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8 恋と打算と結婚と(3)

 第一王女の笑みは一見、とても作り笑いとは思えないほど屈託ないものだった。

 しかしノエルは確かに見た。少女がその笑顔を頬に貼り付ける前に浮かべていた表情を。


 彼女がノエルの存在に気づき、振り向いたほんの一瞬。


 その瞳は限りなく深く、そして暗かった。何ものにも興味を抱かない、虚ろな瞳である。加えて、どこかしら警戒心を含んだ視線でもあった。


 しかし今、彼女がノエルの前で浮かべている笑顔は、完璧なものだった。それだけでノエルは確信できた。この少女は曲者だと。

 ただ、少女は決して、愛想の良い性格を演じているわけでもないらしく、すぐに笑顔をおさめる。しかし、気安げな雰囲気は残したまま、


「私はセレスティーナ」


と名乗りながら彼女は、ノエルに立ち上がるよう促した。求めに従いノエルが立ち上がると、少女は彼を覗き込むようにして言った。


「あなたも大変ね?」


 悪戯っぽく、くすりと笑う。


「面倒な事を押しつけられた……っていう目をしてる」


 微笑みながらも、その瞳は探るようにノエルの一挙手一投足を見つめていた。反応を窺われている、と感じたノエルは、努めて平静を装う。


「光栄にこそ思え、面倒などと思うはずがありません。長子であるセレスティーナ様こそが、次期王位継承者です。そのような貴女にお仕えすることができることを、心より嬉しく思っていますよ」


「ふふ、そうかしら?」


 まあ、面白味はないけれど無難な回答ね、とノエルの答えを聞いた少女は言った。しかし嫌味ではない。その証拠に、少女の表情はどこか満足げであった。無難な受け答えでその場をやり過ごす能力というのは、政界においては必須であるからだ。


「まあ、どちらにしても、現時点で寵姫派の方が幅を利かせていることは、紛れもない事実よね」


 その言葉に込められたものは、自虐ではなかった。淡々と客観的に事実を述べる、そんな口調である。


 ……それから二、三他愛のない会話を交わしたのち、セレスティーナが不意に黙り込む。何か考え込んでいる様子であった。恐らくノエルの人品を探るための次なる課題を頭の中で練っているところなのだろう。


 一体この幼い少女の口から何が飛び出すのだろうかと、ノエルは戦々恐々だ。王立学院を受験した時以上の緊張感である。


 やがて少女は、おもむろに口を開いた。そして彼女がノエルに投げかけた質問は次のとおりであった。


「あなた、私に興味ある?」

「?」


 ノエルは、セレスティーナの質問の意図が分からず、思わず首を捻った。

 むろんノエルも、セレスティーナが黙り込んでいた間、呆けていたわけではない。彼なりに頭の中で想定問答を組み立てていた。しかし、実際の王女の問いかけは、ノエルの想像の範疇を超えていた。


 ノエルが難しい顔をして答えあぐねていると、セレスティーナはすぐに、ノエルが自分の言葉の意味を計りかねていると判断したらしく、易しく言い換えた。


「私と結婚したい、とか思わない?」


と。


「……え?」


 あまりに予想とかけ離れた言葉を聞き、ノエルは唖然と目の前の少女を凝視した。

 告白されることに免役が無いわけではない。彼は幾度も同年代の少女らから想いを告げられたことがある。

 とはいえ、目の前の少女は、そういった可愛らしくも俗っぽい感情とは無縁のように見えた。だから、違和感を覚えるままに、問い返す。


「私のことを――好きなのですか?」

「ううん。全然」


 少女はからりとした口調で、あっさりと首を振った。その後、軽く目を伏せると、


「愛や恋なんて、幻みたいなもの。その時は確かにそこにあったとしても、終りの頃には醜悪な物に成り果てる。……たとえば、お父様とお母様みたいにね」


と、セレスティーナはしみじみ語った。難しい立場にいる王女ならではの台詞で実感がこもっている。

 苦労の程が垣間見え、同情心も沸いたが、それと彼女の提案を承諾することとは全く別の話である。


 第一王女セレスティーナと婚約する。それは安易に答えを出して良い案件ではなかった。

 王籍に入ることによって生まれる利益、そして不利益。それらを冷静に計算、判断し慎重に結論を出す必要がある。

 常識的に考えて、即答できる話ではないだろう。そこでノエルは、


「少し返事を待って……」


いただけませんか、と猶予を得ようとしたところ、


「ううん。いい」


というセレスティーナの声によって、彼の言葉は中途で遮られた。彼女はおどけたように軽く首を竦め、


「私、あんまり、人が何を考えているのかを探るのが好きじゃないの」


と続けた。


「だから、この話に、考えなしに食いつくような人がいい」


 悪戯っぽく笑うセレスティーナの顔を見ると不意に、カトルカールという少年の顔が浮かんだ。彼ならば、考えなしに「女王の夫」という地位に食いつきそうだ。

 しかし、あれが王配になる未来を考えると、ぞっとする。


「それは……愚かな人間が良いと言っているのと同じ事ですよ?」


 老婆心ながら釘を刺す。


「ふふっ、それも一つの考え方ね。地位やお金を持っていて、且つ扱いやすい人なんかが理想ね。でも、聡明な野心家でも良いの。そうでなければ、あなたに声をかけないでしょう? もし貴方がこの話を即断で承知したとしても、貴方のことを愚かだとは思わない。ただ、王配の地位を得ることによる利点と難点を比べてみて、利点が勝ったんだなって判断するだけ」


 セレスティーナ王女は、随分とノエルの能力を買っているようだ。そう思うと、ノエルも悪い気はしなかった。彼女が即断さえ迫らなければ、婚約の成立という違う結末もあったのかもしれないと、ノエルは頭の隅で考える。

 一方で、王女の方はあっさりしたものである。


「まあ、断られてしまったものは、仕方ないわよね。……あ、もちろん結婚を断ったからと言って、悪いようにはしないから安心して。むしろこの話自体忘れてくれた方が助かるから、よろしくお願いね」


 とても子供のものとは思えないほど、大人びた笑みを浮かべながら、セレスティーナはそう言った。服の端を軽く摘み会釈する動作も堂に入っており、隙を微塵も感じさせなかった。


 圧倒させられると同時に、油断ならないと感じた。そして油断ならないと感じつつも「落陽の旧王妃派の象徴的存在」という認識は改めるべきだと感じた。


 いわゆる「恋心」というものを抱くことはできなかったが、「旧王妃派」の「戦友」として彼女に好意を持ったのは、確かである。







 それが、ノエルとセレスティーナの出会いの一部始終である。


 当時のセレスティーナの年齢は、今日も今日とてノエルの部屋で、棚の菓子を食べ尽くさんとしているレアより下であった。

 隣に立つブランに「そんなに食べると太りますよ」と菓子の籠を取り上げられたため、背伸び、時々ジャンプしながら取り返そうとしている現在十二歳の少女の姿を、彼は何とはなしにじっと見つめた。

 するとノエルの視線に気付いたレアが、一時ブランと休戦して、


「どうしたの?」


と不思議そうに首を傾げた。その仕草に、打算の色はない。


「いや、レアは素直だなと思って」


 セレスの子供の頃と違って、という言葉は、この娘の耳に入ればセレスに筒抜けになってしまうので飲み込んでおく。


 確かにレアも、年の割に大人びており、こまっしゃくれたところがあるが、それでもセレスの幼い頃には遠く及ばない。少なくとも政治的な思惑によって行動するということがない。王位に遠い場所にいたのが幸いしたのだろう。


「へ……??」


 一方、思いも寄らなかっただろうノエルの呟きに、レアの動きが、ギギッと妙なぎごちなさで止まる。そして彼女は彼の様子を窺った。最初は、気味の悪いものでも見るような目つきで。それは次第に、彼を心底心配する視線へと変わった。


「ノエル……熱でもある?」


 レアの手が、ノエルの額に触れた。先程まで、ブランと菓子を巡る仁義なき戦いを繰り広げ、体が温まっている少女の掌の感触が心地よい。その感触に身を委ねつつ、彼は回顧する。


 何故あの時、結婚を承諾しなかったのか、今になって悔やまれると。


 しかし、当時のノエルには、セレスに対する恋情もなく、また旧王妃派につくと決めたばかりで準備もなかったのだから、どうしようもない。


 いや、彼女に全く興味を抱かなかったわけではない。

 しかし、少女の心は頑なで、決して人を寄せ付けず、それはノエル相手だとて例外ではなかった。とりつく島もないので、心が触れ合うこともない。


 セレスティーナが、不器用ながらも人と触れ合うようになったのは、彼女が一人の少年を王城に連れてきた日からだ。


 少しずつ、凍り付いていた彼女の心が溶けて行く過程に、目が離せなくなった。


 しかし、想いに気づいた時には、一歩出遅れていた。

 セレスの側には常に小舅のようなキルシュという少年が付き従っていた上に「結婚話に考えなしに飛びつくお馬鹿な人」をそのまま体現したようなカトルカールという少年と、彼女が婚約したからだ。


 機を逸すると、それだけで障害物が増えるものだ。まったくもって。


(前途多難だ)


と、ノエルはセレスを想い、大きく溜息を零した。

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