夫が支援してきた“妹”のために私を妊娠させ昇進争いから降ろしたので、私は彼を社会的に終わらせた
夫が支援してきた“妹”のために私を妊娠させ昇進争いから降ろしたので、私は彼を社会的に終わらせた
1.誰もが褒める理想の夫
私が流産した子の病理標本の複製、診断書、妊娠検査の写真、そして久世遼平と水瀬芽衣が長年交わしてきた親密な記録をまとめて、水瀬芽衣の昇進祝いの席へ贈り物として届けたとき、会場にいた全員が私を狂った女だと思った。
その日の宴席では、すべての皿の下に、二人のトーク履歴、送金記録、親しげな写真が敷かれていた。久世遼平は会場の中央で顔を真っ白にし、ようやく私がかつて言った言葉が脅しではなかったのだと悟った。
もしほかの女のために私を傷つけるなら、私は必ず百倍にして返す。
予期せぬ妊娠がわかった日のことを、私は一生忘れない。両家の家族はみな喜び、久世遼平はまるで卒業したばかりの少年のようにはしゃいで、私をリビングで何度も抱き上げて回し、額に祈るようなキスを落とした。
私だけが、喜べなかった。
そのとき私は、昇進をかけた大事な時期にいた。もう一人の候補者である水瀬芽衣と、死にものぐるいで競っていたのだ。東京本社の新製品「LUMINA」は最終テストに入っており、無事にリリースできれば、私は製品開発部のプロジェクトマネージャーになれるはずだった。
けれど、この時期の妊娠は、ほとんど自動的に競争から降りることを意味していた。私は久世遼平の喜びに満ちた顔を見て、「この子を残したくない」という言葉を飲み込んだ。つわりがひどくなり、予定より早く家で休むことになった私は、玄関の外で彼の笑い声を聞いた。
「芽衣、約束は守っただろう?」
「妻が妊娠した。君が欲しがっていた代理リーダーのポジションは、僕が取ってやったよ」
私はドアの外で立ち尽くした。全身をその場に釘で打ちつけられたようだった。
その感覚は、三日前に病院で妊娠を告げられたときとよく似ていた。妊娠がわかった瞬間、私が最初に思ったのは、この子を諦めることだった。
今回の昇進機会は、私にとってあまりにも大きかった。一度逃せば、綾羽デジタルでここ数年かけて築いてきたキャリアは、ほとんど断ち切られてしまう。唯一の競争相手である水瀬芽衣に勝つため、私は一か月以上連続で残業し、すべての心血を「LUMINA」プロジェクトに注いできた。
成功まであと一歩だった。けれど私は会社で倒れ、同僚に病院へ運ばれ、そこで妊娠を知らされた。
両家の家族はその知らせを聞き、私の周りを囲んで祝福した。久世遼平も、もうすぐ父親になる喜びに浸っていた。
だから私は、心を軟らかくして子どもを残すことにした。
けれど今日、私は彼と水瀬芽衣の会話をこの耳で聞いてしまった。水瀬芽衣の声は柔らかかったが、ドア越しでもはっきり聞こえた。
「ありがとうございます、久世さん。この機会を大切にして、必ずプロジェクトを進めてみせます」
胸を刃物で切り裂かれたようだった。
枕を並べて眠る夫と、私の競争相手は、いったいいつから手を組んでいたのだろう。いつから、こんな汚いやり方で私を競争から追い出そうと決めていたのだろう。
足音が近づいてきた。逃げる暇もなかった。
ドアが開き、私たちは真正面から目が合った。水瀬芽衣は戸口で固まり、顔に浮かべていたか弱い笑みが一瞬で凍りついた。
「千鶴さん……どうして帰ってきたんですか?」
私は彼女を見なかった。ただ彼女の背後にいる久世遼平をじっと見据えた。
「つわりがつらくて、休みに帰ってきたの。あなたは、どうして私の家にいるの?」
久世遼平も私を見た瞬間、目にかすかな驚きを浮かべた。だがそれは一瞬だけで、彼はすぐにいつもの穏やかで落ち着いた表情に戻り、私の腕を支えに来た。
「妻よ、変に考えないでくれ。芽衣は今日君が家にいるとは知らなかったんだ。会社の資料を届けに来ただけだよ」
あまりにも自然な言い方だった。
まるで、さっきの「代理リーダーのポジションは僕が取ってやった」という言葉など、妊娠中で情緒不安定になった私の幻聴だったかのように。
久世遼平はドアを閉めると、当然のように私の手からノートパソコンを受け取り、冷え切った私の両手を自分の掌で包んで、そっと息を吹きかけた。
「手がこんなに冷たい。つわり、またひどくなったのか?」
「楽になる方法をいくつか調べておいた。あとで温かいスープを作るから、試してみないか?」
彼の声は非の打ちどころがないほど優しかった。私に見つかったという動揺も、ほかの女と二人きりで家にいたことへの後ろめたさも、顔には少しも出ていなかった。
もしあの会話を聞いていなければ、私はまた信じてしまったかもしれない。彼の目には、私への気遣いしかないのだと。
けれど今、私の耳にはあの一言だけが残っていた。
約束は守った。
それは、二人が最初から結託していたことを意味していた。私の妊娠も、私の離脱も、私が失った昇進機会も、初めから久世遼平が仕組んだものだったのかもしれない。
優しさの幻の中で生きるのは、あまりにも恐ろしかった。
たとえ血まみれになっても、私は真実を知りたかった。
私は彼の腕をつかみ、まっすぐに問いただした。
「あなたと水瀬芽衣は、いったいどういう関係なの?」
久世遼平はスプーンをかき混ぜる手をわずかに止め、こちらを見ると眉をひそめた。
「さっきも言っただろう。変に考えないでくれ。君は今、子どもがいるんだ。いちばん大事なのは、自分と子どもを守ることだよ」
「どうして変に考えずにいられるの? 久世遼平、どうして私はこんな大事な時期に妊娠したの?あなたは彼女に何を約束したの?」
彼の声が冷たくなった。
「僕が彼女に何を約束できるっていうんだ。榛原千鶴、もう被害妄想はやめてくれ。君はいつからそんなにヒステリックになったんだ?」
私はその場で固まった。
久世遼平とは恋愛結婚だった。幼なじみでもあった。小学校、中学校、大学と、私たちは同じ街で過ごし、互いに初恋であり、かつては誰よりも親しい友人でもあった。
私は何度も両親に自慢した。久世遼平は夫であるだけでなく、私のいちばんの友人で、家族でもあるのだと。
だからこそ、あのポジションをどれほど惜しいと思っても、彼の喜びのために、いったんこの子を残すことにした。
その結果、返ってきたのは彼の裏切りだった。
私は怒りで拳を握りしめた。けれど彼はその手をやさしく開かせ、ため息をついた。まるで聞き分けのない子どもをなだめるようだった。
「ごめん。今の言い方はきつかった」
彼は煮込んだスープを私の前に置き、また声を柔らかくした。
「少し飲んで。楽になるから」
いつも彼は、こんなふうに私を気遣ってきた。けれど今の私は、心の中に恐ろしい疑念が湧き上がるのを止められなかった。
私は彼の襟をつかみ、震える声で聞いた。
「あなたが心配しているのは、私の体? 子ども? それとも水瀬芽衣が順調に昇進すること?」
久世遼平の眉がまた寄った。
「千鶴、妊娠中で気持ちが不安定なのはわかる。でも、これ以上理不尽なことは言わないでくれ」
彼は、私の妊娠はただの偶然だと言った。水瀬芽衣についても、今日が初めての私的な接触だと言い張った。
「久世家全員の命に誓ってもいい。僕と水瀬芽衣は潔白だ。男女の関係なんて絶対にない。これでいいだろう?」
2.仕組まれた妊娠
久世遼平は有名な親孝行だった。
大学受験のあと、両親の一言で、子どもの頃から大好きだった絵を諦め、経営学を学ぶ道を選んだ。卒業後も家の言う通りに久世家の会社へ入り、跡を継ぐ準備をしていた。
そんな彼が久世家の人間をかけて誓ったので、私は一時的に口をつぐむしかなかった。
けれど胸に刺さった棘は、抜けなかった。夜になっても寝返りばかり打ち、頭の中にはリビングに立つ久世遼平と水瀬芽衣の姿がこびりついていた。
翌朝、久世遼平は早く起き、いつものように私の朝食を用意していた。妊娠がわかって以来、外のものは衛生面が心配だからと言い、時間がある日は必ず手料理を作ってくれた。
私は彼と顔を合わせたくなくて、彼が出かけてからわざと起きた。食卓には温められたサンドイッチと牛乳が置かれ、その横には彼の手書きのメモがあった。その文字の優しさが、今はひどく痛かった。
私は味のしない朝食を食べながら、調査事務所へ電話をかけた。
久世遼平の言葉など、一文字も信じられなかった。
彼と水瀬芽衣の関係を、すべて調べる。
調査事務所への電話を切ったあと、私は直属の部長にも連絡した。
「LUMINA」プロジェクトは、もうすぐ最終テストを終えるところだった。あのプロジェクトは、私にとってもう一人の子どものようなものだった。最後の一歩で席を外すことなど、どうしてもできない。
妊娠初期で体がまだ動くうちに、仕事を続けるつもりだった。せめてリモート勤務でもいい。
けれど電話口の部長は驚いていた。
「榛原さん、ご主人が今朝会社に来ましたよ。つわりがひどくて体調が不安定だからと、あなたの長期休職手続きをしていきました」
私は勢いよく立ち上がり、テーブルの牛乳をひっくり返した。服が濡れることも気にならなかった。
「では、うちのチームのプロジェクトはどうなるんですか? 部長、ご存じでしょう。あと数行のコードを走らせて、検収が通ればリリースできるんです」
電話の向こうが少し沈黙した。
「安心してください。水瀬さんに先に引き継がせました。もともとあなたが育てた子ですし、若いから対応できるでしょう」
すぐに水瀬芽衣の声が電話越しに聞こえた。落ち着いた、力強い声だった。けれど私にだけは、その中に勝ち誇った笑みが隠れているのがわかった。
「千鶴さん、安心してください。私は家庭の負担もありませんし、十分に時間を使えます。あなたが心血を注いだ新製品を、必ず引き継いで市場に出してみせます」
電話を切ってから、私は自分がすでにプロジェクトの業務チャットから外されていることに気づいた。
私は下腹部に手を当てた。胸の中に、いくつもの感情が混ざり合った。
家庭の負担。
本来なら、私にはそんなものはなかったはずだった。
私は半狂乱で寝室へ駆け込み、ベッドサイドの引き出しを開けた。
「LUMINA」に全力を注ぐようになってから、久世遼平との夫婦生活は多くなかった。しかも毎回、避妊していた。以前は、プロジェクトマネージャーになれたら、ちゃんと埋め合わせをすると冗談を言ったことさえあった。
引き出しには、未使用の避妊具がいくつか残っていた。私は一つずつ取り出し、窓の外の光にかざして、指先でゆっくりなぞった。
やがて、違和感に気づいた。
包装の端に、何か鋭いもので刺したような、かすかな引っかかりがあった。次の瞬間、指先に小さな痛みが走り、血がにじんだ。
そこには、極小の針穴が三つあった。
手が震え出した。私は残りも全部取り出して確かめた。
すべてに穴があった。
氷水を頭から浴びせられたように、全身の血が冷えた。
私の妊娠は、やはり偶然ではなかった。
裏切られた感覚が、息もできないほど密な網となって全身を覆った。窒息しそうな圧迫感に耐えられず、私はベッドサイドの棚に手をつき、ようやく立っていた。
私はスマホをつかみ、久世遼平に電話をかけた。
電話はほとんど一秒でつながった。彼の声は低く抑えられていた。
「妻よ、どうした? 今、会議中なんだ」
「体調が悪いのか? 僕はすぐには抜けられない。両親に行ってもらおうか?」
なんて気が利くのだろう。
けれど私には、そのすべてが薄汚く感じられた。手のひらに冷たい汗がにじむ。
私は深く息を吸い、正面から切り出した。
「久世遼平。家にあった避妊具が全部、針で穴を開けられていた。このこと、あなたは知っているの?」
電話の向こうが静かになった。
一秒、二秒、三秒。
彼の沈黙が長くなるほど、私の心は底へ落ちていった。
向こうで書類をめくる音がした。その音はしだいに速くなり、最後に彼は低く言った。
「千鶴、騒がないでくれ」
「僕は君のためを思ってやったんだ」
妊娠。新しい命を迎えるという、本来なら尊重されるべきことを、最愛の人はほかの女を喜ばせるための駒にしていた。
怒りが限界に達し、目の前が暗くなった。
私は棚を支えにしながら、一語一語、絞り出すように聞いた。
「どうして?」
「私が水瀬芽衣に負けることが、あなたに何の得になるの?」
久世遼平の声は、恐ろしいほど冷静だった。
彼はまるで会社の報告書でも分析するように、私と水瀬芽衣の違いを淡々と語り始めた。
水瀬芽衣は若い。卒業してまだ二年で、結婚もしていない。家庭の負担もなく、やる気に満ちている。彼女は高知県の人口が減り続ける山間の町の出身で、母親はずっとアルバイトを掛け持ちし、彼女は地方の奨学金を頼りに東京へ来た。
綾羽デジタルに入り、「LUMINA」の開発チームに加わることができたのは、彼女にとって簡単なことではない。
今回、責任者として新製品の発表までやり遂げられれば、彼女はようやく東京に残り、自分の足で立てるようになる。
彼の言葉は一つ一つ、別の女への称賛だった。
「千鶴、わがままを言わないでくれ。君は今年で三十二だ。もう若くはない。家庭を優先するべき時期なんだ」
「これ以上遅らせたら、君の体にもよくない」
「妻よ、僕は君に傷ついてほしくないんだ」
笑ってしまうほど滑稽だった。
私は涙が出るまで笑い、最後に一言だけ残した。
「久世遼平。この子は、いらない」
3.彼は私を逃がさない
私は最速で手術の予約を入れた。
けれど久世遼平は、私より早く病院に現れた。病院へ駆け込んできた彼は、額に汗をにじませ、目を赤くし、ようやく優しい皮を破ったような切迫した口調で言った。
「榛原千鶴、君はいったい何をしているんだ?」
「前回の診察で医師が何と言ったか、忘れたのか?」
忘れてなどいなかった。
医師は、私の体質は決して強くなく、子宮内膜がもともと薄いため、妊娠初期は特に慎重に過ごす必要があると言った。もし今回この胎児を諦めれば、体への負担は大きく、今後また子どもを授かる可能性も低くなるかもしれない、と。
久世遼平は私の手を取り、指を絡め、少しずつ声を和らげた。
「妻よ、怒りに任せて言わないでくれ」
「僕が黙ってあれに穴を開けたのは悪かった。でも、本当に君が心配だったんだ」
彼は、「LUMINA」が始まってからの私は昼夜逆転し、心身をすり減らし、ひどくやつれていたと言った。
「久世家は君一人くらい養える。家庭に戻って、僕と子どもを育てる人生ではいけないのか?」
家族三人で、平穏に、ゆっくり年を重ねる。
聞こえだけなら、確かに美しい。
久世遼平は、この件以外なら何でも私の言う通りにすると約束した。久世家の会社の株の一部も、望むならすぐに私名義にすると言った。自分の仕事をすべて調整し、つらい妊娠期間をそばで支えるとも言った。
けれど、そうやって優しくされるほど、私は怒りで震えた。
彼は、私がプロジェクトにすべてを注いでいることを知っていた。それなのに、どうしてここまで残酷に私の昇進機会を奪えたのだろう。
私は彼の手を一本ずつ外し、はっきりと言った。
「嫌よ」
「欺きでできた子どもなんて、私は望まない」
久世遼平は私の顎をつかみ、無理やり自分の方を向かせた。彼の目にあった優しさは、ついに完全に冷え切っていた。
「千鶴、僕はその子の父親だ」
「僕が同意しない限り、その子には手を出させない」
病室の入り口から足音が聞こえた。両親が入ってきた。
久世遼平は立ち上がり、何事もなかったような落ち着いた表情に戻った。
「お義父さん、お義母さん、来てくださったんですね。千鶴を説得してください」
父は心配そうに何度も首を振った。
「馬鹿なことを言うな。夫婦喧嘩は夫婦喧嘩だ。子どもを巻き込んで意地を張ってはいけない」
母は私のスマホを取り上げ、目の前で手術の予約をキャンセルした。
「あなたは幸せの中にいることがわかっていないのよ。遼平さんがこの数年どれだけあなたを大事にしてきたか、私たちは見てきたわ」
「子どもは夫婦の絆よ。ちゃんと守らなければいけない」
誰も私の決断を支持しなかった。
彼らは私を、妊娠の不調で情緒を乱した、理不尽な女だと思っていた。
私は家に軟禁された。久世遼平がいなければ、外へ出ることも許されなかった。
ときどき仕事の電話がかかってきたが、それもすべて久世遼平に奪われた。彼はいつもの落ち着いた声で相手に返した。
「千鶴は長期休職中です。何かあれば新しい代理リーダーの水瀬芽衣さんに聞いてください」
電話の向こうはかなり焦っているようだった。
「でも、コードに問題が……」
私はまぶたを跳ね上げた。
最後の数行のコードは作業量こそ多くない。だが、そこに問題が起きれば、それまでのすべてが台無しになる可能性がある。そして、全体のシステム構成をいちばん理解しているのは私だった。
私はスマホを奪おうと手を伸ばした。
「久世遼平、返して――」
言い終える前に、彼は片手で私の口を塞ぎ、もう片方の手でスマホを持ったまま、少しも揺れない声で言った。
「もう一度言います。彼女は今、とても不安定な状態です。こういうことで彼女を煩わせないでください」
「次に同じことがあれば、正式に御社へ抗議します」
通話が切れ、私の口を塞いでいた手がゆっくり離れた。
久世遼平は、まるで私こそ聞き分けのない人間だと言いたげな、諦めたような目で私を見た。
「くだらないことはもう放っておこう。安心して子どもを守ることだけ考えればいい」
スマホはまだ震えていた。けれど彼はそれを強引に取り上げ、電源を切った。
チームのメンバーは、もう私に連絡できなかった。
私はソファに座り込み、目の奥がじわじわ濡れていくのを感じた。
私の心血が壊されていく。
なのに、私は何もできない。
久世遼平の“理想の夫”という評判は、あまりにもよく作られていた。子どもを諦めたい。彼から離れたい。そう思っても、実の両親でさえ味方になってくれなかった。
私は拳を握りしめた。
このままではいけない。
その日から、私は久世遼平が差し出す安胎の薬や栄養スープを拒まなくなった。
一杯、また一杯。時間は静かに過ぎていった。胎児の状態は一応安定し、私の従順な態度は、短時間だけスマホを使う権利を取り戻すことにつながった。
久世遼平はソファにもたれ、淡々と私に告げた。
「あのくだらないプロジェクトのことは、もう考えるな」
「会社には、君の退職意向も僕が伝えておいた。製品が今後どうなろうと、君には関係ない」
私は怒りでテーブルを叩いた。
「あなたに何の権利があって、私の人生を決めるの?」
久世遼平はついに、ずっと隠していた強烈な支配欲をむき出しにした。彼は私の腕をつかみ、骨が砕けそうな力で握った。
「僕が君の夫だからだ!」
「僕は君を愛しているから、ここまでしているんだ。君は僕の妻だ。君が一生頼るべき相手は、僕だけなんだ!」
私は迷わず手を振り上げた。
乾いた音が響き、彼の陶酔した言葉はそこで途切れた。
「久世遼平、もう演技はやめて」
「深情ぶるの、疲れない?」
「あなたの秘密は、もう全部知っている」
4.十二年の妹
その一発で、久世遼平はその場に固まった。
私の言葉を聞いて、彼はゆっくり我に返り、目の色を沈ませていった。
「僕をこっそり調べたのか?」
「いつからだ?」
その顔からは、少しの動揺も見えなかった。
依頼していた調査事務所から、すでに報告は届いていた。久世遼平は嘘をついていた。彼と水瀬芽衣は、初めて私的に会ったわけではない。
二人は十二年前から知り合っていた。
だから彼は私を妊娠させ、プロジェクトから追い出した。すべては、あの女のためだった。
けれど証拠を突きつけても、私は理解できなかった。なぜ彼は、ここまで平然としていられるのだろう。
久世遼平は腕を組み、口元に薄く笑みさえ浮かべた。
「千鶴、そこまで調べたのなら、僕と芽衣の間に不適切な関係がないこともわかっているはずだ」
調査員は半月ほど彼を追っていた。たしかに、最近の彼と水瀬芽衣が密会するような写真は撮れていなかった。
けれど、それが潔白の証明にはならない。
私はスマホを掲げ、銀行の送金履歴を開いた。
「十二年前、水瀬芽衣はまだ中学生だった。その頃から、あなたは毎月彼女にお金を振り込んでいる」
「これでも関係の証明にはならないの?」
久世遼平は声を出して笑った。
「そうだ。僕は芽衣の支援者だ。十二年間、彼女を支援してきた」
「彼女は本当によく頑張った。高知県のあんな小さな町から東京へ出て、少しずつまともな会社に入った」
「それが何だというんだ?」
「榛原千鶴、僕はただ親切心で、いいことをしただけだ」
彼は遠くを見るような目で、水瀬芽衣がどれほど努力してきたかを語り始めた。
彼女の母親は地方の町で一人、アルバイトを掛け持ちして娘を育てた。芽衣は幼い頃から成績優秀だったが、家計は普通より苦しく、東京の学校に通うことさえ危ぶまれていた。
久世遼平は、自分はただ彼女をかわいそうに思い、手を差し伸べただけだと言った。
その一言一言が、鈍い刃のように私の胸を削った。
十年以上一緒にいて、三年も夫婦でいたのに、私は枕を並べる男がずっと別の女を気にかけていたことを知らなかった。
トーク履歴には、送金だけでなく、細やかな気遣いも残っていた。
暑くなれば小型扇風機を送る。寒くなれば、自分でマフラーやダウンを選ぶ。彼女が体調を崩せば、遠隔で病院を予約し、薬の配送まで手配する。試験の成績が上がれば、追加のご褒美を送る。
水瀬芽衣が初めて生理になったときでさえ、甘えるような声で彼に音声メッセージを送っていた。
「遼平お兄ちゃん、血が出たの。怖いよ」
私は無表情でその音声を再生した。
久世遼平は眉をひそめた。
「千鶴、何に嫉妬しているんだ。彼女がそれを送ってきたとき、まだ十代だった。僕だって大学生だった」
「彼女はただ、生理のことがわからなくて怖がっていただけだ」
彼は、私の考えが汚れていると言った。二人の純粋な関係を汚しているのは私だと。
けれど彼は、自分がそのあとに送った音声には触れなかった。
「芽衣、怖がらなくていい。お兄ちゃんがいるから大丈夫だ」
「もうすぐ夏休みだから、そのとき会いに行くよ」
久世遼平が大学一年の夏休み、私は社会実践活動中に事故に遭い、肋骨を三本折った。
病院のベッドで痛みに眠れない夜を過ごし、両親は私のために走り回って、ほとんど白髪になった。結婚を考えていた幼なじみの恋人は、その間ずっと連絡がつかなかった。
彼が言っていた「スマホが壊れていた」というのは嘘だった。
彼はただ、高知県の山間の町へ、自分が支援している女の子に会いに行っていただけだった。
久世遼平の顔色は少し変わったが、口調はまだ強かった。
「あのとき君に嘘をついたのは悪かった」
「でも、なぜ僕が嘘をついたのか考えてみてくれ。君が気にしすぎる性格だとわかっていたから、心配させたくなかったんだ」
彼は言えば言うほど、当然のような顔になっていった。
「ほら、今だってそうだろう。君はやっぱり考えすぎている」
「あの年、芽衣に会いに行ったことは、彼女の母親も先生たちも知っている。調べればいい。僕は一線を越えるようなことは何もしていない」
最後には、彼の方が被害者であるかのような表情を浮かべた。額に手を当て、傷ついたように苦笑した。
「女の人は本当に考えすぎる」
「善意まで、そんなふうに受け取るなんて」
「だから今回、君が偶然芽衣をうちで見たときも、僕は隠そうとした。君のためを思ってのことだった」
私が彼と一緒にいた年月の中で、彼はずっと別の異性とこんな曖昧な関係を続けていた。
日々のささいな出来事も、人生の重要な節目も、すべて彼女と共有していた。
私たちの結婚式の日でさえ、私は愛する人と人生を共に歩むことに胸を弾ませていたのに、新郎は式の直前まで彼女に返信していた。
「綾羽デジタルはいい会社だよ。僕の妻の会社だ」
「芽衣、頑張れ。しっかりやるんだ」
胸の奥から酸っぱい痛みがじわじわ広がった。
彼の感情が別の場所へ流れた最初の瞬間から、私たちの関係はもう純粋ではなかった。
それなのに今も、彼にはまったく反省がない。すべての過ちを、私のせいにしている。
私は幼い頃から一緒に育ったこの男を見つめ、初めて心の底から陌生な人間だと感じた。
「疲れた」
「もう争いたくない。あなたたちの関係が何だったのかも、知りたくない」
5.手術室の外で目が覚める
私はもう、離婚を考えていた。
けれど久世遼平は、私の言葉をまったく本気にしていなかった。彼は固く信じていた。私が妊娠の影響で情緒を乱しているだけだと。
彼は私を寝室へ連れて行こうと手を伸ばした。
「妻よ、少し眠ろう」
「夜は栄養のあるものを作るから」
私は彼の手を振り払い、彼が苛立つ前に先に言った。
「体調が悪いの。病院へ行きたい」
彼はこの子を大事にしていた。
少なくとも、私よりも。
体調が悪いと聞いた途端、彼はすぐに立ち上がり、病院へ行く準備を始めた。
私は彼の腕をつかんだ。
「両親も呼んで」
病院には消毒液の匂いが漂っていた。
私は両親と二人きりで話したいという口実で、久世遼平を外へ出した。
病室で、私は調査事務所が調べた内容を両親にすべて話した。話し終えると、針一本落ちても聞こえそうなほど、空気は静まり返った。
最初に沈黙を破ったのは父だった。
「娘よ、考えすぎではないのか?」
「トーク履歴を見る限り、遼平くんとその子の接触は確かに多い。だが、本当に一線を越えたようには見えない」
母は父と目を合わせ、まるで示し合わせたように私を慰めた。
「お父さんの言うことにも一理あるわ。遼平さんが嘘をついたのはよくない。でも、あなたを傷つけたくなくてついた嘘かもしれないでしょう」
「この数年、遼平さんがどれだけあなたを大切にしてきたか、私たちは見てきたのよ」
「子どももできたのだから、若い頃のように意地を張ってはいけないわ」
なんて滑稽なのだろう。
いちばん近い両親でさえ、すでに問題に気づいているはずなのに、なお私に久世遼平を責めすぎるなと言う。
全員が、私が大げさに騒いでいるのだと思っていた。
私は反論しなかった。ただ黙って、いくつかのメッセージを送った。
病室のガラス越しに、廊下に立つ久世遼平がスマホを見下ろすのが見えた。次の瞬間、彼の顔色が変わった。
彼は病室の方を一度見て、すぐにスマホを耳に当てた。
彼のスマホにあらかじめ仕込んでおいた通話転送アプリが、その一語一句を私のスマホからはっきり流した。
「芽衣、どうした?」
「製品の試験運用で問題が出たのか?」
「今、病院にいてすぐには動けない……」
相手が何を言ったのかは聞こえなかった。けれど彼の声はすぐに柔らかくなった。
「わかった。泣かないで」
「待っていてくれ。今すぐそちらへ行く」
次の瞬間、病室のドアが開いた。
久世遼平は、まるで何も起きていないかのように落ち着いた声で言った。
「妻よ、お義父さん、お義母さん。会社の方で急ぎの用事ができました。少し行ってきます」
「あとで検査結果を送ってください。必ず確認します」
ドアが閉まると、病室は死んだように静まり返った。
父の顔色が一瞬で変わった。奥歯を噛みしめ、手の甲に青筋が浮かんでいた。
「妻が病院にいるのに、別の女の問題を解決しに行くのか?」
「嘘をつくのに、まばたきもしないのか?」
母は目を赤くし、私の手を強く握った。
「つらかったわね」
「あの男は信用できない」
「お母さんは、あなたのすべての決断を支持するわ」
家族が味方になってくれたことで、私はもう怖くなかった。
その日のうちに手術を予約した。
両親は書類に署名し、私が手術室へ運ばれていくのを見送った。冷たい手術台、刺すような消毒液の匂い。私はゆっくり目を閉じた。
そのとき、外から大きな音が響いた。
「先生、中には入れません。手術中です!」
「榛原千鶴、出てこい!」
「僕たちの子どもを堕ろすなんて、僕は許さない!」
久世遼平は、思ったより早く戻ってきた。
私はさっき、元の部下に頼んでテストコードを半行だけ削除させ、「LUMINA」に短時間の技術トラブルを起こさせた。途中からプロジェクトを引き継いだ水瀬芽衣は、システムを完全には把握していない。慌てれば、必ず久世遼平に助けを求める。
久世遼平は賢い。
会社へ着き、その問題が低レベルなミスだと気づいた彼は、すぐに私の陽動作戦に気づいたのだろう。
私は目を閉じ、医師に小声で伝えた。
「予定通り手術してください。彼のことは気にしないでください」
両親が外にいる。きっと止めてくれる。
この子さえいなくなれば、私は久世遼平から離れ、新しい人生を始められる。
けれど外の男の声は、ほとんど錯乱していた。
「僕と水瀬芽衣は完全に潔白だ!」
「僕はただ、妹のように思っていただけだ!」
「千鶴が嫌なら、今後は彼女と一切連絡を絶つ!」
「お義父さん、お義母さん、なぜ止めてくれないんですか?」
「知っているんですか? これは彼女が一生でただ一度だけ子どもを持てる機会かもしれないんですよ!」
まぶたが跳ねた。
まずい。
その言葉は、両親のいちばん痛いところを突いた。
警報音が鳴り、手術室のドアが強引に開けられた。
「全員、やめろ!」
久世遼平がよろめきながら飛び込んできて、そばの器具台を倒した。
医師と看護師は驚いて彼を止めようとしたが、怒鳴り声に押されて下がった。
手術は続けられなくなった。
私は起き上がらざるを得ず、彼と一緒に手術室の外へ出た。
「久世遼平、あなたは何がしたいの?」
久世遼平は、本当に私の痛みが理解できないという顔をしていた。
「千鶴、どうして君は僕と芽衣の関係にそこまでこだわるんだ?」
彼は水瀬芽衣の件で何度か嘘をついたことは認めた。けれど、原則的な過ちは犯していないと主張した。
「芽衣と知り合ったとき、僕には彼女がいると言った。後には妻も家庭もあると言った」
「君は彼女を知らない。彼女は物分かりがよく、誇りもあるいい子だ。僕たちの結婚を壊すようなことはしない」
彼は自信満々に、私がここまで理不尽な女になるとは思わなかったと言った。
「自分の結婚に自信がないからといって、なぜ若い子に八つ当たりするんだ?」
私は彼の子を身ごもっていた。
その子の父親は、駆けつけてきたその口で、一言一句、別の女をかばっていた。
父がとうとう我慢できず、一発殴った。
「久世遼平、私は本当に見る目がなかった。娘をお前に預けたことを後悔している!」
「自分が何を言っているのか、聞こえているのか?」
「妊娠した妻を放って別の女と関わり続け、最後は妻を責めるのか?」
母は何かを決意したように、まっすぐ私の目を見た。
「さっき遼平さんは、あなたの体が手術に耐えられないかもしれないと言ったわ」
「でも、お母さんは考えた。こんな男の子どもを産むくらいなら、あなたが一生私たちのそばにいてくれた方がいい」
久世遼平は腫れた頬を押さえ、呆然と母を見た。
「お義母さん、何を言っているんですか?」
「そう呼ばないで!」
母は彼の前へ進み、はっきりと言った。
「久世遼平、あなたは私の娘にふさわしくない」
「出ていきなさい」
周囲には人が集まり、ざわめきが広がっていった。
大半の人が私の不幸を嘆き、夫の薄情さと恥知らずぶりを責めていた。
私はもう彼と絡み合う気力もなく、主治医のもとへ行き、手術を再開してほしいと頼んだ。
久世遼平はようやく、この場で自分だけが全員の敵になったことに気づいたようだった。
彼は唇を震わせたが、まともな言葉は一つも出てこなかった。人形のようにその場で固まっていた。
私が再びストレッチャーに横たわったとき、彼は急に私の腕をつかんだ。
父が私の前に立った。
「久世遼平、さっきの言葉では足りないのか?」
「私の娘は、もうお前のような男とは一緒にいない。二人は離婚する。この子を残す必要もない」
久世遼平の声が震え始めた。彼は父を見ず、私だけを見ていた。
「千鶴、本当に僕と子どもを捨てるつもりなのか?」
「考えたんだ。君が芽衣を嫌うなら、僕は彼女と連絡を絶つ」
「僕の中で、君は彼女よりずっと大切なんだ」
私は彼を見て、静かに問い返した。
「大切な妻のそばから、彼女の電話一本で飛び出していくくらいに?」
久世遼平は壁にもたれ、もう何も言えなくなった。
私は目を閉じた。
「時間を無駄にしないで」
「先生、お願いします」
手術室のランプが再び灯った。
今度は、誰も私を止めなかった。
6.離婚届
再び目を開けると、そこにいたのは一気にやつれた両親だった。
唇がひどく乾いていた。私は彼らに謝った。自分の結婚をうまく続けられず、両親まで傷つけてしまったと思ったからだ。
父が首を振り、何か言いかけたとき、病室のドアが乱暴に開いた。
久世遼平が栄養品の袋をいくつも提げ、何事もなかったかのような慣れた口調で入ってきた。
「妻よ、手術のあとで体が弱っているだろう」
「滋養になるものを買ってきた。食べさせてあげる」
彼は私のベッドのそばへ来て、波ひとつない声で続けた。
「妻よ、お義父さんたちをなだめてくれ。もう騒がないように」
「君は、僕が君を妊娠させて仕事の機会を失わせたことを恨んでいるだけだろう?」
「もう子どもはなくなった。体を治して、また仕事に戻ればいい」
彼はそこで一度言葉を切り、低く、かすかに脅すような声になった。
「それに、子どもがなくなった以上、君が今後妊娠できるかどうかもわからない」
「僕以外に、誰が君を欲しがる?」
「僕から離れたら、君はもっと不幸になるだけだ」
彼は私の流産を、新しい弱みとして握ろうとしていた。
私は、この男の面の皮の厚さに、ほとんど感心しそうになった。
両親も一瞬固まった。次の瞬間、二人は同時に怒り出し、彼が持ってきたものをすべて外へ投げ出した。
「出ていけ!」
「榛原家は、そんなものに困っていない!」
それでも久世遼平は、私がこの程度のことで本当に別れるはずがないと思っていた。
三日続けて、彼は毎日病室に現れ、私にまとわりついた。
両親は彼を固くドアの外へ押し返した。
四日目、久世遼平がまた来たとき、彼が受け取ったのは、弁護士が私のために作成した離婚協議書だった。
彼はその場で崩れ、廊下で大声を上げた。
「榛原千鶴、どうしてそんなに残酷なんだ?」
「こんなに長い年月を一緒に過ごしてきたのに、どうしてもう一度だけチャンスをくれない?」
複数の警備員が別々の方向から駆けつけ、彼を押さえた。
私はガラス越しに、久世遼平の赤く充血した目を見た。
彼の叫び声は、ドア越しにも届いた。
「本当に悪かった!」
「水瀬芽衣の連絡先は全部消した。彼女と話していたことが間違いだったのもわかった」
「僕が悪かった。本当に悪かったんだ」
「妻よ、どんな代償でも払う。だから僕から離れないでくれ」
私は静かに顔を背けた。
見ろ。過ちを知らない人間など、どこにもいない。
彼はただ、私の愛情と長年の依存にあぐらをかき、別の女との曖昧な関係を好き放題楽しんでいただけだった。
離婚協議書の内容は公正だった。財産はほぼ半分ずつ。私は必要以上に争う気はなかった。ただ、早く彼から離れたかった。
その日、久世遼平の叫び声は長く続いた。けれど彼が病室に入ってくることはなかった。
最後に両親が疲れた顔で部屋に入り、私の手を握った。
「娘よ、安心しなさい」
「お父さんとお母さんがいる。あの裏切り者に、もうあなたを傷つけさせない」
体の回復は順調だった。
医師は、手術によって不可逆な損傷はなく、将来の妊娠にも大きな影響はないと言った。
それでも私がいちばん気にかけていたのは、「LUMINA」プロジェクトだった。
思っていたよりも、話はうまく進んだ。
直属の部長に電話すると、彼はすぐに了承し、できるだけ早く職場へ戻るよう言った。
「プロジェクトは、やはりあなたに任せます」
「水瀬さんはまだ若すぎた。途中から引き継いで、かなり混乱させてしまった」
「詳しい話は戻ってからにしましょう。榛原さん、上層部もあなたを評価しています」
7.彼女が戻ってきた
会社に戻った日、私は慣れた自分の席に座った。
チームのメンバーは、私がしばらく不在だったことに触れなかった。ただ最新の資料と問題リストを整理し、私の前に置いてくれた。
水瀬芽衣の姿はなかった。
ただ、彼女は精神的に不安定になったらしく、長期休暇を取っているという噂だけが聞こえてきた。
給湯室では、同僚たちが声を潜めて話していた。
「千鶴さん、知っていますか? あの日、水瀬さんを探しに男の人が慌てて来て、すごく大きな声で揉めていたんです」
「その男の人が、もう自分を誘惑するな、妻が怒っているって言っていた気がします」
「水瀬さん、見た目はおとなしいのに、既婚者に手を出すなんて」
「長期休暇と言っているけど、実際は会社も解雇を考えているんじゃないですか」
「当然ですよ。彼女、プロジェクトに全然集中していませんでしたから。製品もめちゃくちゃにしていましたし」
噂はそんな形になっていた。
私は説明しなかった。何も知らないふりをした。
その日の退勤時、地下駐車場で久世遼平に待ち伏せされた。
彼は髭が伸び、普段はきっちり整えていた髪も乱れて跳ねていた。誰もが褒めていた理想の夫の面影は、もうどこにもなかった。
「千鶴、君が水瀬芽衣を嫌っているのはわかっている」
「僕は反省した。彼女はたしかに、無意識を装って僕を誘惑していた」
「あの噂は、僕が流した」
私は彼を見上げた。
「それで?」
久世遼平の目に、かすかな光が宿った。
「彼女はショックを受けて、精神的におかしくなった」
「会社ももうすぐ彼女を解雇する」
「彼女が解雇されたら、君は気が済んで、僕を許してくれるのか?」
彼は別の極端へ走っていた。
けれど変わらないことが一つあった。彼は今も、すべての責任を他人に押しつけている。
私は彼の手を振り払い、冷たく告げた。
「あなたとほかの女のことには興味がない」
「三日後、区役所で離婚届を出しましょう」
久世遼平が私に執着していたのは、未練だけが理由ではなかった。
それ以上に、私の両親が彼に制裁を始めたからだった。
私と長く付き合いすぎたせいで、久世遼平は忘れていたのかもしれない。最初から、榛原家は久世家の会社にとって最大の中核サプライヤーだった。
榛原家から良質な前端部品の供給を失えば、久世家の会社は大きな打撃を受ける。
久世遼平は狂ったように私にまとわりついた。
連絡先をすべてブロックすると、今度は自宅の下に現れた。感情はますます激しくなり、手段はどんどん見苦しくなった。
ついには大雨の日、彼は会社の前で土下座し、看板を掲げて叫んだ。
「妻よ、僕が悪かった!」
「家に帰ってきてくれ!」
私はすぐに警察へ通報し、この数日間の嫌がらせの写真、動画、録音もすべて提出した。
これで、離婚は普通の協議だけでは進められなくなった。
久世遼平には継続的な嫌がらせ行為があったため、調停と訴訟へ進めば、財産分与は明らかに私に有利になる。
久世遼平が家庭裁判所を出てきた日、彼は奥歯を噛みしめ、私に脅し文句を吐いた。
「榛原千鶴、ただ若い子と話していただけで、ここまで僕に復讐するのか」
「覚えていろ」
彼の態度は、後悔、哀願、脅迫の間を何度も行き来した。
すべてが自分の利益中心だった。
私はようやく、彼の本質がどこまでも利己的なのだと完全に理解した。
もっと早く目を覚まさなかったことだけが悔しかった。
「LUMINA」が新製品として正式発表される日、同僚からメッセージが届いた。
「千鶴さん、落ち着いて聞いてください。水瀬さんが戻ってきました」
水瀬芽衣は本当に戻ってきた。
彼女は生き生きとしており、精神的におかしくなったようには見えなかった。出社しに来たのではなく、結婚祝いのプチギフトを配りに来たのだ。
私の前へ来ると、彼女はわざわざ足を止め、きれいに包装された小さな菓子箱を差し出した。
「千鶴さん、あなたが自分から降りてくれたおかげです」
「あなたが私と遼平お兄ちゃんの良縁を叶えてくれたんです」
彼女は私の耳元に近づき、私にだけ聞こえる声で囁いた。
「知らなかったでしょう?」
「十二年前、遼平お兄ちゃんが初めて奨学金を送ってくれたときから、私はこの人以外とは結婚しないって決めていたんです」
彼女は私が苦しみ、嫉妬し、崩れる姿を見たかったのだろう。
けれど私は、ただ淡々とうなずいた。
「そう。おめでとう」
「でも、私は甘いものが好きではないから、そのギフトは受け取らない」
自分勝手で責任感のないゴミを拾って、何がめでたいのだろう。
私は階下へ降り、新製品発表会に参加した。
そこに、久世遼平までいるとは思わなかった。
彼は水瀬芽衣の家族として、「水瀬芽衣」と書かれた名札をつけ、彼女と一緒に後方の席に座っていた。二人は親しげに笑い合っていた。
ただし久世遼平の視線の端は、毒蛇のようにずっと私を捉えていた。
私は壇上へ上がり、「LUMINA」プロジェクトの主責任者として挨拶した。
数か月の準備は、今日この新製品を世に出すためのものだった。
価値のない人間に、私の注意を一秒たりとも奪わせるつもりはなかった。
私は会場を見渡し、静かに口を開いた。
「最後に、製品開発チームのすべてのメンバーに感謝します」
「皆さんの努力があったからこそ、LUMINAは一つの企画書から、市場に出せる新製品へと形になりました」
そのとき、客席から誰かがマイクを奪った。
久世遼平が立ち上がり、まっすぐ私を見ていた。
「開発メンバーを支えた家族にも、感謝すべきではありませんか?」
隣の水瀬芽衣が驚き、彼の腕をつかんで何度も揺らし、発言を止めようとした。
けれど久世遼平は何かに取り憑かれたように、完全に平静を失っていた。彼は水瀬芽衣を振り払い、まっすぐ前へ突進した。
「千鶴、僕は今日結婚したのに、どうしてギフトを受け取らなかった?」
「僕にはわかっている」
「本当はまだ、僕のことを気にしているんだろう?」
その瞬間、舞台脇の祝砲花火が大きな音を立てて弾けた。
発表会の警備はもともと厳重だった。久世遼平の姿を見た時点で、私は部長と会場警備に知らせ、緊急対応を準備していた。
華やかな花火に、会場中の視線が一斉に集まった。
その隙に警備員たちが駆け寄り、二人を取り押さえて会場の外へ連れ出した。
8.私はもう、いらない
私が壇上を降りると、久世遼平が廊下の壁に押さえつけられているのが見えた。
彼は私を見るなり、必死にもがいた。
「千鶴、本当は全部、彼女との芝居だったんだ」
「あんな狂った女と、本気で結婚するわけがない」
「婚姻届は偽物だ。写真だって偽物だ」
「君が戻ってきてくれるなら、今すぐ彼女とは切れる……」
私が何か言う前に、隣の水瀬芽衣が目を見開いた。
「遼平お兄ちゃん、どうしてそんなことを言うの?」
久世遼平は勢いよく振り返り、顔を歪めた。
「黙れ!」
「全部、君が僕を誘惑したせいだ」
「君がいなければ、僕が離婚まで追い込まれることはなかった。義父母に久世家を切られることもなかった」
「僕は皆の笑い者になり、会社も潰れかけている」
「水瀬芽衣、僕が人生でいちばん後悔しているのは、あの年に君なんかを支援したことだ!」
犬同士の噛み合いだった。
残念なことに、久世遼平は私に媚びるあまり、水瀬芽衣がもともと狂犬だったことを忘れていた。
彼女は十年以上も耐え、一歩ずつ彼の生活に入り込み、あらゆる手段でようやく彼を手に入れた。それなのに、衆人環視の場で裏切られたのだ。
水瀬芽衣の目は真っ赤になり、長い爪が久世遼平の腕に食い込んだ。
「遼平お兄ちゃん、あなたも結局、最低な男だったのね」
「だったら、死ねばいい」
警備員たちはすでに私の後ろへ下がっていた。
「榛原マネージャー、どう対応しましょうか?」
私は取っ組み合う男女を見つめ、静かに答えた。
「警察に通報してください」
「後は警察に任せましょう」
発表会を妨害し、会社の信用を傷つけた。彼らが代償を払うには十分だった。
プロジェクトマネージャーに昇進したばかりの私には、まだ処理すべき仕事が山ほどあった。
退勤時、両親は地下駐車場で私を待っていた。二人は少し機嫌がよさそうで、ちょっとした噂話まで持ってきていた。
母が車のドアを開けながら、先にため息をついた。
「あの二人、警察署に着いたあと、病院へ検査に送られたそうよ」
「検査の結果、二人とも精神状態に問題があるらしいの。女の方は統合失調症の疑い、男の方はうつと躁状態だって」
父は冷たく鼻を鳴らした。
「ある意味、お似合いだな」
「あの女が壊れたのは、二人を引き裂けば金持ちに取り入れると思っていたからだろう」
「ところが久世家は資金繰りが悪化して、もう清算に入る。十年以上の努力が全部水の泡だ」
母が父を軽く叩いた。
「変な人たちの話はもういいでしょう」
「今日は千鶴のお祝いをするって決めていたのよ」
久世遼平の精神状態がおかしくなっていたことは、私にもわかっていた。
彼はきっと、ずっと順調に生きてきたのだろう。自分が口にする“小さなこと”で、ここまで深い穴に落ちるとは思っていなかった。納得できず、理解もできず、最後には自分自身を追い詰めたのだ。
けれど、もう私には関係がなかった。
車はゆっくりと地下駐車場を出て、両親が予約してくれた高級レストランへ向かった。
今夜は、私の昇進と昇給を祝う。
そして、私がようやく新しい人生を取り戻したことを祝うのだ。
その後、誰かに聞かれたことがある。
後悔していないのか、と。
流れた子を諦めたことを後悔していないのか。
誰もが褒める夫から離れたことを後悔していないのか。
長年の感情を、あんなにも無残に引き裂いたことを後悔していないのか。
私は長く考え、最後にはただ滑稽だと思った。
もちろん、後悔はある。
久世遼平の優しさの下に隠れていた支配欲を、もっと早く見抜けなかったことを後悔している。
自分の人生の選択権を、他人の手に渡してしまったことを後悔している。
朝食を作ってくれて、生理の日を覚えていて、上着をかけてくれる男なら、本当に私を愛しているのだと信じていたことを後悔している。
けれど、彼から離れたことは後悔していない。
自分の人生を取り戻したことも、後悔していない。
理想の夫など、誰もが褒める仮面にすぎなかった。
そして私は、その仮面を自分の手で引き裂いた。
これからの私は、誰かの妻でも、誰かの母でも、誰かの付属品でもない。
私は榛原千鶴。
「LUMINA」プロジェクトの責任者。
私は、私自身だ。




