新たなステージ
9月22日(日)13時28分
「まだまだぁ!」
「鈍い!」
ガギィィィン
「うわっ」
ドガァァァン
鋭い一閃が放たれ、私は壁に叩きつけられた。そして私を追うように、最後のメイド(妹)が迫ってくる。私は頬を叩き、朦朧とする意識をなんとか保つ。そして体を起こし、メイドの頭を目掛けて、蹴りを入れる。
バゴォン
私の蹴りを受けたメイドの頭部はそのまま弾け飛び、胴体はオイルをまき散らしながら床に崩れ落ちた。
「あ、やべ」
ドサァ
しかし、崩れ落ちたのはメイドだけでなく、私もだった。何時間続いたのかもわからない戦闘で、私の体力はすでに限界を超え、もはや立っているだけでやっとだった。
更にそれに加えて、限界を超えた空腹と眠気が目眩と吐き気を引き起こし、気を張らなければどこが地面なのかさえわからない。
「おや、まだ立つのですね」
けれどどうしても、私はまだ倒れたくなかった。
はじめはイチと私の一騎打ちの様相を呈していた。しかし、時間を追うごとに、メイド達は目を覚まし、邪魔者の数は増えていく一方だった。私はイチの攻撃をかわしながら、ひたすらアンドロイドと組み手を約300。その間、私はイチの攻撃をなんとかいなし、受け続けた。けれど、私の方は攻撃を仕掛けるどころか、ろくに攻撃のチャンスすら与えてもらえなかった。
お前を倒してやるなんて啖呵を切っておきながら、やってみたら指一本触れられないまま殺されましたなんて笑えるか。
何日も必死にもがいて、ようやく雑魚を全部倒し、やっと一騎打ちができるのだ。体が動く限り戦い続け、なんとしてもぶっ倒してやる。
立ち上がった私を見て、イチは口角を上げ、嫌な笑みを見せる。そして、再び地底人と同じ居合の構えをとった。イチの構えに隙を探るが、案の定そんなものは用意されていない。しかし、探り合いなんてしてたら、私の意識の方が保たない。
ダンッ
イチの隙を探すことを、頭から切り離す。そして、私が1番得意な立ち合いができる場所へ向け、地面を力一杯踏み切る。
ガイィィィィン
そして1秒もない間の後、さらに速度を増した一閃が飛び、私の右腕と交差した。瞬間火花が飛び散り、刀と腕の両方が衝撃に弾き戻される。
私は無理な姿勢になることを承知の上で、弾かれた反動を利用し、イチの顔に思い切り左の突きを喰らわせた。
ドガァァァン
途端にイチの体は空中に浮き上がり、次の瞬間には、さっきまでの私のように壁に突き刺さっていた。
「は、はは、ははは」
この瞬間、私はイチを追いかけ、とどめを差すべきだろう。けれど、私はそうすることができなかった。
刀を弾き、攻撃を加えた。今の立ち会いだけ見れば確実に私が優勢だったはずだ。しかし、立ち会いを終えた途端、手足が震え私は笑うことしかできなくなっていた。
お互いの攻撃が交差した瞬間、私は明らかに上のステージの光景を見ていた。時間の流れがゆっくりに感じ、相手の動きがスローに感じられることは、今までも何度か経験した。けれど、今回私は一度の立ち合いの中で、相手の先の動きが無数に見えた。
右腕を出せば間に合わず、首元を切られて即死。足をだせば差し違え足を失う。相手に届くのは左の突きだけ。
ほんの一瞬のうちに、無数のビジョンが頭の中に再生され、そのなかで幾度となく私の腕や足が切り落とされた。しかし、左の突きだけは相手の反応が間に合わないということが、攻撃をする前から見えたのだ。
今まではせいぜい、必死に頭を回転させて次の手を考えるくらいだった。けれど、あれは間違いなく、未来のビジョンだった。
ギギギギギ ガシャン
「急な成長ですね。驚きました」
前から聞こえてきた音に、私は意識を引き戻される。そこでようやくハッとなって前を見ると、考え込んでいる間にイチは壁から抜け出てしまっていた。
「では、少しレベルを上げましょう」
イチは鞘から刀を抜き、体の前に構えた。おそらく、いままでとは全く違う立ち会いになるだろう。体はフラフラで、立っているのがやっと。そして時間経過だけでも、私の体力は蝕まれ、いつ意識が飛ぶかもわからない。そんな状況ではいつまで戦っていられるかもわからない。しかし私の頭の中は、ある感情で満たされてしまっていた。
「ああ、まだまだいくぜ。簡単に死んでくれんじゃねえぞ」
この戦いをもっと噛み締めたい。私も、地底人と同じ、上のステージに進みたい。
私は地面を蹴り、警戒すべきはずの、構えを変えたイチに向かって、思い切り踏み出した。
「おらぁぁあ!!」
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9月23日(日)10時32分
「マスター。癖は直りました。短時間にしては、成果は上々かと」
「鬼かお前は。間に合わないかもしれないから、お前を行かせたんじゃ。それなのに、全員と戦わせた後に自分も戦うやつがあるか」
「妹たちの戦闘も含め、1番無駄が出ないようにアシストしたつもりですが。何か問題があったでしょうか」
モニターを確認すると、広大な実験用通路には、無残に破壊された我が娘達1000体と、疲れ果てて寝こけたお嬢ちゃんが転がっていた。
娘たちは廃棄予定の1000体をピックアップしたから、潰されても問題ない。それに確かに、イチはお嬢ちゃんに右手を使わせないように指示を出しながら、うまく娘たちと戦わせていた。その上でイチとも戦闘ができるのなら、それが最も好ましいのは間違いない。
けれど、お嬢ちゃんの肉体への負担を考えれば、大博打にも程がある。もし臓器にこれ以上ひどい損傷を受ければ、さすがにわしでも対処に困るわ。
「まったく、こんな無茶をして。無事じゃったから良かったものの……それでも、何日動けなくなると思ってるんじゃ」
「丸2日間です。しかしマスターのことです。新たな改造を施すのでしょう?培養液の中なら動けなくても支障はないと判断しました」
「処置といえ、処置と。じゃが、まぁその……なんでもないわい!」
負傷レベルも身体機能も、どちらも加味した上での判断、か。確かにイチらしい合理的な判断ではある。まぁ、他のアンドロイドや一端の医師ならこんな無謀な選択はしないじゃろうが。しかし、結果的に無事で済んでしまっておる以上、こうなれば、わしがもう何を言っても無駄じゃろう。
幸い体を作り替えたおかげで細胞自体の回復速度は折り紙付きじゃ。生きて帰ってこれた時点で、経験値が蓄積されるのは間違いない。あとはわしの最後の仕上げだけなわけじゃな。
「それより、マスター。彼とは連絡がついたのですか?」
「滞りないわい。お嬢ちゃんをここで預かるわけにはいかんからのう」
「そうですね。ここの場所が露呈すれば、大変なことが起こりかねません」
「ああ。そうじゃな」
イチはわしと話しながら、部屋に据え置かれた内線電話に近づくと、耳部からコードを取り出し、手際よく配線に繋いでいく。アンドロイドたちは、盗聴防止のために独自の信号でメッセージを伝え合う。おそらく、今回は妹の誰かにお嬢ちゃんの回収でも頼んだのじゃろう。
イチはメッセージの送受信を終えると、耳部に再びコードを収納した。それ自体は、なんの支障もきたさない動作のはずだ。しかし、今日のイチの動作には、人間的なぎこちなさがあった。
「イチ、どうした?」
「いえ。肩部ユニットを一部損傷してしまったようです。他にも右膝の回路、右手首の駆動ユニットにも異常が出ています」
「そんなに強かったのか?それとも、わしが殺すなと言っておったからか?」
「ワタシの計算どおりの強さでした。しかし、火事場力を考慮しても、成長速度があまりにも人間のレベルを逸脱していました。」
「はっはっは!そうか、そうか!」
想定を遥かに超えた想定内じゃ。お嬢ちゃんの能力を向上させるための手術を兼ねておったが、さすがに成長が早すぎる。けへど、それも含めて、お嬢ちゃんの怪物性は、"彼"そのものじゃ。
イチのボディはそんじょそこらの重機では敵わないほど耐久性に優れておる。更にそのボディにインストールしていたのは、1番尖っていた時のシャドウのデータ。低く見積もっても、Sランク上位の実力はあったはずじゃ。それを、あんなボロボロの状態にありながら、ここまでの損傷を与えるとは。まさか、あわよくばと思っていたことを、ここまでことごとく超えた結果を出してくるとは。
ギィィィイ
「マスター、入るぞ。注文のものを届に来た。受け取れ」
そうこうしているうちに、研究室兼自室の扉が開かれ、娘が入ってくる。入ってきたのは予想どおり、パワーに優れたゴじゃった。ゴは部屋に入るなり肩に担いだお嬢ちゃんをイチに向けて投げつけた。
「投げないで。危ないわね」
肩を怪我したイチがどうするのか見ていると、イチはなんと飛んでくるお嬢ちゃんに向けて拳を構えた。そして、イチのもとにお嬢ちゃんが到達した瞬間、イチはお嬢ちゃんを実験用の培養液が入ったプールへと叩き落とした。
ガゴ バシャーン
「イチ。流石にそれ、マズくない?怪我とかしないかのう」
「知りません。ワタシも怪我を負いました」
「そうですか」
投げ込まれた拍子に、緑色の培養液が勢いよく飛び散り、わしの衣服や周囲の研究物まで、部屋にあるものほとんどをびしゃびしゃに濡らした。
「ぶっふぁ、ゴボゴボ、うぉ、なんだこれ、ゴボボボ」
そして2秒ほど置いて、投げ込まれたお嬢ちゃんがもがき出す。しかし、お嬢ちゃんが入れられた液体には、あらかじめ生きていくのに必要な酸素が十分に含まれている。暴れず、素直に肺の中まで液体で満たしてしまえば、地上のように肺呼吸ができるようになる。むしろ、暴れて酸欠状態を起こしパニックになれば、体にも脳にもダメージが加わってしまう。
「イチ」
「はい、マスター」
バチバチバチバチ
イチの操作で、水槽内に電流が流れる。流すことでお嬢ちゃんを気絶させる。普通なら致死レベルの感電だが、今のお嬢ちゃんの体なら耐えられるはずじゃ。
部屋の中を見渡すと、わしの数々の発明品までが培養液に浸っている。どれも水には強いが、汚されていい気はしない。いつもなら、イチを叱り付けているところじゃ。けれど、今そんなことはどうでもいい。何を置いても、この楽しそうな被検体で実験がしたくてたまらない。それにお嬢ちゃんの体につけた装置は、どれも実際に使ったことのないものばかりじゃ。正直に言って、臨床データの収集を含めると全く時間が足りておらん。
わしは手早くゴム手袋を装着し、イチが戦っている間に調整していた新しい装備を手に取る。そして、最終確認のために一周回してネジの締め忘れなどがないかチェックする。
「……よし」
基盤もよくできておるし、駆動にも問題なさそうじゃ。今のお嬢ちゃんにはちと過ぎた装備かもしれんが、成長速度を加味すれば問題なく使いこなせるようになるはずじゃ。
「イチ。」
「はい、マスター」
わしが名前を呼んだだけで、イチは新装備の移植の準備を始める。培養液の中で、ロボットアーム先端の回転刃が勢いよく回転する。そして、イチは刃を当てる場所を確認すると、一気に押し当てた。
「ガババババババババ」
あまりの痛みに、お嬢ちゃんは水の中でまた暴れ出す。しかし、幾度の実験を経て経験を積んだイチには、そんなことはなんの影響も与えない。イチは、暴れるお嬢ちゃんの体を別のアームで押さえつけながら、一気に腕を切断した。
切断後、静かになったのでお嬢ちゃんを確認するとどうやら、痛みによって再び気絶してしまったようじゃ。
先の戦闘で、イチが是正したお嬢ちゃんの癖とは、得意な踏み込みと利き腕の突きに頼りすぎることじゃった。そして、その癖は腕が機械になり、相手が大人数じゃったことによって悪化してしまった。
イチが右手を使わせないように戦闘を動かしていたのは、体の使い方を思い出させるためじゃったというわけじゃ。
そしてイチの計算通りお嬢ちゃんは、戦闘の中で右腕以外の決定打を使えるようになった。
そして、わしは初めからイチが成功すると踏み、興味80%の新しい装備を開発していた。それは右手を主体とした戦闘を行わないことを前提とし、性能を格段に向上した腕だ。
しかし、実はこの選択はなかなかに危険とも言える。何故ならこの腕は、今のお嬢ちゃんには絶対に扱えない代物だからじゃ。けれど、これからの成長を考えるなら、間違いなく必要なものじゃし、それに、これからお嬢ちゃんにもう1度わしが接触できる機会はしばらく訪れないじゃろう。
この策が吉と出るか凶と出るかは、正直お嬢ちゃん次第ですらない。あの腕が育つ環境と、出会う相手次第じゃろう。わしはあと2日で、体をみっちり作り替える。そうなれば後はおじょうちゃんに慣れてもらうほかにない。悪いが、お嬢ちゃんにはもうしばらく苦しんでもらうことになるじゃろう。
わしはゴーグルを装着し、ロボットアームを操作する装置に手を入れる。すると、アームから無数の触手が伸び、お嬢ちゃんに突き刺さる。そして体内を、再び人工白血球液で満たしていく。
「ガババババババ、ガババババババ」
そして少し間を開けて、お嬢ちゃんは再び苦しみ始めた。けれど、この苦しみは、麻酔を打ったとしても無くなることはない。まぁ、体の機能が低下するから、麻酔なんか打たんけど。
それから1分ほど経過し、完全に注入が終わると、暴れるお嬢ちゃんをよそに体の各部の調整を始める。そういえば、栄養を取らず戦ったせいで人工肝臓も弱ったはずじゃ。ちょっと様子でも見てくるかの。
わしはお嬢ちゃんの腹を裂くためメスのついたアームを操作し、容赦なくお嬢ちゃんの腹に突き立てた。
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9月26日(火)11時53分
「じいさん、世話になったな」
「気にすることはない。全てわしの趣味じゃからな」
「そうかい。……変なことしてないだろうな?」
「しとらんわい。改造してやっただけじゃ」
それ、十分変なことだろ。というツッコミを喉の奥にぐっと押し込める。そして、じいさんの横に立っているイチに視線を送る。イチはあの戦闘などなかったかのように、美しい顔に機械的な笑みを浮かべ首を傾げている。今襲いかかったら、また楽しい戦闘ができるのだろうが、世話になったのも事実だ、今はやめておこう。
寝ずに廊下でイチと戦ったあと、気づいたら私はまたベッドの上に寝ていた。悪い夢だったのかもしれないと思い、腕を見てみると右腕の先にはなんと、いたって普通の人の腕がついていた。それはそれで、訳がわからず側にいたイチに聞いてみると、外の世界に出るために人工皮膚をつけてくれたそうだ。
私が寝ている間に、何をされたのかはわからない。しかし、起きてみると体はすこぶる調子がよかった。もしかすると、寝ている間に、じいさんがまた調整でもしてくれたのかもしれない。
「お嬢ちゃん。2つ約束してくれ」
私が妙に慣れない右手の感触を確かめていると、じいさんが神妙な面持ちで切り出してきた。
「なんだよ」
「まず、わしに会ったことと、腕をどこでもらったのかは口外しないで欲しい」
「わかった」
「えらくすんなりじゃな。逆に不安じゃ」
「言われると思ってたからな。社会常識をぶっ壊すようなあんたの発明を口外すれば、あんたはもちろん私だってただじゃ済まない。釘なんか刺さなくても、常識があるやつなら口外したりしないだろ」
私の言葉を聞き、じいさんは更に訝しい表情になった。それから、イチと顔を合わせ、何やら考え出してしまった。
私としては自分の予想を言ったまでなので、予想を外しているのなら少し悔しいが、何にしても口外などするつもりもない。だから、これからじいさんにどんな理由を言われようとも問題はない。
「まあ、それなら良いわい」
けれど、じいさんは一通り悩んだ後、何も言わずに納得してしまった。なんとなく含みを感じるで追求しようかと思ったが、2つ目の話を聞いていないので、いったん置いておくことする。
「それで、2つ目はなんだよ」
「ああ、それなんじゃが」
じいさんは言葉を選ぶように間を開け、私の右腕を指差し、本題を切り出した。
「お嬢ちゃんの右腕じゃが。日常生活以外で、なるべく使わないようにして欲しいんじゃ」
「なんで?」
「兎に角危険じゃから、かのう。使ってみればどんなものか判る。けれど、使ったときにはもう腕はないかもしれん」
「え、どゆこと?」
どんなヤバイもんをつけられたのか、それから私はじいさんを問い詰めた。そして簡単な説明を受けたが、私にはすごい腕だということ以外はなにも理解できなかった。そして、説明を聞き終える頃には、私は1つ目の約束の時に感じた違和感のことは、すっかり忘れてしまっていた。
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9月26日(火)15時38分
「ぎぃやぁぁああああ!!」
蓋を開けてみれば、じいさんの研究施設は違法建築だった。
地上までは送れないから地図を渡すと言われた。嫌な予感はしていたが、じいさんが喋り終わると同時に、イチに頭を掴まれ地図データを脳に直接送り込まれた。しかし、今回のデータは私の記憶とは違い、4時間後には自動で消滅するらしい。仕組みを聞いてみたい好奇心もあったが、体がこれ以上踏み込むのはやめなさいと言うので止めることにした。
そして、初めて見る3次元構造の地図に苦戦しながら、登っては歩き登っては歩きを繰り返すこと1時間。私がたどり着いたのは、なんと下水道だった。
どうやらさっきまで私がいた場所は、私が暮らす街よりずっと下。下水道の更に下に掘られた空間に建てられているようだった。
じいさんは言わないでくれとか言ってたけど、物理的に言えないことが山ほど詰まっている。自分の人生を考えると、言った方が得になることなど何もない気がする。
そして何故私は今叫んでいるかというと、建築物としてのあまりの違法性に驚いたからなどという理由ではなく。単純に、匂い、汚れ、ネズミ、そして何より虫、むし、ムシ!!
見渡す限りの場所に、ネズミや虫がもううじゃうじゃ。歩けば何かを踏みつけるような感触が靴の裏に走り、跳びのけばそこにもまた虫が。
気づけば私は、この2時間ずっと叫びながら走り続けていた。人生でこんなに大きな声を出したことはない。もはや、どこから声が出ているのか自分でもわからない。
しかし、それにしても目的地が遠い。もはや何から逃げているのかわからない状況ではあるが、むやみやたらに走っているわけではない。じいさんに指定されたポイントまで、実はある程度地図に従って走ってはいるのだ。それに、自慢ではないが、私は走るのが速い。なのに、私の足で走り続けてあと30分で地図消えるとか、見積もりおかしくない?あ、まさか。あのジジイ、イチの足を基準に計測しやがったな。
「どんだけ遠いんだよー!」
そこから更に10分走り続け、ようやくポイントの下にたどり着く。そしてそれから虫に怯えながら長い梯子を登り、マンホールの蓋をこじ開けた。
瞬間、地上から眩いばかりの光が差し込んでくる。私は思わず、梯子から手を離しそうになった。しかし、下に落ちるかもしれないということを考えると、私の手はくっついたように梯子から離れなかった。
「ふん!」
そして、外へ這い出し、私はようやく地上に降り立った。
シュゥゥゥゥ
同時に、頭の中から地図データが消滅していく。試しに思い出そうとしても、どんな形状だったのか思い出すこともできない。実際走ってきた道のりも、走ったせいで全くわからないから、もう一度あそこにたどり着くことはできなそうだ。まぁ、わかっても2度とあんなとこ通りたくないけど。
マンホールの蓋をしめ、何もイレギュラーな生き物が出てこないよう、コンクリートで舗装された大地まで走っていく。そして、私はようやく体についた汚れを払った。けれど、払えども払えども、匂いが体にこびりつき落ちてくれない。その上、どこかにまだ何かついているような感覚も残ったままだ。
私は髪の毛が乱れることも気にせず、髪の毛をかき分けて、中に何も混じっていないことを確認する。しかし、右の手で後ろの髪の毛を確認しているときだった。
ポト
「ひぃぃぃい!!」
手に何かが当たり何かが地面に落ちた。一気に血の気が引き、全身に鳥肌が立つ。私は急いで後ろに跳躍し、その場を離れる。
しかし、幸いそれはただの泥汚れだった。余りにも悲惨な状況にあったせいでどうやら、そういう危機に対して敏感になっていただけのようだ。
ふぅ
安全を確認して、ホッと一息つく。ようやく地獄から解放されたのだと。
「おい、お姉ちゃん。痛ぇんだけど」
しかし、安心したのも束の間。背後から感じたこともないレベルの殺気を感じる。どうやら地獄はまだ続くらしい。
恐る恐る後ろを確認すると、真後ろに黒いスーツに着てサングラスをかけた、見るからに堅気ではない雰囲気の大男が立っている。どうやら私は、飛びのいた拍子に男の前に着地して男の靴を踏みつけてしまったらしい。
「あ、ごめんなさい」
靴からそっと足を下ろす。しかし……
「あ……」
残念なことに、男の高級そうな革靴には、下水道で着いた汚物汚れがべっとりと付いている。
万事休す。
ようやく環境権的な危機から脱したと思ったら、どうやら今度は社会的な危機が訪れようとしているらしい。
ここで1番間違いのない対応は、謝罪して弁償することだろう。しかし、戸籍すらない、一文無しの私には靴の弁償なんてできるはずがない。ならばここはもう、あれしかない。
私は男のそばからそっと離れると、顔を見て誠意を込めて謝罪する。
「あのう、本当にすみませんでした。それじゃあ!」
そして、自慢の健脚を生かして全力で逃亡を試みる。そう、自慢ではないが、私は足が速いのだ。あんな巨体では私を捕らえることすらもできまい。
「おい、待てや!」
「え!?」
ガシッ
しかし私は、次の瞬間にはいともたやすく左腕を掴まれ、拘束されてしまった。
振り返ると、確実に私は20メートル近い距離を踏み込んでいる。それなのに、男は私を一瞬のうちに捉えて見せた。そして再び近づいたことで、恐ろしいオーラに包まれる。そこで私は即座に状況を理解した。こいつ、地底人と同じプロだ。
「殺しはしねーよ」
男は逃げようと暴れる私に優しくそう言った。けれどこの状況で私が無事にすむ訳がないのは明白だ。殺しはしないなんてなんの慰めにもなってない。
「殺さないけど、ボコボコにしたり、売り飛ばしたりするんだろ!」
私は男の腕を必死に振り解こうと右腕に力を込める。しかし、機械の腕で力を込めても、男の腕はびくともしない。
「お前、失礼だな!なんでオレがそんなことしなきゃいけねーんだよ」
「しない理由もないだろ!」
「ある!オレはお前を迎えにきたんだよ」
「へ?」
私を迎えに?まさかじいさんが私が困らないように手配してくれたのか?
いったん落ち着いて周りを見渡してみる。すると、指定されたポイントはどこかの廃工場裏の人気がない場所で、ここには男以外にはどこにも人影はない。
ヤバイじいさんの知り合いならその手のプロだというのも、ありえない話じゃない。もしかしたら、この見た目だけど、良い人ってこともあるかもしれない。いや、靴を汚したのに何も言わないんだから、良い人に決まってるじゃないか。
「くっせ、なんだこれ。迎えを頼んでおきながら、あのじじい汚水管の中を通しやがったな」
男を見ると靴についた汚れと、私の匂いにあくせくしている。確かに言われてみれば、どことなく愛嬌のある人間にも見えてくる。ならば、非礼は私の方だ。
「あの!靴のこと本当にすみませんでした!お許しいただいてありがとうございます!」
私は改めてきちんと謝罪し、感謝の気持ちを述べる。気持ちを伝えるために、3秒間の長い礼を選んだ。これで許されるとは思はないが、少しは気持ちをわかってもらえただろうか。
「あ?馬鹿言え、許さねえよ。お前が働いて弁償しろ」
やっぱ悪人じゃん!いや、高級な靴を汚したんだから普通の反応か。
「あのう、私、戸籍すらないので真っ当には働けないんですけど」
「ああ、それはなんとかしてやる。それに、オレの提案を飲むなら、飯食わせてやるよ。いや、まずシャワーの方がいいか?」
優しい提案を持ちかけてくれようとしているのは、雰囲気でわかる。けれど、この状況で、この好条件。何も聞かずに二つ返事で受けるわけにはいかない。もしかしたら、臓器を売れってこともあるかも知れないし。
「なんですか、提案って」
「なに、そう構えんなって。うちでバイトしねーかって奴だ」
「……どんな、仕事なんですか?」
恐る恐る、踏み込んだ質問をしてみる。すると、聞かれることを予想していたのか、男はにっこりと笑ってこう続けた。
「誰でもできる。お掃除屋さんだ」
殺し屋じゃねーか。
でも、これは間違いなく強くなれる最短ルートだ。受けない理由がない。じいさんの計らいに感謝しないといけない。
「やらせてくれ」
「よろしくな、鏡花。……ああ、そうそう。オレのことは、No.3かボスとでも呼んでくれ」