9 寂しさの共鳴(1)
セレスは廊下を歩いていた。
よろよろと精も根も尽き果てたセレスの脳裏には、後悔ばかりが渦巻いている。
(ああ、またカトルカールに捕まって時間を無駄にしてしまった。……今日は新しい結界に挑戦するつもりだったのに)
自分ではそれほど鈍くさいつもりはなかったが、実はただの「つもり」だけだったのかもしれない。
☆
……それは朝一番の出来事だった。
「世紀の大発表がある」
そんな、いつもながらに大風呂敷を広げたカトルカールの言葉にうんざりしつつ、
「私、侍女になったから忙しいの」
と、完全無視して足早に彼の元から去ろうと試みたことは、試みたのだ。
しかし、あろう事か、カトルカールはセレスの首根っこを捕まえると、
「ノエルのヤツは旧王妃派だから、君を馬車馬のようにこき使うことはないだろう?」
と、勝ち誇ったように告げ、セレスをずるずる強引に引きずって、講義室へ連行したのである。
さて、セレスの父である王が地位を追われた今、「旧王妃派」「寵姫派」という派閥は最早、過去のものとなっている。それを今更言及するあたり、やはりカトルカールという青年は、現在の情勢が見えていないようだ。ある意味、究極のマイペース人間とも言えよう。
それでいて妙に鋭いところもある。
旧王妃派云々はともかく、ノエルがセレスに激務を課していないことは事実である。クーデターが起こった当初は「馬車馬のようにこき使ってやる」と宣言されていたにもかかわらず。
以前、ほうきを持って掃除でもしようと考えた際、彼に「それは専門の者がする」と断られたわけだが、それもそうだろう。
名目上、セレスはノエル付きの侍女である。が、ノエルの元で働く侍女はセレス一人というわけではない。
その侍女たちは、ノエルとブランが厳しい目で選別した、その道に秀でた精鋭であり、己の仕事を完璧にこなすことを旨としている。
誇りを持って仕事をこなす彼女たちの領分に立ち入ることができるだけの技量が、セレスには足りていない。
いや、それ以前に。
(何だか私まで世話を焼かれるのよね)
ノエル付きの侍女たちは、寵姫派辺りの一部の侍女とは違って、公明正大だった。昔から四人の王女に対しても、出自や派閥で扱いを変えることはなかった。誰に対しても丁寧で、そして適度に気安い。
みな既婚者で、セレスより一回り以上年上だからだろうか。よくできた人たちである。
が、そのおかげで、自分が職にあぶれているのも事実である。
あまりに暇すぎる時に、思い切って、こう直訴したこともある。
「何か仕事が欲しいです、旦那様」
侍女の一人から受けた「ノエル様は主ですから、何かお願いする時は、旦那様、と呼んでみてはいかがでしょうか」というアドバイスを忠実に守り、そう切り出したセレスだが。
何故かノエルは一瞬息を呑み、それからほのかに顔を赤くした後、セレスから目を逸らした。そのままの姿勢で、彼はこう告げた。
「じ、侍女の仕事は……まあ、人手が足りない時に手伝ってもらうとして、前にも言ったとおりセレスには結界学の研究に専念してほしい。教育や知識は国の宝だからな。……ああ、でもティータイムは今までどおり、お前に準備をお願いする」
と。
――話が横に逸れたので元に戻すが。
常にカトルカールの講釈は冗長で殺人的に長いものだが、今日の話は、また一段と長かった。
話を聞いている間、何度意識が異世界へと旅立ちかけただろう。今も、思考は霞がかったように朦朧としている。キルシュも顔負けの、もの凄い破壊力だ。
なお、普段より拘束時間が長かった原因は二つある。一つは、彼が今描いているらしい壮大かつ偉大なる計画について、蕩々と語り聞かされていたせいである。もう一つは、うっかり彼の言葉に異議を唱えてしまったせいであった。
二時間に渡ってカトルカールが熱弁をふるった「人類未到の壮大なる計画」とはつまり、一言でまとめると、
「精霊を呼び出そうと思う」
ということらしい。
精霊とは一般に、その魔力の強大さゆえに、人間が人でないものに昇華した存在だと言われている。ならば人間の一種ではないか、と言われそうだが、人と彼らはあまりに生態が違いすぎて、同じ種族と分類するにはためらわれる。
彼らの特性として、非常に禁欲的であるという点が挙げられる。
あまりにも強い魔力を持っていた彼らは、自分たちの力に危惧を抱いた。他国の権力者に利用されることに怯えると同時に、自分たちが力に奢ってしまうことを恐れた。
やがて彼らは決断を下す。
「我々は力を封印し、そして他国との繋がりを断とう」
と。
そして彼らは、自分たちの力を国外で使用できないよう封印した。また、私利私欲のために力を使わぬようにと、自分たちの感情の中の「欲」と呼ばれる部分を封じた。
――彼らの存在は、穏やかにして静。そして……無欲。
自ら滅ぶことを選んだ種族である。
そのためか、精霊の存在自体を疑う者も多い。しかしそれは自然な流れだ。外界との関わりを全て断った彼らは、いずれ全ての人々に忘れ去られ、歴史から淘汰されるだろう。
そこまでして、精霊はひたすら身を隠す。
それゆえに古今東西、魔法陣や呪文によって精霊の召喚を成功させたという話は、聞いたことがない。確かに巷には、精霊を呼び出す方法を書き記した本が出回っている。しかしそのどれもが根拠も実績もない眉唾物だった。
「止めた方がいいんじゃない?」
失敗するならまだしも、妙なものを召喚されては困る。取り敢えず城の平和のために、止めておくべきだと思ったのが運の尽きだった。
カトルカールはセレスの忠告を聞くなり、顔を赤くし激昂した。
彼は机を力一杯叩くと、
「君は本当に私と同じ研究者なのか! 失敗を恐れぬこの私の高尚な研究者魂を何故君は理解できない? 全くこれだから向上心のない凡人は……。いいか、そもそも学問というものは――」
と、くどくど説教を始めたのである。
(よりにもよってカトルカールにお説教を喰らうなんて)
屈辱だ。
しかし、反論すればまた話が長くなるかもしれない。それだけは避けたいセレスは以後、一切口を挟まず、カトルカールの話を右から左へ聞き流しながら、この上なく無駄な時間を過ごす羽目に陥ったのであった。
☆
(口を挟まなければ、もっと早く終わるって分かっていたのにね)
けれど、どうしても止めずにはいられなかった。
そもそも精霊は、喚ぼうと思って喚べるものではない。もし、それが可能であれば、とうの昔に過去の偉人が成果を出しているはずだ。何と言っても精霊の力は強大で、その力を得たいと望む者はごまんといるのだから。
そういった自分の推測は、あながち的外れではないはずだ。
けれど、自分の心の奥底に、それとは違う別の理由が潜んでいることにも、セレスは気付いていた。
ゆっくりと顔を上げて、窓から空を見やる。太陽は南中しているようで、木々から伸びる影は短い。部屋を出た時は朝方だったが、カトルカールに付き合っている内に、正午を過ぎていたらしい。
日差しは緩やかで、過ごしやすい天気だ。
(毎日が穏やかだな)
日光の眩しさに目を細めながら、セレスはしみじみと実感した。
子供の頃、どうしても欲しくて、しかし自分の力だけでは手に入らなかったもの。それが、第一王女というくびきから解放された今になって、ようやく手に入った。
この平穏さ、そして今という時間が、とても愛おしかった。ずっと変わらなければ良いのにと、切に願う。
だからこそ、平穏や均衡を壊す行為に、一抹の不安を覚えるのだ。
「精霊を召喚する……か」
セレスは独白を漏らすと、一つ、小さな溜息を零した。




