9 寂しさの共鳴(2)
昔の話をしよう。
偶然のように見えて、実は必然だった。そんな過去の話を。
☆
セレスティーナは足早に歩いていた。彼女の辞書に「油断」の文字はなく、歩くその姿に一分の隙も見られない。
そんな少女の頭を占める思考が、
(ノエルに振られた)
という、たわけたものであることなど、一体誰が思うだろうか。
もしも今、誰かがセレスの頭の中を覗き見ることができたならば、その者は、第一王女のあまりに緊張感のない思考に愕然とすることだろう。
しかし本人は、至って真面目であるし、その思考は決して気楽なものではない。
ノエルは婚約の打診を軽く取ったようだが、セレスにとっては切実な問題だった。断られた際、辛うじて何ともない顔をしたものの、今のセレスにとって有力者との婚約成立は、死活問題だったのだ。
その緊急性は、先日、父親からかけられた一つの言葉に起因する。
王は、寵姫派の臣下のみが居並ぶ王の間で、こう告げた。
「最近、ただでさえ辛気くさい顔を、毎日しかめっ面で歪ませて、全く見るに堪えない。気晴らしに別荘にでも行ってきてはどうだ」
侮蔑を含んだ視線が、セレスを突き刺す。気晴らしに、などという言葉が表情に見合っていない。そもそも彼が、セレスの精神や体調を気遣うことなど、有り得なかった。今までも、そしてこれから先も、そうだろう。
「あそこは治安も良く、景色も良い。ただ、折角の旅に人がいると気も休まらないだろうから、余計な護衛などつけず、一人で気楽に行くと良かろう」
「……」
顔が引きつったのが、自分でも分かった。
第一王女に護衛もつけさせず、一人で外出しろと言うのか、この馬鹿親父は。そう心の中で毒づきながらも、セレスは父親の意図するところを察していた。
シュトーレンは概ね平和な国だ。しかし旧王妃派と寵姫派といった王位継承権争いは確実に存在し、特に旧王妃派の派閥の者たちは、護衛なしに枕を高くして眠ることができないというのが実情である。
その王位継承争いの当事者が一人でふらふら出歩くなど、暗殺者に「殺してください」と首から看板をぶら下げ公言して回っているようなものだ。
(まあ、そうなるのが望みなのだろうけど)
父親が自分を愛していないという事実に、セレスは疑いを持っていない。むしろセレスに死んで欲しいと願っているはずだ。そこに不幸な家族のすれ違いや誤解といったものなど、存在しない。
「セレス、私が悪かった」
「いいえ、お父様。私がお父様を誤解していたのです」
などという涙涙の展開など、ありえない。将来に渡って、二人が和解することはないと断言できるほどだ。
それにつけても。
(どうして私は、こんなに無力なの?)
こんな時、セレスはいつも、その情け容赦のない現実に打ちのめされる。己の不甲斐なさに歯噛みする。
努力は怠っていないつもりだ。日々勉学に励み、体力もつけている。しかしセレスは決して天才ではない。才能という面から見れば、凡人に過ぎなかった。そんな彼女は、自分一人の力では何一つ為す事ができないのである。
そうだ。自分の身すら、自分の手で守ることができない。なんて情けない存在なのだろう。
セレスは溜息を漏らした。
王位継承権を持ちながら、母親という後ろ盾のない自分は、そうそう長く生きることができないだろうと覚悟こそしていたが。
(こんなに早く試練を課されるなんて、予想外)
もしかしたら、死ぬのかもしれないな、とセレスは他人事のように考える。
そんな彼女の身の内には、悲しみの情も憎しみの情も存在しない。ただ、事実を事実と認識する思考だけが、そこにあった。
ただ、自分を支援する者が存在することも理解している。その者たちは、セレスが死ねば、芋づる式に失脚していくことだろう。
だからこそセレスは最後のあがきとして、ノエルに婚約を持ちかけたのだ。賢く前途洋々たる少年。彼を抱き込み、その知恵を借りることができれば、この試練を乗り越えることができるかもしれない、と。
けれど結果は前述のとおり惨憺たるものだった。
(まあ、即断即決できることじゃなかったものね……)
そもそも本来は、ノエルのような少年にではなく、大人に相談するべきことだろう。
しかし、この件は思いのほか周到に準備されていたようで、セレスが、有力な旧王妃派の面々に近付くことができないよう、あらかじめ監視が付けられていた。
彼らが言うことには、
「セレス様が旅立たれる前に、何か不慮の事故が起きませんよう、御身をお守りしているのです」
とのことだ。笑わせてくれる。
(それに……)
どちらにせよ、誰かにこの別荘への道のりに同行してもらうことは難しいだろう。
そう、セレスの父親は彼女に「余計な護衛などつけず」と言った。それが国王の言葉である限り、一種の命令である。旅立つセレスに、城からの「護衛」をつけることは決して許されない。
であれば、幼いセレスにできることは、ただ一つ。偶然を祈るだけだ。
旅の道のりで、腕の立つ傭兵か何かに出会い、その者に護衛を頼む。そんな果てしなく確率の低い偶然にかけるしかすべがなかった。
(無理でしょうね……)
彼らは、前もって人払いをしているはずだ。恐らくセレスが、道中に誰かと出会うことなどないだろう。……刺客以外は。
(私の命運も尽きたかな)
もしここが私室であれば、大笑いしていたところだろう。空虚で自虐的で中身のない、自分に対する嘲笑を。
(やっぱり私は、実の父親に殺されるんだ)
国王が直接セレスに手を掛けるわけではない。
しかし彼は「第一王女が単身で王城を離れることは極めて危険である」ということを知っている。
その王の心を汲んで「刺客を放つ」という行動を起こす者がいることを知っている。
その結果を理解したうえで、娘を一人で旅立たせるのだ。
それを未必の故意と言わずして何と言うのだろうか。
セレスは顔を強張らせたまま、脇目もふらずに歩き続ける。
(何て無駄な人生)
無用の存在。それが自分という人間だ。
「……ま」
ひたすらに歩くセレスは姿勢も正しく、きりりと真っ直ぐ前を見ているようだが、実際には何も見えておらず、ただ思考に没頭している。
「……さま」
「……」
何も見えず、何も聞こえないままに、セレスは一心不乱に歩みを進める。しかし、不意にぐっと腕を掴まれた。
「セレスティーナ様」
はっと我に返ると、すぐ側に軍服に身を包んだ長身の若者の姿があった。
きりりとした美しい顔立ち、すらりと伸びた細く長い手足。涼やかな目元がセレスを見下ろしていた。年の頃は二十代後半といったところである。
その人のことはよく知っている。斜陽の旧王妃派であるにもかかわらず、その才覚と、格式ある家柄と美貌を併せ持つが故に、権勢をほしいままにする若者だ。
少し離れたところからセレスの様子を窺っている監視の男が、ごほんと一つ咳をする。余計な話をするな、という合図だろう。
(分かってるわよ)
これが最後の別れとなるかもしれないのに、野暮すぎる。セレスは監視を強く睨み付けた後、若者に再び向き直った。そして、
「クーロンヌ……」
と名を呼ぶと、若者はまず、突然腕を掴んで引き止めた無礼を詫びた後、気遣わしげに言葉を継いだ。
「どうかなさったのか、難しい顔をして。それに、いつもの覇気もない」
と。




