9 寂しさの共鳴(6)
リンツァーという国がある。
確かに国土があるにもかかわらず、地図はおろか誰の記憶にも残らない摩訶不思議な国である。そこに住む人々は精霊と呼ばれ、誰もが強大な魔力を持って生まれてくると言われている。
さて「精霊」と称される彼らと人間は別の種族であると思われがちだが、彼らは元々は純粋な人間であったという。
ただ彼らは、通常の人間に比べ魔力の容量が桁違いに大きく、そのために圧倒的な強さを誇っていた。多少誇張が入っているだろうが、普通の人間数千人がかりでも、リンツァーの民を一人として倒すことはできないだろうと謳われている程だ。
しかし強大な力は、時に悲劇を生み出す。
この世界の長い歴史の中で、彼らの力は多くの悲しみを生み出した。そして彼らはやがて、ある一つの結論に辿り着く。
即ち自分たちの力は危険であるため封じるべきであると。
そして彼らは、国土を覆う巨大な結界を張って魔力を封じ、同時に「魔法を使いたい」という自らの「欲望」をも封じた。
やがて彼らは、あらゆるものに対する「欲しい」という感情を忘れた。
絶対的な平等を手に入れる代わりに、個性を失った。
彼らは自分自身の頭で思考する能力を捨てた。
生物学上の分類だけを見れば、彼らはまだ「ヒト」の範疇にいるのかもしれない。しかし遠くない未来、彼らは人ではなくなることだろう。
成長する力を失った民。現在進行形でヒトとしての特質を失いつつある存在。それがリンツァーの「精霊」と呼ばれる存在である。
……以上が魔法の盛んなシュトーレンにおける一般的な知識であるが、ここではもう一歩踏み込むことにする。
要するにリンツァーの民と言えば「我」を捨て去った民であるというのは前述のとおりである。
――さて、巨大な結界により無事個性を失うことができたリンツァーの民は、ある意味幸せであった。彼らは争うこともなく、他者を羨むこともない。
しかし一方で不幸な者も存在する。それは、このリンツァーにおいて個性を失うことができなかった人々である。
彼らは、国を覆う巨大な封魔の力では押さえきれない程の魔力を生得していた存在である。
「意思ある者」もしくは「精霊の王」と呼ばれる彼らは、リンツァーという箱庭の国で、自我と財力と力を持て余し、無為な日々を過ごさざるを得なかった。
そんな彼らがやがて「国を出たい」と望むのも、また自然の摂理である。そうして意思ある者達は一人、また一人出奔していくこととなる。
しかし、その際に一つだけ問題があった。
意思ある者達が国を出ること自体は自由であるが、魔法を使うことは制限されているという点である。
リンツァーの民族としての使命は、国外で魔力を使わないことである。そして意思ある者達が国外で魔力を行使することは、その使命に相反する排除すべき行為であった。
リンツァー国民は思考能力を失っているため、ことの善し悪しを判断するすべはない。ただ規律に則って、魔力を行使した意思ある者達を抹殺すべく行動するのである。
もちろん意思ある者達が、ろくな魔法も使えない追撃者たちに遅れを取ることはない。しかし、追撃者を一々始末していれば死者の山を築くことになってしまう。そこで彼らは国外で魔法を使い、かつ追撃を受けないための抜け道を探り始めた。
やがて、彼らはその方法を見出した。それが、契約者を定めることである。
その手順を踏むことによって、たとえ意思ある者が魔法を行使したとしても「契約者が魔力を行使している」と判定され、執拗な追撃から免れることができるのだという。
そのため、精霊は国を出るとまず契約者を定めるのである。
――これらはセレスが後々、この少年によって教授された「精霊に関する情報及び知識の概要」であるが、前述の通り後半部分は一般的な知識ではない。
ただ、誰もが知っている事実が一つある。
それは、精霊が人知を超えた力を持つ超常的な存在であるということである。
だからこそ生き残った暗殺者は、少年の素性を聞いて顔色を失ったのである。
「な、どうして精霊がこんな場所に……」
すると少年は大層面倒臭げに答えた。
「偶然通りかかるのに、何か理由が必要? ……頭の悪い質問だね」
その明らかに見下した言葉に、暗殺者がぐっと言葉に詰まる。恐らく内心は屈辱で腸が煮えくりかえっているに違いない。しかし目の前の少年が自分を圧倒する強さを誇る存在であることを知るがゆえに、彼は下手にすら出た。
「なあ、手を組まないか」
卑屈な笑みを浮かべながら、暗殺者はそう提案した。揉み手でもしそうな勢いで、更に言葉を重ねる。
「その娘を殺せば、一生使っても使い切れない程の報奨金が手に入る。どうだ、いい話だと思わないか?」
「……」
少年は押し黙った。それは肯定とも否定とも取れる沈黙である。
セレスとしては、少年が暗殺者の誘いに乗るのもやむを得ないことだと、ある程度諦観していた。自分――即ち旧王妃派に肩入れするよりは、国王――即ち寵姫派につく方が賢明であることは、紛れもない事実である。先程は下っ端の暗殺者達が襲ってきたため、少年は熟考する間もなく、なし崩し的にセレスを助けてしまったようだが、様々な利害関係を計算すれば、ここでセレスに固執せず見捨ててしまう方が得策だろう。
だが。
少年は吐き捨てた。
「精霊である僕に財貨が何の意味を為すと? ……興味ない」
そしてセレスを抱えなおす。かなり顔と顔が近い位置だ。ほとんど吐息が掛かる程の距離である。
状況が違えば、その美貌に見とれるところだろうが、今はそれどころではない。視線を合わせて一体何をするつもりかとセレスは警戒する。そんな彼女に、少年は言った。
「だいたい、どうして君は諦めているの?」
咎めるわけでもなく、ただ淡々と事実を問い質す声。
しかし、その冷静さが逆に、セレスの抑えに抑えていた感情をぶちっと断ち切ってしまった。




