9 寂しさの共鳴(9)
セレスが「誰にも心を奪われない」と約束すると、少年は初めて微笑んだ。
あまり笑い慣れていないせいだろうか、どことなく笑顔がぎごちない。
しかし、それすらも絵になるので、セレスはつくづく不公平さを感じてしまう。可愛く、もしくは美しく生まれつけば、それだけで得なのだ、と。
そんなセレスの内心を知ってか知らずかは定かではないが、少年は安堵した表情で、こう続けた。
「そう……良かった。君がその約束を守り続ける限り、僕はずっと君の側にいて、君の敵を君から遠ざけてあげるよ」
彼はセレスの左手を取って、正面に掲げてみせた。
その時になって初めて、セレスは自分の左手首をぐるりと一周する茨の蔦のような痣があることに気付く。
「これは……?」
「契約の証だよ」
彼は続けて簡単な説明を加えた。もし契約を違えれば、この痣がセレスの身を侵食し苛むだろう、と。
(やっぱり契約を破った時の代償はあるんだ……)
とは思ったが、そこまで悲観的な気分に陥ることもなかった。先にも述べたように、自分が恋愛をする日が来ることなど、想像すらできなかったからだ。
そもそも、今考えるべきことは、他にもある。
たとえばセレスにとって「敵を遠ざける」という少年の言葉が、この上なく頼もしかったのは事実だが、しかし当面は、
(暗殺者もいなくなったし、今のところは必要ないかな)
という認識だった。
少なくとも差し迫った危険のなくなったセレスにとっての喫緊の課題は、敵をどうこうすることではなく、
「これからどうしよう」
というものである。
が、そんなセレスを見て、少年がさらりと一言告げた。
「行こう」
そして、くるりときびすを返す。つまりセレスが通ってきた道……王城へと至る道のりへ引き返そうとしているのだ。
セレスは慌てて少年の袖を引っ掴んで、その動きを押しとどめる。
「行こう……って、どこに? 誰も私のことを待ってなんかいないのに」
自分が誰からも全く愛されていない、とまでは思っていない。
ただ、もしこのままセレスが王城に戻れば、すぐさま王との対決が待っている。と考えれば、拙速に事を進めるのではなく、まずは気力を充実させ、対策を練るためにも休息が必要だと考えたのである。
だが少年は、そんなセレスの繊細な心情などお構いなしに、
「誰も待っていなくても、君のいる場所は、あの大きなお城の中だ」
と短く告げ、再び歩を進める。
「私、別荘に行くように言われてたのだけど」
セレスはなおも言いつのる。恐らく、セレスが辿り着くことなど想定されていない別荘は、何の準備もされていないだろう。今更別荘に行くつもりはないが、とにかく今は、今後のことを考えるゆっくりとした時間が欲しいのだ。
しかし少年は、セレスがいまだ別荘に行くことに固執していると額面どおりに受け取ったらしい。まるで物わかりの悪い子供を見るような目つきで見つめられた。
「あんなところに行ったら、相手の思う壺だよ。きっと君を亡き者にするための罠が幾重にも張り巡らされている。僕がいるから命の危険はないとは思うけど、万が一ということもあるし……何より、時間の無駄だ」
少年はセレスの言葉をばっさりと斬り捨てた後、一転して噛んで含めるようセレスの耳元に囁きかける。
「誰も待っていなくても、あの城は君のいて良い場所になる。君は僕という力を手に入れたのだから」
更にセレスに口を挟む余地を与えず続けた。
「僕は言ったよね。君の敵を遠ざけるって。というか、契約者である君が命を狙われ続ける状況は、僕にとっても望ましくないしね」
そしてセレスの瞳を覗き込み、不敵に笑った。
「……君の本当の敵は、あの暗殺者なんかじゃないだろう? あれを放った黒幕だ」
先ほどの優しい笑みはぎごちなかったが、今のように何かを含んだ笑みは様になっている。ほんの少し、少年の性格の一端が垣間見えたような気がした。
「――さあ、城に戻ろう」
少年は自然に手を差し出した。
「?」
それが一体何を意味するのか分からず、まごまごしていると、業を煮やした少年がセレスの手を掴んだ。びっくりして少年を見ると、
「君は放っておくと、はぐれてしまいそうだよね」
と言い、セレスにそのまま歩みを進めるようにと促した。
繋いだ手が温かい。その感触を確かめたくて、セレスは握りしめる手に軽く力を込めた。
すると少年が不意に足を止めてセレスを見る。不快だったのだろうかとセレスは不安げに少年を見やったが、彼は特に嫌な表情をしているわけでもなく、手を振り解くわけでもない。
ただ軽く頷いて口を開いた。
「言うの忘れていた」
「何?」
「僕の名前は、キルシュだよ」
名乗られ、セレスは姿勢を正す。名乗ること、挨拶をすることは、人と人が関わり合う上での大事な儀式だ。そんな信念を抱いているセレスは、かしこまって名乗り返す。
「私の名前は、セレスティーナ」
「セレスティーナ?」
少年――キルシュがセレスの名をおうむ返しする。その後キルシュは、しばらく首を傾け何やら考え込んだ後、
「セレス?」
と、ごく自然にセレスティーナの愛称を口にした。
生まれてこの方、血縁者以外に愛称で呼ばれたことのないセレスにとって、それは新鮮な感覚であり、驚きであり、そして喜びだった。
歓喜に気分が高揚した状態のままに、セレスはキルシュに問いかけた。
「キルシュにも愛称とかあるの?」
すると、
「僕の名前は、これ以上短くできないだろ」
と醒めた視線と馬鹿にしたような口調で切り返され、ぐっと言葉を失う。冷静に考えればキルシュの言葉はもっともだが。
(ちょっとくらい、話に乗ってくれてもいいのに)
それは、黙っていれば天使のような容貌のキルシュが、実はかなりの皮肉屋に違いない、という「確信」をセレスが抱いた、記念すべき最初のやり取りである。
しかし、
「愛称なんかなくったって、契約者である君が呼ぶ名は、僕にとって特別だ。それで十分だろう?」
と継いだキルシュの言葉に、斜めになりかけたセレスの機嫌はあっさりと修正された。
契約でも何でも、自分のことを誰よりも大切だと囁いてくれる人が現れたこと。それがとても、くすぐったく感じられた。




