第0話 神様
はっと目が覚める。
いや、目が覚めたと知覚した。
視界は真っ白で何もない。見覚えのない場所にきょろきょろと辺りを見回しても、白以外の何もなかった。
上下左右もなくどこまでも真っ白な空間が続いているような気がするし、境目さえ見えない、狭い真っ白な部屋に閉じ込められているような気もする。
ここは、どこだろう。こんな場所が存在するの?
いや、それよりも、よく考えれば私は死んだはず。
ありえない空間について考えるのはやめて記憶を探ると、最後の記憶は駅の長い階段から落ちたところだ。
下を向いて自分の体を見れば、あの時と同じ服を着た自分の体がある。さっきまでなぜかほとんどなかった体の感覚が戻ってきて、右手を動かそうとするときちんと動いたことにほっとした。
体に痛みはなく、傷もなくここにいる。でもこの真っ白な世界は非現実的で、階段から落ちたあの記憶は紛れもなく現実だ。
あの時私は死んだと思ってしまったけど、もしかして打ちどころがよくて眠っている、とか。なら、これは夢だろうか。
「お、起きたか」
色々と考えていると、突然男にも女にも、老人にも若人にも聞こえる声がして、肩がびくりと跳ねた。
耳から聞こえたというよりは頭の中に響くようで、いったい誰だと辺りを見回す。けれど、視界に映るのは白ばかりで誰も見当たらない。
「私はこの世界の神だ。ほら、こっちを向け」
右の方から? でも、誰もいなかったはず。
怪訝に思いながら声が聞こえた気がする方を向く。すると、さっきまで誰もいなかったはずの場所には、白く長い髭を蓄えた老人が立っていた。
「ひっ……!?」
非現実的な出来事の連続に小さく悲鳴を漏らして後ろに下がる。
確かに、さっきまで私以外に人はいなかった。なのに、何で? 人が急に現れた? しかも神? 自分を神だって?
わけがわからない。自分を神だというこの老人も、この世界も、何もかもが信じられなかった。
「だ、誰……? なに、何なの……!?」
「私は神だ。ほら、お前の想像する神と同じ姿をしているだろう? お前が想像したから、私の体や声が作られた。ここは死後の世界、お前の精神世界だ」
そう言った老人の声はさっきのようなたくさんの人の声が混ざったような声ではなく、1人の男のしわがれた声だった。けれどその話し方は若々しく、どこか違和感がある。
神、死後、精神世界。
なんて単語ばかり頭の中をぐるぐると巡って、彼の話す内容は一切頭に入らない。意味がわからずぽかんと自称神を見つめていると、ぼそりと言葉を零した。
「やはり、皆似たような姿を想像するな。喋り方も合わせた方がいいか」
全くもって意味がわからない。どうすればいいのだろうと考えても、逃げても先がないのは明白だったし、恐らくこの自称神はこの状況を理解している。
つまるところ、私は常識外れの彼の言葉を理解して、なんとかこの状況を打破しなければいけないのだろう。
口元に手を当て、んんっ、と軽く咳払いをした老人は改めてこちらを見ると、目を細めて優しく笑う。
「初めまして。わしはこの世界の神じゃ。おぬしを導くためにここに現れた」
その声は先ほどと同じながらもより深く、穏やかな話し方をしていた。それこそ、童話に出てくるような「おじいさん」のように。
本音を言うと、思考停止したい。でも、思考停止してもどうにもならないのはわかっている。
1つ大きく深呼吸をして、穏やかに微笑む老人を見る。
神というのは疑わなくていいだろう。こんな世界、夢か、それこそ彼の言うように死後の世界でしかありえない。夢なら笑い話、本当に死後の世界ならば信じなければ進まない。
私が落ち着いたのを見計らって、老人が話し出す。
「さて。まず、おぬしは自分が死んだことを理解しておるか?」
「は、はい。階段から落ちて……、やっぱり死んだんですね」
死んだ、と聞いても悲しくはなかった。
あの最期の瞬間に悟ったからなのかもしれない。やっぱり、と言う気持ちが大きくて、何より、未練を残せるほどの何かも持っていなかった。
「そしてここは死後の世界。おぬしの精神世界じゃ。本来ならば消滅する──おぬしらの言うところの成仏か? 消えてなくなる魂じゃが、おぬしだけは事情が異なるゆえに機会をやろうと思うたのだ」
「事情が異なる?」
「そうじゃ」
ふと思い出した、始めに言っていた「お前が想像したから作られた」という言葉の意味も気になるけど、あまり重要ではないだろう。
それよりも、事情が異なるということの方が気にかかる。足を滑らせて階段から落下死、なんてそれほど特殊な死に方ではないと思うのだけど。
首を少し傾げながら聞き返せば、軽く頷かれる。
そして神様は、変わらない慈しむような表情で、私の生を否定した。
「おぬしは本来、生まれるはずのない子じゃった」
ひゅっ、と喉が鳴る。体が動かなくなって、目の前で笑うヒトから目を逸らせない。
今、この神は何と言った?
理解できない。理解したくない。
老人の笑みが歪んで見える。
思い出したのは、誰もいない部屋と、両親の後ろ姿と、私を見る冷たい目。
──あぁ、そうか。だから、私は。
「──……そうですか」
「あぁ。本来生まれるはずもなく、また死ぬはずもなく、おぬしは生まれて死んだ。だから、機会を与えてやろうと思うたのだ」
どくりと跳ねた心臓はいつの間にか元通りで、痛いだとか苦しいだとかもない。絶望も悲しみもなく、ただ納得した。
目を瞑り、息を吸って、吐いて。
下を向けば自分の体はここにある。ただ、本来はないはずだった。本来生まれるはずがなかった私が、他者と関われるわけがなかった。
ただそれだけだ。
じゃあ、機会とは何だろう。
思考を切り替えて神様を見やれば、小さく頷いて続きを説明し始めた。
「この世界では十分に生きることはできなかったろう。わしの手違いで、すまぬことをした。その詫びに、次の生を与えてやろうと思うたのだ」
「次の生?」
「転生という言葉を聞いたことがあるじゃろう? 同じ魂が再びこの世に生まれることだ。おぬしを転生させ、もう1度人として生を歩ませてやろうということじゃな」
輪廻転生。知ってはいたけれど、本当にあるとは思っていなかった。
そうですか、と言うと神様は満足そうに頷いている。
「そしておぬしにはもう1つ、特典をやろう。好きなことを言うがよい。その通りの特典をつけてやろう」
「特典……」
「『転生特典』などと言うじゃろう。例えば、『容姿端麗になりたい』、『頭脳明晰になりたい』、『王家に生まれたい』。『最強の勇者になりたい』でもよいぞ」
最後の例はよくわからないけれど、つまり転生後の世界で自分に何かしらの特性を付与できるということなのだろうか。
「……わかりました。それなら、」
私は、私がどこかおかしいと自覚している。
悲しいだとか、辛いだとかはなかった。嬉しいことも幸せなこともなかった。今まで生きてきて、欲しいものの1つもなかった。本来生まれるはずではなかったと言われても、動揺はしてもただ納得しただけだった。
けれど新しい人生を歩むというのなら、私も変わってみたい。少しだけ羨ましく感じても変わらなかったがらんどうな自分から、変わってみたい。
生まれる家を選べるというのなら、きっとこれもできるだろう。
「それなら、愛されたいです」
子どもを望んで産み、愛し育ててくれる親の下へ。少しでも笑顔のある温かな家庭へ。
切望と言うほどではないけれど、たった1つだけ羨ましいと感じたものがある。
すれ違う人たちはきらきらと輝いて、今を生きていた。それが眩しくて、少しだけ、ほんの少しだけ羨ましかった。
「『愛され』でいいのだな?」
目を細め、低い声で尋ねる神様に、はいと答える。
「よかろう! では、次の生を楽しむがよい」
神様が両腕を上げると同時に光の粒子が周りに現れ、圧倒されるような、けれど優しい力の奔流を感じた。驚いて見渡せば、私の体も溶け出すように光になって漂い、輝きを増している。
どこか幻想的な空間は眩しくて、細めそうになる目を開いて最後の景色を焼きつける。力を溜めているようだった神様と目が合うと、彼は目尻を下げて優しく笑った。
このまま消えるのだろう、と僅かに穏やかな気持ちになって、ふと気づく。
そういえば、お礼を言ってない。
しまった、と急いで口を開いて呼びかける。
「あの──」
「あっ!!」
けれど同時に、私よりも数倍大きな声を上げた神様に驚いて口を噤んだ。何か不都合があったのだろうか。
「そういえば、転生する世界の希望とかある!?」
就職活動かよ、と内心で初めてツッコミながら、「ないです」と答えたところで意識は途切れた。
やる前に死んだから就職活動とかよく知らないけど。
◇◆◇
私の周りにいる人たちは、いつもきらきらしていた。大切な人がいて、好きなことがあって、愛されていて、今を懸命に生きている人たち。
それが眩しくて、ほんの少しだけ羨ましくて、ほんの少しだけ憧れた。
でも、私は変わらなかったから。
“私”ではなれないと思ったから、来世があるなら変わってみたかった。
私はただ、両親から愛を受けて育ちたくて。友人に愛されて日々を過ごしたくて。あのきらきらと眩しい人みたいになりたくて。
だから、「特典」と言われて「愛されること」を選んだのに。
でも、違う。
違う、違う違う違う!
私が望んだのは、そんなものじゃない!
全てから愛されたいと願ったわけじゃない!!
誰もが私を愛した。
1度も話したことがなくても。
意地悪な人でも。
家族も。
友人も。
動物も。
神様も!
みんな私を愛した。まるで、私に対する好意がプログラムされたように。
陳腐なゲームの主人公のようだ。この世界の中心は私で、世界の住人は主人公に対して必ず好意を示す。
それが恐ろしくて、気持ち悪くて。
だから、私も笑うことにした。
他人を見て覚えた笑みを浮かべる。こうして笑っていれば、私は好意を示されてもおかしくない。誰もが好む行動をしていれば、愛されていてもおかしくない。
だから、笑って、笑って、笑って、嗤って。
そうやって生きていたある日、1人の少女と出会った。
いつも通り笑った私を見下して、「気持ち悪い」と吐き捨てた、この世界で生きるたった1人の人間に。