tea time 1 犬と猿な間柄(1)
「……」
その場所は闇に沈んでいた。
部屋には窓が無く、ただ紙燭の灯だけがゆらゆらと揺れているだけだ。陰気、という言葉がまさに相応しい、そんな空間である。
その中に、二つの人影が、紙燭のほのかな明かりに映し出され揺らめいている。その内の一人は、この闇に溶け込むよう、髪も瞳も服装も漆黒一色である。
部屋の中央には、大きな水瓶があった。たっぷりと張られた水は、外的な刺激がないため、穏やかに凪いでいる。
その水の表面には、何らかの魔法がかかっているのだろう、この部屋ではない何処かを映し出していた。
水鏡を食い入るよう眺めていた漆黒の人物は、やがて苛立った息を吐き出すと、静かに凪いだ水の表面を右手で荒っぽくかき乱した。そのまま手を抜き出すと、近くの椅子にかけてある外套をまとう。
ちなみに、先ほど水に触れた右手は、既に乾いていた。否、水に触れたが濡れていないのか。
どちらにせよそれは、漆黒の人物にとって魔力を行使することは呼吸をすると同じくらい、たやすいことであることを物語っている。
そして、
「……戻る」
と短く告げた漆黒の人物に、付添人は恭しく頭を垂れ、
「御武運を」
と告げたのであった。
☆
場所は変わって、ここはシュトーレン王国のノエルの執務室である。
その部屋の主である青年は、最も重用する部下のブランからの本日の報告に耳を傾けていた。
「あとは……大したことではないのですが、カトルカール殿が来られました」
「……懲りないな」
ブランが言うには、先日のやり取りについて、取り巻きを引き連れて苦情を言いに来たらしい。
取りあえず、話を聞く時間ももったいなかったので、衛兵につまみ出させたとのことだが、正しい判断だろう。
さてノエルは、名家の出でありながら口ばかりが達者で実力が伴わないカトルカールという人物に、並々ならぬ嫌悪感を抱いていた。
本来ならば、あの程度の人間など眼中にもないと切って捨てるところであるが、見過ごすことができない点が一つだけあった。
それは、彼と己の天敵が共通の人物である、という一点である。
……といっても、カトルカールのように、その姿、存在が目の端に入っただけでガタガタ肩や足を震わせて怯えるようなことは勿論なく、ただ、相容れない存在として一触即発な間柄であるだけだ。
そのように険悪な関係である以上、今回の件については、直接対決も避けられないと覚悟を決めていた。
だが。
「……来ませんね」
不意にぼそりと呟いたブランの声に、報告書類に目を通していたノエルが視線を上げる。
「そうだな。……直後に飛んでくると思っていたけどな」
それらの会話には主語がない。だが現在の状況から、そこに当てはまる主語は明示せずとも一つしか有り得なかった。
それは先に述べたノエルの天敵である少年のことである。少年、といっても出会った時から全く姿形が変わっていないため、実際の年齢は不詳である。かなり強力な魔術師であるため、面妖な魔術を行使した結果であるのかもしれない。
その少年は、誰もが目を引くほど綺麗な容姿をしていた。そこで「その容姿と外見年齢では他人に舐められるのではないか」という内容を尋ねた事が一度ある。すると、彼は涼しげな面持ちで、こう答えた。
「その方が都合がいいよ。舐めてかかってくる人間は、概して叩き潰しやすい」
その対象となる筆頭が、カトルカールというわけである。
実際は彼にとって、警戒されようが舐められていようが、さして変わりはないのではないか。そう思わせるだけの力が彼にある以上、決して油断して良い相手ではない。
だからこそノエルは、少年が城を留守にした隙を狙ってクーデターを起こし、その直前から侵入者……即ち少年のことだが……を防ぐ強力な結界を張り巡らせて万全を期していたのである。
「彼」は城での異変を知れば、すぐさま駆けつけてくると、ノエルもブランも信じて疑っていなかった。
が、実際は、クーデターから数日経った今日になってもまだ、彼の気配を感じることがない。
明らかにおかしい。
「俺たちを焦らす作戦か」
という危惧まで生まれてしまう。
「そうかもしれませんね。やはり日が経つにつれ、迎え撃つ我々の緊張感は薄れて行くものですから」
ブランもまたノエルと同じ考えを抱いていたらしく、主の言葉を補足した。
敵の出方が掴めず、二人して今後の方針について頭を悩ませていた、まさにその時のことだった。
「僕をコケにするなんて、いい度胸だね」
という、いかにもその人物が口にしそうな台詞が聞こえてきて、二人は反射的にその声がした方へと視線を向けた。