tea time 5 チーズケーキとコーヒー(1)
ぺたんぺたん。
濡れた足音が、美しく磨かれた廊下に無粋な水の染みを作りながら、鳴り響く。
ぺたんぺたん。
髪が頬に張り付いて、不快さは最大級だ。
ぺたんぺたん。
極力、誰とも視線を合わさないように俯いたまま、一直線に自分の部屋へと向かう。私は何も見ない、何も聞かない、何も言わない。そう心に堅く決め、唇をへの字に曲げながら彼女はひたすら前へと進む。
だから、すれ違う気取った王宮勤めの娘達が、少女……レアを指をさし、ひそひそと嘲笑する、
「何、あの格好」
「庶民の匂いがここまで漂ってきそうだわ。流石は下女の子ね。ああ、汚らわしい」
「あんなのが王女だなんて、一体何の間違いかしら」
というような蔑みの声も、一切耳に入らない――はずだ。
しかし、相手も大概根性がねじ曲がっているようで、わざとレアに聞こえる程度の音量で愚弄の声を浴びせかけるものだから、人並みの聴覚を持っているレアには、どうしても内容がしっかりと聞こえてしまう。
(自分たちが、やったくせに)
廊下を歩いている最中、何の前触れもなくバケツで水をかけられた。ちなみにレアには何の落ち度もない。というより、彼女たちと会話を交わしたこともない。つまりこの仕打ちは、単にレアの出自を蔑む者たちの低俗な嫌がらせである。
レアは、彼女たちがどういう立場の者か、知っていた。
(寵妃派の、侍女)
この王城では、大きく旧王妃派、寵妃派という二つの勢力に分かれている。旧王妃とは長女であり第一位王位継承者であるセレスティーナの母親で、寵妃とは次女ミモザ、三女パントジェーヌの母のことを指す。
なお、寵妃自身は、取り立てて性格が悪いわけでもない。
ただ、何もしない。
王の不興を買うことを恐れ、夫の悪行を諫めることをしない。ただ一人、それが出来る立場であるにもかかわらず。
そのような寵妃の不作為は、結果として寵妃派の横行を招くことになった。その派閥に属する者は、今や我が物顔で城中を闊歩している。
対する旧王妃派といえば、
(変わり者が多い……)
の一言に尽きる。
王妃派の筆頭であるクーロンヌは何故か男装の麗人であり、その弟カトルカールは自意識過剰なボンクラだと聞く。元々、旧王妃派であったが、最近正式にそれを表明したノエルは……この実力で、何故、今更旧王妃派につくのか? と疑問に思われているらしい。
そして当の本人セレスティーナは、結界学とかいう、やたらとマイナーな学問に傾倒し、研究に余念がないという。
しかも婚約者はカトルカール。
どんな男の趣味をしているのかと、これもまた不思議に思えて仕方がない。
しかし、これだけは分かる。
(だけど、きっと、一緒だ)
旧王妃派のも面々も、寵姫派と変わりないはずだ、とそう思う。
(会ったこと、ないけど)
いくら旧王妃派が凋落の一途を辿っているといえども、セレスティーナはいまだ王位継承権を有する第一王女だ。レアを含めた次女以下の王女とは住む場所が異なる。
当然ながら、レアの行動範囲に旧王妃派の面々が日常的にうろついているはずもなく、レアは今まで、彼らの実体を知らずに過ごしてきたのである。
(別に、知らなくて、いいけど)
それよりも、早く自室に戻らなければ、とレアは考える。このようなずぶ濡れの有様で他の寵妃派の人間に見つかれば、また嫌味を投げつけられるに違いない。
目立たぬよう、静かに。
自分なりに努力していたが、どうやら効を為さなかったらしい。
「……レア?」
幾度か角を曲がったところで、背後から名を呼ばれた。
少し驚いたような声だった。その声は聞き慣れたものではなかったが、知った声である。むしろ、この王城に住む者であれば、誰もが一度は聞いたことのある声だろう。
レアは振り返る。
そこに立ち、レアの惨状に目を丸くしていたのは、この国の第一王女で彼女の姉であるセレスティーナであった。その隣には旧王妃派の中での特に出世頭のノエルが付き添っている。かなり豪華な組み合わせだ。
「セレスティーナ様」
レアは即座に膝を折った。寵妃派の一部の侍女たちがレアに強いるよう、深く頭を下げ、視線を伏せる。
直接、第一王女と対面するのは初めてだ。ゆえに、どのような態度を取れば良いのか皆目見当もつかないが、とにかく不興を買うのだけは避けようと思った。
…………。
しかし、いつまで経っても反応がない。
目を背けられているのかもしれない。何て汚い娘だろうと蔑まれているのかもしれない。自虐的な想像がレアを責め苛む。
しかし。
「ノエル」
「了解しました」
目の前の二人がレアには理解不能な短い会話を交わす。それと同時に。
「……え?」
不意に足が宙に浮いた。
ノエルに担ぎ上げられたのだと気付いたのはその数秒後。……お姫様だっことかいう可愛らしいものではなく、色気も素っ気もない完全な荷物運びであった。




