、C」。
この小説は基本こちらの世界の言語を翻訳している感じ。にしてはおかしい部分もあるけど。