紅梅
嫌われていたことなんて、知っていましたよ。
それでも、いいや……だからこそ。
憧れて、少しでも近付きたいと思ったんです。
所詮僕は、学者でしかなかった。
周りだってそうだったから、本当の武士は初めて見ました。
……この気持ちが憧れだなどと、正当に美化するのは止しましょう。
嫉妬していました。
負けたくなかったんです。
負けていると認めるのは、耐えられませんでした。
幼少から学問が好きで勉強が好きで、努力することが好きでした。
努力は裏切りません。
自分のがんばった分、費やした時間の分だけ、結果が返ってくるのですから。
苦痛を感じることなく、そして何の疑問も持たずに分厚い本を捲りました。
しかし本物の戦場で役に立ったことがあっただろうか?
僕の修めた学問、賞賛されたはずの西洋兵法書は城を奪ったか、部下の命を救ったか。
二手に分かれた幕軍をそれぞれ率いて、彼の軍が勝ち進んでも、僕の方は肝心な戦こそ敗北を続け、誰の目にも明らかに脚を引っ張ってしまった。
半生を掛けて積み上げたものを容易く、天性の才能で飛び越えられました。
士分ではないのは出自だけで、判断力も統率力も、生まれついての軍人。
この広い世の中で上には上がいることくらいは覚悟もしていましたが、目の前で見せ付けられた時、どんな態度を取ればいいのかは教えてもらわないし、どんな本にも書いていませんでした。
だからずっと、暢気で坊ちゃんの“大鳥圭介”を演じ続けるしかなかったのです。
「はぁ~……あなたが来ないなんてつまらないですねぇ。僕も行くのやめようかなぁ」
「いや、あなたはマズイでしょう」
明治二年五月十日、新政府軍の総攻撃を明日に控え、別盃と称した宴が開かれます。
けれど伝習士官の皆が急かすのを宥めて先に行かせ、部屋まで誘いに来たもののすげなく袖にされてしまいました。
彼の唯一ともいえる弱点が酒だと、知らないではなかったけれど。
「大鳥さんは総督のお気に入りだ。無理にでも引っ張られますよ」
その言葉、そっくりお返しします。
第一、幹部総出の集まりにあなたが現れなくては不審がられるでしょう。
「僕が、あなたと飲みたいんですよ。これが最後なのですから」
勝敗は決していました。
武器が違う。
兵力が違う。
時勢が違う。
僕達は敗けるのです。
味方はこの北限の地まで追い遣られた僅かな“旧幕府”軍のみ……賊軍、と呼ばれています。
残されたのは意地だけ。
どれだけ粘ることができるか。
花は桜木、人は武士……この命すぐに朽ちると知りながらも咲き、潔く、美しく散ることができるのか。
「最後……。今日はまた、どうしました? らしくない」
ジャケットを着る素振りさえなかったのに、口角をクッと上げる癖。
見慣れないのでわかりにくいですけれど、確かに笑われました。
「“生きる為の戦い”と言ったのはあなただ。私に教えてくれたではないですか」
以前この目を細めた時、眩しいのかと訊かれましたね。
眩しいわけでも近眼で見えにくいわけでもなくて、ただ笑っただけなのに。
「すぐ笑って誤魔化そうとなさる」
「いえ。眩しい、のですよ」
この大きな窓の部屋は薄暗く、もうすぐ星も光り出しそうです。
怪訝な表情で椅子に腰掛けてしまいました。
本格的に、出掛けるつもりはないらしいですね。
「大鳥さんは常に前向きに、生きようとしてくれなければ困る。やめてくださいよ、死のうと意気込むなどと」
その言葉も、そっくりお返ししますよ。
おかしいな……初めて会った頃と逆になってしまったみたいです。
「今日は私から言わせてもらう」
僕が何度か言ったことでした。
いつもあなたは、遊びじゃないんだ、甘えるなと言わんばかりに眉を顰めていたけれど。
「生きる為に戦うと、約束してください」
空は立ち上る煙を吸い込むような快晴。
浄化するかのように見えて実は残酷に、この悲しい戦を掻き消そうとするのです。
新撰組が前線に立つ弁天台場が、籠城を始めたらしい。
無意味だなぁ。
籠城とは、これから援軍の来る当てを見越した上で取る戦法なのだから。
不落と謳われた五稜郭も、直に同じ道を辿るでしょうね。
「土方陸軍奉行並、一本木関門にて討死されました!」
やっぱり生涯、追い付くことなどできませんでした。
また、置いて行かれてしまうんですね。
五稜郭に集結し、机上の作戦を練りながら手を拱く“在り来り”な幹部達は、一様に項垂れました。
後の世でも、彼のことは辛くて申し訳が無くて、進んで話題にしようともしなかったくらいです。
この国の、最後の武士を失ってしまった。
ここにいる誰も、代わりになどなれませんでした。
「榎本さん、もう諦めてしまいましょうか」
僕にできるのは、約束を果たすことだけです。
「なっ……正気か、大鳥さん!」
腰抜け、腑抜け、世間知らず。
どう蔑まれても、全てこの身をすり抜ける。
「決断の鈍さは、指揮官最大の罪だ。命を張って戦っているのは僕達の駒ではない。一人ひとり、帰りを待つ者のいる人間です。徒に散らしてはいけません。僕は白旗一番乗りとさせていただきますよ」
出会ったあなたは、死に急ごうとガムシャラになっているようにしか見えませんでした。
でもそれは僕の勘違いだったようです。
きっと、誰よりも精一杯生きようとした。
土方さんに本当に似合う花は、桜よりも梅。
切られても折られても、なお強く咲こうとする梅の花でした。
了