9 寂しさの共鳴(12)
父親と一戦交え、結果として勝負には勝ったと言えよう。
しかし、セレスが精神的に受けたダメージも決して小さくはなかった。
大広間を退室した後も鬱々として気分が晴れないセレスは、真っ直ぐ自室に戻る気になれず、自室近くの庭へと立ち寄った。
何かを考えるのも嫌で、ぼんやりと庭師が剪定した草木に指先で触れていると、背後に佇んでいたキルシュが静かに声をかけてきた。
「本当に、殺さなくて良かったのかい?」
「……」
「あの男は、君に対して何の情も持っていないよ」
悪気はないのだろうが、残酷な事実を突きつけてくる。神経が逆撫でされ、セレスは勢いよく振り返るなり、思わず声を荒げた。
「分かってる!」
しかし、激昂も束の間、はっと我に返る。
キルシュは冷静に事実を述べただけで、彼に何の非もない。むしろ、セレスの命を助けてくれた恩人だ。それに八つ当たりをするなど、恩知らずも甚だしい。
セレスは、ごめんなさい、と殊勝に謝った後、ただ、と続けた。
「そんなこと……分かってる……ちゃんと、ずっと前から分かっていたの」
本気で殺そうとするほど憎まれていた。いや、それよりも相手に「関係を修復しようという気が全くない」というその事実が、今更ながら胸に突き刺さったのだ。
「何が……」
ぽつり、とセレスは呟く。それは小さな声だが、心の底からの叫びだった。
「何がダメだったのかな。それが、どうしても分からないの」
考えても考えても堂々巡りだ。
セレスの母親である正妃が憎いから、その娘も憎かったのだろうか。しかし、そうであれば、自分にできることは最初から何一つとしてなかったということになる。
「親が無条件に子供を愛するものだなんて、嘘っぱちだよね……私が愛してないから、愛されないなんて、そんなの絶対……嘘よ」
ぐっと胸で手のひらを握りしめる。堅く目を瞑った。
今まで目を背けていた不都合な事実が、今、セレスの心に迫りくる。
「だって私はこんなに好きだった。ほんとは――ずっと愛してほしかったんだから……」
腐っても血を分けた父親だ。幼い頃から憎んでいたわけではない。
もっと小さな頃は、人並みに親に愛されたいと願ったこともある。そして、その片鱗が今もこの胸に、棘のように突き刺さっていたのだ。
けれど、それももう終わりだ。
自分を憎しみから殺そうとした者を愛せる程、セレスは博愛精神も嗜虐趣味も持ち合わせていなかった。
(これから、どうしようかな……)
愛したいと、愛されたいと願う対象が完全に失われ、心の中がからからに干上がってしまったようだ。肩が微かに震えた。
「セレス……」
そんなセレスを見つめていたキルシュは、先程までの強気な様子とは対照的に、まるで壊れ物にでも触れるかのよう、おずおずと手を伸ばす。その手は、躊躇いがちに、そっとセレスの頬に触れた。
そして、彼は囁きかける。
「僕が……いるよ」
「――え?」
思いもかけないキルシュの言葉に、セレスの涙が一気に引っ込んだ。するとキルシュは少しばつが悪そうな表情でセレスから視線を逸らしながら、言葉を継いだ。
「僕は君と契約しただけで、愛しているわけじゃない」
これは、慰めているつもりなのだろうか。むしろ内容だけを吟味すれば、ただ追い打ちをかけているだけのような気もする。
けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。彼が彼なりに一生懸命考えて、セレスを元気付けようと言葉を紡いでいる。その心遣いが胸に染みたからだ。
「でも、契約は絶対だ。僕はいつでも君のことだけを考えるし、君のことだけを大切にする」
「愛してないけど、大切なの?」
尋ねると、キルシュは軽く目を伏せ、溜息を零すように胸の奥からその言葉を吐き出した。
「世界中の誰よりも、大事だよ」
それは、セレスがずっと「聞きたい」と願ってやまなかった言葉だった。
……疎外感や孤独を感じ続けてきた毎日が、その一言で綺麗に洗い流されるような心地がした。
セレスはキルシュを見つめた。先程まで目を逸らしていたキルシュも、セレスに向き直っていた。
視線が絡み合う。
「君はもう、一人じゃない」
「うん」
「だから、もう泣かなくていい」
キルシュの一言に、セレスは驚く。
「私、泣いてなんか……」
「泣いてるよ」
セレスの強がりを遮りながら、キルシュが頬を寄せ、その目尻に口づけをする。軽く涙を吸われ、セレスは初めて、自分が涙を流していることを知った。
「そっか……私、泣いてたんだ」
いつでも強くありたいと願っていた。
だから、どんなに父親に邪険に扱われても容易に涙を見せたりはしなかった。それにもかかわらず、このくらいのことで簡単に涙を流してしまったのが気恥ずかしく、笑いを浮かべようとする。
けれどそれは失敗してしまい、表情が歪んだだけだった。
と同時に、キルシュにぎゅっと抱き締められた。
温かな体温が全身に伝わり、染み渡る。その温もりが、自分はもう一人ではないことを確かに物語っていた。
乾ききった心の中に、再び優しい潤いが満ち溢れてくる。
セレスは頬に流れた涙をぐいっと腕で擦り、拭う。そして、この胸に芽生えた信頼の心を伝えるように少年の胸に頭を預けた。
「私、きっとキルシュがいたら、寂しくないよ」
言いながらも、頬にかかるキルシュの髪がくすぐったくて、笑いが漏れてしまう。つい先程まで泣いていたのに、人間の感情は不思議だ。
そんなセレスの想いが伝播したかのよう、キルシュがセレスの耳元で囁いた。
「不思議だね」
そして抱き締めていた腕を解いた。
けれど二人の距離は相変わらず吐息が触れる程に近く、そのあまりの接近にセレスは少しだけびっくりする。
(ちょっと……恥ずかしいかも……)
至近距離で泣いたり喚いたりと、散々醜態を晒してしまったことを思い出し、頬を紅潮させた。しかし相手は、あまり気にした様子もなく、
「さっきまで泣いていたと思っていたら、もう笑ってる」
と若干呆れた口調で首を竦めた。がすぐに態度を改め、
「君の側にいたら、僕も分かるかな」
と真摯に問いかける。
「寂しいとか、悲しいとか、嬉しいとか、愛しいとか、そんな感情が」
そこには、どこか羨むような響きがあった。
(キルシュはよく感情が分からないのかな?)
精霊だからだろうか。
もし、そうだとして、彼が感情をたくさん知りたいと望むのならば、自分もできる限り協力をしよう、とセレスは考える。
キルシュは自分を一番大事な存在だと言ってくれた。だから、自分も彼を大事にしようとセレスはその日、心に誓ったのである。
☆
それは今でも鮮やかに胸に残る思い出だ。
恐らくキルシュの存在のおかげで、父親との一件を過剰に引きずることなく、日々を過ごすことができたのだとセレスは思っている。
同時に、こうも思う。
(私と一緒にいて、キルシュはちゃんと何かを得られたのだろうか)
自分と契約をして良かったと思ってくれているだろうか。ここで過ごす日々を楽しいと思ってくれているだろうか。
セレスは、眩しく輝く太陽の光を遮るため左手をかざしながら空を見上げた。
かつて「契約の証」として刻まれていた手首の痣は、普段の王女としての業務に差し支えがあったため、キルシュの魔法で消してもらっている。
けれど今なお、この身に契約が刻まれていることに間違いはなく――
(この契約に見合うだけのものを返せていたらいいな)
雲一つない抜けるような青空を眺め、セレスは軽く目を細めた。




