午後出勤の保健室
萌える緑がアスファルトの上に降り注ぐ。蒸し返すような暑さの五月晴れだ。
通学路の並木道を歩いていると、民家の庭にうぐいすが飛んでいくのを見た。緑褐色の羽が陽光のもとで地面に黒い影を落とす。うぐいすの姿は民家の中に消え、その美しい鳴き声がすぐに聞こえてきた。
センリは首筋に浮かんだ汗をそっと拭い、目を細めた。
学校の校門を通り抜けても教室には行かず、そのまま保健室の扉をくぐる。中に入ると涼しい風がセンリの頬を撫でた。保健室の中はいつでも冷房が効いて寒々としている。
センリが肩にかけていた鞄を入り口のすぐ脇に設えられてある長椅子の上に置くと、カーテンの向こうのベッドが音を立てた。スプリングの軋む音を聞いてセンリが目線をそちらに向けると、カーテンが開いてその中から白衣を肩に引っ掛けた男が現れた。男はセンリの姿を認めると「よっ」とひとこと言って丸椅子に腰掛ける。
後ろ髪がはねているところを見る限りでは、今までベッドで寝ていたらしい。
保健医の男はたらたらと白衣を身に付けると、記帳に何かを書き付けてからセンリを見た。きっと自分の出席に関してだと目星をつけ、センリは顔を上げた保健医の向けてくる視線を真っ向から受け止める。
「セン、今頃登校か?」
保健医がそう言ったので壁時計を見やると、時計はもう九時半を指していた。そうです、と仕方なく彼女が答えると保健医の顔がくしゃくしゃになった。保健医は笑う時にいつも顔をくしゃくしゃにする。たぶん今回は苦笑したのだろう。センリの答えを聞いて保健医はまた記帳に何か書き加えた。
とんとんとん。保健医がボールペンの背でノートを叩く音がリズムを刻む。
「これじゃあ、社長出勤だな」
「社長出勤?」
センリは鞄を置いた長椅子に腰掛けて鸚鵡返しに聞き返す。すると保健医は器用に片方眉を上げて視線をセンリに寄越した。
「そう。社長はたとえ午後出勤でも咎める人は誰もいない。だからお前もそれだな」
「えー……私が、ですか?」
センリは唇を尖らせ、指を弄る。
「じゃ、私は社長かぁ……」
「セン。勘違いするな? お前は社長じゃない。ちゃんと叱ってくれる奴はいるさ」
保健医は笑いながらボールペンを指先で回して見せた。センリは彼の長い指先を注視しながら、誰ですかと聞き返す。
それは、先生ですか? と。
保健医はすこし間を置いてから、
「赤城先生だろ」
と言う。
赤城というのはセンリのクラス担任だ。体育科の教師で、嘘をついちゃならん! というのが彼の口癖で、いつでも生徒に対して正当性を求める。何でも自分が正しいと勘違いしている節があり、それをクラス全体に強要するところがあった。
センリは赤城の言うことに賛成することも否定することもできず、彼が担任になって一学期のうちにクラスから見放された。だから、今のセンリに何か言う人間はもうここには居ない。
センリは家のことを思い出しそうになっている自分に気が付いて、慌てて視線を窓の外に向けた。
「あ」
「ん? どした、セン」
「先生、うぐいすがいる」
窓の外を指差して、センリは立ち上がった。保健医もつられるようにして窓の外を見やる。そして微かに口元を綻ばせた。
「いや、あれはメジロだな」
「え、うぐいすじゃないの?」
キョトンとするセンリに対して保健医は例のくしゃくしゃとした笑顔になって言った。
「うぐいすはさ、警戒心が強くて声は聞こえるのに姿を見せない。それに対してメジロは警戒心も緩いし、花の蜜とかに目がない鳥なんだよ」
保健医の言葉を頭の中で繰り返しながら、センリはじっと窓の外に見える緑褐色の小鳥を見つめた。
メジロは細い木の枝の上に暫く留まり、風が吹くと同時に飛び上がった。
知らず知らずのうちに息を潜めて観察していたセンリはその瞬間ハッと我に返り、いそいそと通学用鞄を持って白いベッドに登り、カーテンを閉めてから布団の中に潜り込んだ。保健医の制服がしわになるぞーという間延びした忠告に生返事をして、彼女は目蓋を閉じる。
あたたかな、すこし強い日差しがクリーム色のカーテンにあたって陰影の強弱をつけ、そっと床にこぼれていく。
遠くの小鳥の囀りを子守唄にして、センリは心地よいまどろみの中へと落ちていった。
二時間目が終わったころに一度目を覚まして保健医とひとことふたこと言葉を交わし、お茶を飲んでからベッドの中に戻ると目を閉じた。
保健室とセンリの居る空間の間を仕切るクリーム色のカーテンが揺れ、人影が通って行く。そのあとすぐに窓を開ける音がして、ひんやりとした風がカーテンを揺らした。
寒いと思ったが、頬を滑る風が心地よくもあった。
ごそごそと体の位置を変えて猫のように丸くなって眠ろうとする。けれど二度目の睡魔はなかなかやって来てくれない。
ようやくうつらうつらしはじめた頃になって、保健医の話す声が聞こえてきた。誰かと話している。しかも女の人の声だ。
そこまで気付いたところで、センリの眠気はまるで引き潮のようにすうっと引いていってしまった。
息を殺して、二人の会話を盗み聞く。
少しして女の声が英語教師の三田村のものだとわかり、無意識のうちに身を固くした。
どうして三田村先生が保健室にいるの。東間先生と何を話しているの。
センリは頭の中でぐるぐると堂々巡りを続け、三田村が「失礼しました」と言って保健室を後にしてからも一人で悶々としていた。
「セン。そろそろお昼だぞ〜」
カーテンの傍に保健医が立ち、薄い影が広がる。保健医に声を掛けられて初めて、もうお昼休みになっていることに気がついた。
センリはベッドから這い出すと鞄からコンビニ弁当を引っ張り出して、カーテンを開けた。
事務椅子に腰掛けていた保健医はセンリが手に持っているコンビニ弁当を見て眉を顰める。
「また買い弁?」
「先生こそ」
ムッとしてセンリが言い返すと、なぜか効果音に「じゃじゃじゃーん」と自分で付けて保健医は四角い箱を取り出して見せる。蓋を開けてセンリが中を覗いて見てると、それは手作り弁当だった。
一瞬センリは返す言葉を見つけられず、沈黙がその場に降り立つ。
「……へーえ」
「それだけかよ」
「はい。良かったですね、先生」
保健医の突っ込みに対して、センリは取ってつけたような笑みを浮かべて言った。
センリはいつも座る窓際に置かれた丸椅子に近寄り、机も移動してお弁当を広げた。そして彼女は手を洗いに立つ際に保健医の方を盗み見る。澄ました顔で何か書き付けているが、本当はもっと他の言葉を掛けてくれると期待していたのだとセンリは知っている。
「……絶対、言ってやるもんか」
蛇口をひねったところで、センリはぼそりと呟いた。
誰からそのお弁当を貰ったんですか? なんて、先生が聞いて欲しくても私は言ってやらない。
センリがウサギのプリントしてあるハンカチで手を拭きながら戻ると、保健医が至極普通にセンリの用意した丸椅子の傍に自分の椅子を持ってきて座っていた。
「いただきまーす!」
パチンと音を立てて手を合わせた保健医は、本当の子どもみたいに明るい声で挨拶をして箸に手をつける。それをセンリはぼんやりと眺め、ウーロン茶で乾いた喉を潤した。




