tea time 5 チーズケーキとコーヒー(3)
レアとセレスティーナの間に沈黙が落ちる。やがて、その重苦しい空気に耐えかねて先に口を開いたのはセレスティーナの方だった。しかもその内容といえば、
「ああ……まあ、あれを頼りにする方が間違っているわね」
と、レアの悩みを一蹴するものであった。
しかし。
(お父様を「あれ」呼ばわり……)
ばっさりと斬り捨てられたにもかかわらず、何故か不快な気分にはならなかった。恐らく、セレスの声の中に多分の嫌悪感が含まれていたからだろう。立場の異なる第一王女たる姉が、自分と同じ感情を抱いていることに親近感が沸いたのだ。
セレスティーナは更に続けた。
「確かに大抵の父親は子供を愛するものだけど、何事にも例外はあるものなのね。でも、心配しなくても大丈夫。私もあれの実の娘だけど、これっぽっちも愛されてないから」
そう言いながら、セレスティーナがしゃがみ込む。視線の高さがレアのものと揃った。そのままの姿勢で彼女は言葉を継いだ。
「ごめんね、レア。幼いあなたに、こんな辛い現実を突きつけるのは忍びないのだけど……今のレアには、父親のことを知って、現実的な対処法を身につける方が、より為になると思うから」
姉が「父親は本当は貴女を愛している」といった優しい嘘をつかない理由が、レアには分かるような気がした。そのような嘘やまやかしは、決して何も生み出さないことを、セレスティーナは実体験から身に染みて悟っているのだろう。
と、ふとセレスティーナがレアの手を握った。そのまま姉は、レアに元の部屋へ戻るよう促す。今更気が付いたのだが、濡れていたレアの体は、今やすっかり乾き終わっていた。
――元の部屋に戻ると、今まで嗅いだことのない、えも言えぬ香りが漂っていた。その元を辿って視線を動かせば、テーブルの上に飲み物とお茶請け程度の菓子が用意してあるのが目視できた。
真っ黒な色をした飲み物。今まで紅茶やミルク、ジュースしか飲んだ経験のないレアにとって、それは未知の飲食物である。
それを見た瞬間、セレスティーナが眉間に皺を寄せた。
「どうして、子供にコーヒー……」
そう独白を漏らした後、他の飲み物を用意すべく、その黒く不思議な香りのする飲料を片付けようとしたセレスティーナを、レアは止めた。
「いい、わたし、それを飲みたい」
セレスティーナの言葉を意訳すれば、それは「大人」の飲み物だということだ。そしてレアは常々、弱い子供である自分に嫌気が差しており、少しでも早く大人になりたいと、心から願っていたのだ。
しかし、見るからに毒々しい暗黒色をした飲み物に口をつけるのは、かなり勇気のいる行為だった。
そこで、少し会話をして心を落ち着けようと試みる。
「わたし、いんらん、って言われる」
いんらんって、意味が良く分からないんだけど、と心の中で付け加える。ただ、意味は分からずとも、それが痛烈な悪口であることだけは理解できるのである。
「あの子たちは、いたいけな子供に何てこと言うの……」
「全くだ」
セレスティーナが額を手で押さえた。心底呆れた、といった様子だ。隣に立つノエルも唖然としている。
「みんながいうの。わたしが、男の人をたらしこんでるって。だけど、そんなこと、してない」
「分かってる」
ふとセレスティーナの手が伸びてきて、レアの髪に優しく触れた。そのまま姉の手は、レアの細い髪をそっと梳る。
「お母様だって、そんなこと、してない」
レアは俯いて肩を震わせた。レアの母は、気紛れな王に見初められ、飽きっぽい彼にすぐに捨てられた。ただ、腹にレアという娘を宿したがために、保護を受けているという状況である。決して幸多き人生を歩んでいる女ではない。
「……分かっているよ」
今度はノエルが穏やかに相槌を打つ。二人の理解の言葉に、思わず涙が零れそうになった。
それを堪えようとして、出された珈琲を一口飲んだ。苦い。その痺れる味が、かえって悲しみを助長させる。
ぽろり、と我知らず涙がひとすじ零れ落ちた。
しかし、泣きべそな自分を恥じて、レアはすぐさま、ぐいっと袖で目尻を拭った。それを見たセレスティーナが柔らかに微笑む。
「いい? レア。強くなりたいのなら、耳を塞いでいては駄目。ちゃんと聞くの。どんな罵り言葉でも」
優しい笑みを浮かべながらも、その唇から零れ出る話の内容は過激だった。
「そして覚えておくのよ、誰がいつ、何を言ったのか。それによってどのくらい自分の心が傷ついたか、どれほど恨めしく思ったか。……うん、なるべく書き留めておいた方がいいわね。人は忘れる生き物で、記憶力ってあんまり当てにならないから」
「そ、それは……」
声を上げたのは、レア――ではなくノエルであった。
少し顔が引きつっている。そのまま、ぎごちない動きで首を巡らし、セレスティーナに向かって尋ねた。
「姫も……実践しているのですか?」
「していないけど……今は」
「今は?」
ノエルはセレスティーナの言葉を反芻した後、視線を明後日の方向へと泳がせる。その顔にはありありと「この人は怒らせると怖そうだ」と書いてある。
「私の部屋には、国王言語録があります」
胸を張って得意げなセレスティーナとは対照的に、ノエルがますます顔を引きつらせている。しかしレアは、そんなセレスティーナの行動を頼もしく思うことはあれども、怖いと感じはしなかった。
「私も」
「ん?」
「私も、日記、しようと思う」
決意表明をした直後、ノエルが恐れおののくように一歩後ずさったが、レアはそれを見ないふりをした。
(私は、セレスティーナ様に、ついていく)
レアが固く決心しているところに、突然、セレスがぽんと両手を打った。
「そうそう。言い忘れていたけれど、私のことは、セレスでいいわよ」
「セレス……お姉さま?」
「そう。セレスティーナって、ちょっと長くて言いにくいでしょう? だから、親しい人には、そう呼んでもらってるの」
親しい人。セレスティーナはその中に、レアを含めた。躊躇いもなく、いとも簡単に。その事実がレアに、思い切って願いを訴え出るための勇気を与えた。
「また、会いに行って、いい?」
最早「断られるかもしれない」という不安はなかった。この目の前にいる人は、きっと快く応じてくれるだろうと確信していた。
果たして、セレスはレアの期待どおり、満面の笑みを浮かべた。
「もちろん。私からも会いに行くわ」
「うん」
頷いて、レアはセレスとノエルに、心からの喜びの笑みを披露した。それを見た姉王女主従は破顔する。
「じゃあ、仕切り直しましょう。レアは珈琲苦手みたいだし。紅茶とチーズケーキではどうかしら?」
そう言う姉の視線を追えば、テーブルの上にはいつの間にか珈琲ではなく、紅茶とチーズケーキ、そして山盛りの菓子が所狭しと並んでいた。誰かが運んできた様子はなかったので、これもキルシュとかいう少年の魔法の為せるわざなのだろう。
甘い香りが部屋いっぱいに広がる。
泣いて栄養を消費してしまったのだろうか、いつの間にかすっかり小腹が空いており、胃が空腹を訴えて切ない音を上げた。
レアは姉が切り分けたケーキを食した後、更に次々とテーブルに用意された菓子を平らげた。
その日から、レアの一番はセレスティーナになったのである。




