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人生歌集・風 その一  作者: 多谷昇太
第一章 人は風
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色々しき風

他人を思うにしても、女好きまでは果してどうですかね…

色づくは御衣(おんぞ)あけそむ吉野かな一分二分咲き肌を見せつつ


咲きそめば宝玉ぬしも晴れなまし散るさくらならなほぞ()しがる

※散るさくら:ここでは実際に触れ得るさくらを云う。すればそれはすなわち…


花ふしど寝ばやここにし疲れびとかたへに桜なほも散るがね

※花ふしど:その折り臥所。色のみならず情けのそれをも伴って…


小径あり緑のふすまそとそあけ来すひと見ればわが夏見まし

※そとそ:そっと

※子供時分郷里の集いが浜離宮で夏に開かれ、私も連れて行かれた。その折り園内を散策する和服の麗人を見た記憶がある。離宮の美しさとともに原風景のように心に残っている。


とこしへに十五の春の君をおもふわが世ひと世のおはりまでもと

※中学校時代の我校のマドンナを歌う。日本一の美少女ではなかったかと今でも思っている。


歌姫の才子佳人のわれにあれなさこそ喜び日々にまさりめ


鳰鳥のふたりならびてゐてしがな写真をとらむ千代もかたらむ

※鳰鳥の:枕詞。


色かほる梅は湯島とさだめしを行きもせぬのはお蔦つれかね

※色かほる:「色映ゆる」ではない。美しい梅の花となにより境内に充ちるその芳香をこう表現した。


オレンジの皮むくごとくをみなみの余所衣(よそい)はがすはつひになからず


いま気づく九条武子に玉三郎よく似たりしがはていづれ()しきや


カティアカティアきみ讃へんに言葉なくその歌声(こゑ)聞かばきみにサウターデ

※カティア:ポルトガルのファドの歌姫カティア・ゲレイロのこと。サウターデはポルトガル人が外国で故国を偲ぶことを云う。


  ―以下三首、杉浦日向子さんを詠む―

うらうらと杉の木陰にまどろみて日向子入るをばただ知らざりき


べらんめえとは云ふまじを観音でもあるものかあちし江戸っ子気質とぞ


江戸っ子のこのひとあはれと思ふなら涙やらずにひたみち笑顔

※江戸っ子の:江戸っ子が


鉄火肌はだけて桴の乱れ打ちのせて暴りょか喧嘩太鼓だ

※湯島天神の白梅太鼓を詠む。


雲立てて見せみ見せずみつぼねなす月は香具矢にあいぎゃうづきたり

※~み~み:~たり~たり


闇中に蛍火ひとつあくがればここぞとばかり清きみづおと

※あくがる:魂が身体からぬけてさ迷う

※平安時代の早逝した歌姫、宮内卿の歌で「軒しろき月の光に山かげの闇をしたひてゆく蛍かな」があり、この蛍は煌びやかな宮中での歌合わせに疲れた宮内卿自身であって、そんな彼女を私は憐れんで斯く詠んだ次第。


宮姫のほたる来い来いしのばざる闇中いかにと手中に問はむ

※これも同じ趣旨で詠む。因みに私の俳号は宮蛍と号しております。爺なのに…すみません。


十八折りはじめて行きしクロッキー裸婦し身いたしいでそよ生の香

※いたし:(痛いほど)すばらしい いでそよ:そうそう、それですよ


「美しい、ああ美しいな」と数つぶやきて裸婦写生はげむ翁ゐし

※我拙詩「アルテミス」(当サイトの人生詩集・番外編にあります)でアルテミスに憧れる老人のごとき老人がいた。欲念はもはやなく、美への純なる回帰を拝見した。


ランボーのソネット知れる我にては裸婦に魅せられそを復唱よみたり


ケメ子とふ愛称のモデルゐて裸に馴るればコスチュームごとし

※コスチューム:着衣のモデルを云う。裸のケメ子さんに馴れてしまって着衣のごとく感じる…。


モデルにても好悪ありて描き手見てよけくば前を悪しくば背を見す


団塊の我には蓋し正夢かアメリカ娘の裸婦とあらはる

※生きててよかったと思いました…


夢うつつ美しき顔浮かび来ぬ堕天使と見しが死腐相に移りき

※電車中でうたた寝したおり、男とも女ともつかぬ、見たこともないような美しい顔が浮かび来た。見とれるうちに死腐相に移ったが、なぜかこれもまた美と…


色色しく快感原則に生きて来しさるほどに蛇が、霊視()が憑く


【和歌集蛇足】中年の頃は見た目にはいわゆる独身貴族でパチンコや女遊びにはまっていた感があります。それでいながら女性との付き合いはせず、妻帯や子を持つことなどまったく考えませんでした。普通の男性の抱く感覚はなく、もっぱら快感原則、すなわち「自分を生かす」ことのみに未だ拘泥していたように記憶しています。‘欧州の夢’(若い頃に海外を放浪しました。詳しくは人生詩集(2)と(3)をお読みください)のかけらがまだ残っていたのでょう。しかしそのようなたるんだ心根では前述のような悪習慣にはまってしまった次第。今から思えばこの「自分中心」という生き方がすべてを狂わしていたことに気がつきます。自分(能力・才能等)を生かすことが正解ではありませんでした。「自分こそ」=「自我」で、それは=「魔」であり、快感と感覚の生き方であり、すれば畢竟魔視・霊視に憑かれる道理でもあります。谷村新司の「昴」のごとく荒野への道を進んでいたつもりがそうではなく、自我の迷い道、ジャングルだった次第。この迷いから抜けたいと思いますが今までの慣性、柵というものがあります。地獄のカンダタの足を引く手に不足はないようです…。

※しかし女性の裸は美しいですね。元画家志向の目から見て神の御手による、その造型のすばらしいこと…。しかし今後は裸の心をこそ、と念じ生きます。自他の余所衣をこそ私は剥がしたい…。

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