9 寂しさの共鳴(4)
その日……セレスが別荘へ出立する当日は、先行きを予告するかのように湿った天気で、朝からしとしとと雨が降っていた。
「姫をお送りできるのはここまでです」
父親である王より遣わされた監視役は、表情一つ変えず淡々とした声でそう告げた。
「では、ここからはお一人で」
指し示された方向には鬱蒼と茂る森。別荘はその森を抜けた小高い丘の上に建てられている。道はあるものの終日薄暗く、人通りもまばらな場所だ。
(……)
これから起こりうる事態を考えれば、足は鉛のように重く、心は鬱々と沈む。しかし王の息がかかった監視役は、セレスが感傷に浸るわずかの時間すら与えてはくれなかった。
「お早く」
と無情にもせっつく。セレスは儚い抵抗と知りつつ、一度だけきっと相手を睨み据えた後、前を向いた。
きゅっと唇を引き結ぶ。その後、意を決し一歩、二歩と歩みを進めた。背後から視線が追ってくる。見張られていることは火を見るより明らかだった。
――そして数刻後。
事態は味気ないほど予想に違わぬ展開を見せていた。
セレスは走っていた。ほとんど全力疾走である。
普段から万が一の場合に備えて、持久力をつけるよう努力はしてきたものの、やはりそれだけでは多対一の状況に対応できなかったようだ。
(もっと私に運動神経があれば)
と悔やむものの、ないものねだりをしても状況は変わらない。今はただ、ひたすら力尽きるまで走り続けることのみが、自分に許された抵抗手段だった。
森に足を踏み入れるなり現れた追っ手は複数。おそらく国王の取り巻きが飼っている私設暗殺部隊だろう。
もちろん、この国で暗殺など非合法だ。しかし卑怯で懐疑的な王は、普段からそういった非公式な手段で身の安全を図っていた。……取り巻きを使い、自分の手は汚さずに。
暗殺者たちは雇い主の性質をそのまま表しているかのように、陰険だった。
獲物は大した力もない幼い少女だ。一息に捕らえ、楽に殺すことができる相手であるにもかかわらず、わざとセレスの逃走を許している。そうやって標的に期待を持たせた後に、その一縷の望みを粉々に打ち砕くのだろう。自らの暗い愉悦のために。
正直なところセレスも、彼らから逃げおおせるなどとは、ゆめ思っていなかった。ただ何の抵抗もせず、相手に楽をさせるのが悔しかったがゆえの逃走である。要するに無駄なあがきというものだ。
けれど。
雨に濡れた服がまとわりついて重い。呼吸は荒く、心臓は早鐘を打っている。足が、体全体が、もう走れないと悲鳴を上げている。
そして……ふとした拍子に、一つの疑問が頭をよぎった。
(ねえ、こんなに頑張って、一体何になるの)
と。
それは人の意識の天秤を生から死へと傾けさせる悪魔の囁きだ。
そんなことを考えてはいけないと理性が訴えるものの、一度生まれてしまった疑念は、セレスの疲労と比例するかのようにむくむくと成長する。
(帰って、何か良いことでもあるの?)
ない、と自問自答する。城に戻っても、心躍ることなどない。ただ、今までどおり権力闘争に身を浸さなければならない日々に戻るだけだ。
(待ってくれている人でも、いるの?)
これもまた、いない、と心の中で即答する。
セレスには安否を気遣ってくれる親が存在しない。また、後ろ盾のない王女という状況がわざわいしていたのだろう、誰もがセレスとの付き合いに一歩の距離を置いていた。そのため、親しい友人もいない。
クーロンヌのように好意を持って接してくれる人間も存在することはするが、悲しいかな彼女たちにとってさえ、セレスという人間は「唯一無二」の存在ではないのだ。
(こんなに足掻いて、本当に意味あるの?)
一瞬の迷い。それが命取りになった。
さんざん酷使した足が不意にもつれる。バランスを崩して盛大に転んだ。
「……っ!」
急いで立ち上がろうとするセレスの背に影が差した。それが何を意味するのか分からないほど鈍くはない。それは暗殺者だ。ただし、彼らは今、セレスがつまずいたがから追い付いたわけではない。最初から、常にセレスの様子が窺える距離で、獲物のはかない抵抗をあざ笑っていたのだ。
「意外と頑張ったなぁ、お姫様」
振り仰げば、にやにやと人の悪い笑みを浮かべる黒ずくめの男達の姿が視界に入る。たとえ彼らが暗殺者であると知らなかったとしても、決して近付きたくないと思わせる何か邪悪な雰囲気が、そこにはあった。
セレスは力を振り絞り何とか立ち上がったものの、彼らの邪な気に圧され、一歩後ずさった。その時。
がらがらっと音がして、足下が崩れた。
(なっ……!)
はっと気付いた時には、体が滑り落ちていた。
(崖!?)
貪欲な程に生きようとする本能が、セレスの手を上に伸ばさせていた。咄嗟にせり出した木の根のようなものを掴み落下する体を支え、九死に一生を得る。
しかし、よくよく考えてみれば、状況はさして変わらない。そこに暗殺者がいる限りは。
「さっき落ちていた方が楽だったんじゃないのかい?」
余裕綽々の態度で、男達はセレスを見下ろしている。そしてセレスは、彼らの言うことは一々もっともだと感じた。
恐らく、死の恐怖を感じる間もなく死に至るのが最も楽な死に方だろう。先程足を踏み外した時点で落下してしまえば、余計なことを考える間もなく落命できただろう。
しかしセレスは生きながらえた。そうなれば、今度は「死と向かい合う恐怖」と戦わなければならない。だからこそ、
(彼らの言うことは正論だ)
などと考えてしまったセレスを弱気だと、一体誰が責められようか。
そのまま時がしばし流れた。その場の誰一人として動かない。セレスは逃げ場所がないため動くことができず、暗殺者たちはセレスが弱るのを、爬虫類のような目つきで眺めていた。
徐々にセレスの握力は失われて行く。指先が痺れ、感覚がなくなり始めていた。
(このまま、私、死ぬのかな)
いや、自分には第一王女としての責任がある。自分を押してくれている旧王妃派の人々のためにも、易々と殺されるわけにはいかない。
しかし、そう必死に心を奮い立たせようとするものの、屈強な大人……しかも暗殺を生業とする者複数人に囲まれ抵抗するすべなど、幼い少女にあるわけがない。
心は次第に萎えて行く。やがて、禁断の結論に至るまで。
(本当は私、このまま死んでしまった方がいいんじゃないの?)
と。
自分が死ねば、確かに旧王妃派として自分を支援してくれた人々には迷惑をかけることになるだろう。間違いなく彼らは左遷される。しかし、不幸中の幸いか、彼らを処刑という手段で粛正するだけの度胸は、父王にはない。実の娘を暗殺する程度の狡猾さはあるが、暴君になる覚悟はないのだ。
(もし、私がいなくなれば……)
国も、これ以上無駄な権力闘争をせずにすむ。
ただ、あの浪費家でもある父王の治世は、このシュトーレンに良い影響をもたらすことはないだろう。恐らく国庫は傾く。
しかしそれでも、このようなくだらない旧王妃派対寵姫派という内紛が綺麗さっぱりなくなれば、それは国にとって有意義なことかもしれない。
「大人しくしていれば、楽に殺してやるからな」
悲痛な考えに沈むセレスに対し、暗殺者たちは酷薄な笑みを言葉を投げつける。セレスが再び顔を上げると、男達の背中の向こうに欠けた月が見えた。いつの間にか、辺りは闇の中に沈んでいた。
状況は絶望的だった。最早抵抗するすべは、何一つとして見つからない。
(私が死んだら)
暗殺者の足がセレスの手に向けて振り上げられる。このまま力任せに振り下ろされれば、間違いなくこの指の骨は砕け、体重を支えるための力を失い、セレスの体は真っ逆さまに落下することだろう。
(誰か、悲しんでくれるのかな)
容赦なく近付いてくる暗殺者の足を、セレスはまるで他人事のように眺めていた。
(せめて)
体を支えるに限界をきたした手の力が抜けて行く。暗殺者に踏まれるより早く手を離せば、少しは苦痛が軽減されるだろうか。
弱気な考えがセレスの頭の中を侵食する。しかし、それも仕方のないことだろう。死は彼女の目の前に確実に迫っているのだから。
そうして。
セレスは、男の手が己の手を踏みつける前に、手を離した。せめて痛みや恐怖に泣き叫ぶような無様な姿を見せたくなかった。
(私が死んだら寂しいって言ってくれる人に出会いたかったな)
そんな「唯一の人」に出会えずに死んで行く自分が、限りなく悲しかった。
涙が一粒だけ、流れた。心は声の限りに叫んでいる。
そこにあるのは、決して綺麗なだけの感情ではない。
悲しいと。悔しいと。憎いと。
混沌と渦巻く感情の澱。けれどその全ての根底は、一つの感情に起因する。
即ち……寂しい――と。
心の限りに慟哭した。
その瞬間。
――空間がぐにゃりと歪んだ。
続けて目が眩む程の閃光が辺りを包む。その光は、崖の上から奈落を覗き込んでいる暗殺者達にも届いているようだ。
「な、なんだ?」
「眩し……っ」
男たちの狼狽する声が響く。
……文字通り、時が止まった。




