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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。

死にたい悪役令嬢は、ヒロインと共犯になって卒業パーティを燃やす

掲載日:2026/03/25

 アステルディア王国が誇る名門、聖アルチェリア王立学園。


 未来ある貴族の子女が集い、礼儀と教養と社交を身につけるその場所で、わたくし――ローゼリア・フォン・ヴァレンシュタインは、気づけば「悪役令嬢」と呼ばれるようになっておりました。


 もっとも、それは物語に出てくるような、きらびやかで傲慢で、主人公をいたぶる悪役令嬢ではありませんの。


 ただ侯爵令嬢で。

 ただ愛想がなくて。

 ただ暗くて、無口で、何を考えているのかわからない。


 それだけで、人は勝手に役を決めてしまうものなのです。


 あの子、感じ悪い。

 ああいう子って、きっと性格悪い。

 どうせ裏で何かしてるんでしょ。


 そういう言葉を、わたくしは何度も直接ではなく聞いてきました。


 聞こえるように囁かれる悪意は、面と向かっての侮辱よりも、ずっと質が悪いものですわね。

 聞かなかったふりをするしかないのですもの。


 本当のわたくしは、そんな大層な悪役ですらありませんでした。


 夜は薬がなければ眠れない。

 朝になれば、その薬が身体の内側に薄く残っていて、頭の芯がいつまでも白く霞んでいる。


 授業中、黒板の文字はじわじわ滲んでいくし、教師の声は水の底から聞こえるみたいに遠い。

 誰かに話しかけられても、とっさに気の利いた言葉なんて出てきません。


「うん」

「はい」

「そうですわね」


 わたくしの口から出てくるのは、たいていそんな中身のない返事ばかりでした。


 だから、ときどき思うのです。


 もしかしたらわたくしは、最初からこの世界にちゃんと存在していなかったのではないかしら、と。


 輪郭だけがあって、中身はどこにもない。

 誰の記憶にも残らない、透明な人間。


 そんなわたくしとは正反対に、学園の真ん中にはいつだって光みたいな少女がおりました。


 リリアーヌ・ベルフルール。


 子爵家の令嬢で、可憐で、おしゃれで、誰とでもすぐ打ち解けて、笑うだけで空気の色まで変えてしまうような子。


 彼女が廊下を歩けば、自然と人が集まる。

 彼女がくすっと笑えば、その場にいる誰もが自分へ向けられた笑顔だと勘違いする。


 スクールカーストの頂点。

 そう言ってしまうのが、いちばん正確でした。


 そんな彼女が、なぜか、わたくしにだけは妙になついていたのです。


「おはー、ローゼリア」


「うん」


 朝の廊下で、リリアーヌはいつもみたいに笑います。


 窓から差し込む光を透かした蜂蜜色の髪が、ふわりと揺れる。

 同じ制服を着ているはずなのに、どうしてこんなにも違って見えるのかしら、と、わたくしは毎回ぼんやり思うのでした。


「今日の放課後、いつもの喫茶店いこー?」


「うん」


「やった」


 たったそれだけで、本当に嬉しそうな顔をするのです。

 変な子でした。


 放課後になると、わたくしたちは学園近くの喫茶店へ向かいます。


 磨かれた木のテーブル。

 少し甘い焼き菓子の匂い。

 窓辺の席に差す夕方のやわらかな光。


 リリアーヌは苺のタルトを頼み、わたくしは紅茶だけ。


「ローゼリアってさあ、もっと甘いもの食べたほうがいいよ。人生ちょっとは楽しくなるって」


「そうかな」


「そうだよー。脳がさ、幸せを思い出すから」


 そう言って彼女は、自分の皿から苺をひとつ、当然みたいな顔でわたくしのソーサーへ乗せました。


 断るのも億劫で、そのまま口へ運ぶ。


 甘酸っぱさが舌の上にひろがった瞬間、ほんの少しだけ、自分がまだ生きているのだと感じました。


 その程度のことで。


 翌日。

 校舎の窓に映った自分の顔を見て、わたくしは思わず呟いていました。


「……私って、透明人間になったみたい」


 誰にも聞かせるつもりのない独り言でしたのに、それを拾った人がいました。


 アステルディア王国第一王子、ユリウス・レオンハルト・アストレア殿下。


 この学園の誰もが憧れる王子様。

 顔だけは、ですけれど。


 リリアーヌいわく、中身は筋金入りのモラハラ男だそうでした。


「大丈夫ですか、ローゼリア嬢?」


「うん」


 答えてから、しまったと思いました。


 王子は少しだけ困ったように微笑みます。

 その笑顔はあまりによくできていて、むしろ人間味がありませんでした。


「……何か、悩みでも?」


「うん」


「話していただけるなら、聞きますが」


 聞いてどうなさるのかしら、とわたくしは思いました。


 聞いたところで、どうにもならないことなど、この世にはいくらでもありますのに。

 言葉にした瞬間に軽くなってくれる苦しみなら、最初から苦しみとは呼ばないでしょう。


 それでも何か返さなければいけない気がして、言葉を探して、けれど何ひとつ見つけられなくて、わたくしは目を伏せたまま小さく言いました。


「ごめんなさい。わたし、主体性ないから……」


 ユリウス殿下は露骨に眉を寄せ、それから何も言わずに去っていかれました。


 引き止める理由はありませんでした。


 どうせ、あの人にはわからない。

 世界の中心に立っている人には、最初から誰の視界にも入っていないみたいな苦しさなんて。


 その日の放課後。

 喫茶店でリリアーヌはタルトをつつきながら、ふいに言いました。


「ねえ、ローゼリアってさ、ずっと私と一緒にいればいいんじゃない?」


「……うん?」


「だって、私が守ってあげるし」


 冗談みたいに軽い口調でした。

 けれど、その目だけは妙に熱っぽくて、わたくしは少しだけ息を止めてしまいました。


「ローゼリアって、ほっとくとどっか行っちゃいそうなんだもん」


「どっかって、どこ」


「手の届かないとこ」


 その言い方が、少しだけ怖かった。


 でも、不思議と嫌ではありませんでした。

 誰かに必要だと思われることなんて、わたくしにはずっと縁のないことでしたから。


 深夜、自室のベッドで睡眠薬を飲み込むたび、わたくしは祈っていました。


 どうか、もう二度と目が覚めませんように、と。


 けれど朝になれば、無情にもきちんと目が覚めてしまう。

 最悪でした。


 それでも学園へ行けば、リリアーヌがいる。


「これ、おそろにしよー」


「うん」


「あのベルモン男爵、胸ばっかり見てまぢきもいよね」


「うん」


「ずっと一緒だからね? 輪廻転生しても一緒だからね?」


「うん」


 わたくしが頷くたび、リリアーヌは安心したように笑いました。


 最初はただ、やさしい子なのだと思っていたのです。


 でも少しずつわかってきました。

 彼女はわたくしに優しいのではない。


 わたくしを手放したくないのです。


 ある日の授業中。

 薬がまだ残っていて、わたくしはいつものようにうとうとしておりました。


 黒板の文字は滲むし、教師の声は遠いし、瞼は鉛みたいに重い。

 そのとき、鋭い声が教室を切り裂きました。


「おい、起きろ!」


 肩がびくりと跳ねる。


 教師はあからさまに呆れた顔で、こちらを見下ろしていました。


「お前、いっつも居眠りしているな」

「申し訳、ありません……」

「侯爵令嬢ともあろう者が、たるんでいる。少しは周囲を見習ったらどうだ」


 一瞬の静寂のあと、教室のあちこちで、くすくすと笑いが起こりました。


 前の席の子が振り返る。

 隣の列の子が口元を押さえる。

 誰かと目が合って、その目がすぐに逸らされる。


 ああ、まただと思いました。


 わたくしはいつもこうして、みんなの前に引きずり出される。

 主役でもなんでもなく、ただ笑われるためだけの見世物として。


 恥ずかしさで喉が締まる。

 顔の皮膚の下へ熱いものが広がっていくのに、身体は氷みたいに冷えていく。


 その中で、リリアーヌだけが黙ってわたくしを見ていました。


 庇いもしない。

 でも、笑いもしない。


 その視線だけが、この教室の中で唯一、まともに呼吸のできる場所みたいに思えました。


 休み時間になると、彼女がそっとノートを差し出しました。


「見せてあげる」


「ありがと。いつも優しいよね」


「親友だもん。約束したじゃん、生まれ変わっても一緒だって」


「そだよね」


 そう返した瞬間でした。


 彼女が顔を寄せ、わたくしの頬へやわらかな感触が触れたのは。


 ちゅ、と小さな音。


 わたくしはただ瞬きをして、目の前のリリアーヌを見つめました。


「リリアーヌって、ユリなの?」


「ちがうよー」


 あっけらかんと彼女は言いました。


 けれどその日から、彼女がわたくしへ触れる回数は目に見えて増えていきました。


 髪を撫でられる。

 肩にもたれかかられる。

 指を絡められる。

 耳元で甘く囁かれる。


 人気のない廊下で。

 階段の踊り場で。

 中庭の木陰で。


「くすぐったいよ」


「いいじゃんべつにー」


「薬でぼんやりしてるローゼリア、ほんっとかわいい」


「……そう?」


「そうだよ。ずっと私が助けてあげるからね」


 助ける、という言葉の形をした檻でした。


 それなのに、わたくしはその檻の中が少しずつ心地よくなっていったのです。


 ある日、昼休みの廊下をひとりで歩いていると、少し先で女の子たちの笑い声がしました。


「悪役令嬢ちゃんってさ、超陰キャでキモくない?」

「わかるー」

「友達とかゼロでしょ、あれ」

「ていうか、あの陰気な顔でよく学園来れるよね」


 足が止まりました。


 向こうも、わたくしに気づいているはずでした。

 でも、やめませんでした。


 聞こえるように言って。

 直接言ったわけじゃない顔をして。

 自分たちはただ雑談してるだけです、みたいな顔をして。


 それがいちばん陰湿でした。


 俯いたまま何も言えないわたくしの前へ、場違いなくらい晴れやかな声が割って入ります。


「やあ、みんな」


 ユリウス殿下でした。


 少女たちは、さっきまでの陰湿な顔が嘘みたいに華やいだ声を上げます。


「きゃー、王子だー!」

「ごきげんよう、殿下!」


 誰も彼も、ころりと表情を変える。

 ついさっきまでわたくしを笑っていた口で、今度は甘ったるい声を出している。


 気持ち悪い、と心のどこかで思いました。


 わたくしは壁際へ寄り、小さく頭を下げる。

 殿下は一応こちらにも目を向け、完璧な笑みを浮かべました。


 けれど次の瞬間、ほんのかすかに聞こえたのです。


「……爵位だけの陰キャ女が」


 小さな、舌打ち混じりの声でした。


 聞き間違いかと思いました。

 でも、たぶん違う。


 あの人は、ああいう人なのです。

 誰にでも優しい王子様の顔をして、値打ちのないものは見下して当然だと思っている人。


 教師も。

 モブも。

 王子も。


 この学園にいる人たちはみんな、他人を踏みにじるときだけ妙に手際がよくて、そのことに少しも自覚がない。


 だから、ひどく気持ち悪かった。


 その日の帰り道。

 石畳の上で、リリアーヌは困ったように笑いました。


「もー、くっつきすぎ。歩きにくいよ」


 見れば、いつの間にか、わたくしのほうが彼女の腕へしがみついていました。


 情けないと思いました。

 でも、離したら何かが終わってしまいそうで、指先に力が入る。


「……リリアーヌがいなくなったら」


「うん?」


「わたし、本当に透明人間になっちゃう……」


 彼女が息を呑む気配がしました。


「見捨てないでね……」


 その一言に、リリアーヌは肩を小さく震わせ、それから、すっごくやさしい声で囁きました。


「……うん。ずっと私と居ようね、ローゼリア」


 家に帰れば、待っているのは現実だけでした。


 お父様――アルベルト・フォン・ヴァレンシュタイン侯爵は、成績表を見て眉をひそめます。


「成績が少し下がっているな」

「はい」

「しっかりしろ。貴族としてのノブレスオブリージュを忘れるな」

「わかってますわ……」


 わかってなどいませんでしたし、わかりたくもありませんでした。


 自室に戻り、扉を閉めて、ようやく誰にも聞こえない声で呟くのです。


「……全員、死ねばいいのに」


 それが、わたくしにとっていちばん正直な祈りでした。


 しばらくして、今度はリリアーヌのほうから弱さを見せてきました。


 朝の教室で抱きついてきたあと、彼女は窓の外を見ながら、いつになく静かな声で言いました。


「ねえ、ローゼリア。私にも悩みあるよ」


「……教えてよ」


「ユリウス殿下、いるじゃん?」


「うん」


「前、付き合ってたんだよね。でもすっごくクズだから別れた」


 わたくしは少しだけ瞬きをしました。


「そなんだ」


「モラハラすごくて。しかも殿下と付き合ったせいで、周りから嫉妬されて友達いなくなっちゃったし……」


 彼女は笑っていました。

 でも、その笑顔はいつもみたいに綺麗に作れていませんでした。


 指先が、ほんの少し震えていたのです。


「みんな、私のこと好きみたいな顔してたのにね。本当の私のことなんか、誰も見てなかった」


 ああ、と思いました。


 この子も、ひとりぼっちだったのだと。


 誰からも好かれているように見えて、本当の弱さだけは誰にも見せられなかったのだと。


 透明人間みたいなわたしと。

 誰より輝いて見えて、誰にも触れられなかったリリアーヌ。


 だからわたしたちは、こんなにもぴったり噛み合ってしまったのでしょう。


「ずっと一緒にいよ? ね?」


「うん……」


 ある日、リリアーヌに誘われて、わたくしはベルフルール家の屋敷を訪れました。


 子爵家らしく上品で、でも、どこか息が詰まりそうなほど整いすぎた家でした。

 花瓶の位置も、絨毯の皺も、何もかもが正しすぎて、かえって落ち着かない。


 軽い誘いだったはずなのに、気づけばわたくしは彼女の部屋のベッドへ押し倒されていました。


 天蓋越しの薄い光が、リリアーヌの顔を淡く照らしている。


 けれど彼女は、すぐには何もしてきませんでした。

 ただ、わたくしを見下ろしたまま、ひどく怯えたような目をしていたのです。


 欲しいくせに、壊すのが怖い。

 手に入れたいくせに、拒まれるのが怖い。


 そんな目でした。


 わたくしは逃げようとは思いませんでした。

 怖くないわけではないのに、どうでもよかったのです。


 何をされても。

 誰にされても。

 ずっと、そういうふうに生きてきたから。


「べつにいいよ」


 わたくしが先にそう言うと、リリアーヌはかえって傷ついたみたいな顔をしました。


 それから、震える声で言います。


「……今まで、ごめんなさい」


 その一言が、あまりにも不器用で、人間らしくて、わたくしは少しだけ笑ってしまいました。


「私たち親友だもん」


 その言葉が正しかったのか、間違っていたのか、今でもわかりません。


 ただ、その夜、わたしたちは初めて同じ方向を向いたのです。


「ずっと死にたいって思ってた」


 わたくしがそう言うと、リリアーヌは目を見開いて、それから静かに頷きました。


「わたしも……」


 その一言は、慰めの言葉なんかよりずっとやさしかった。


 大丈夫だよ、と言われるより。

 生きてればいいことあるよ、と言われるより。

 わたしも同じだと、ただそれだけ言ってもらえることのほうが、ずっと救いでした。


 しばらくの沈黙のあと、リリアーヌが尋ねます。


「好きな人とかっているの? まさか、ユリウス殿下……?」


「ううん」


 わたくしは天蓋の向こうの白い天井を見つめたまま、答えました。


「全員死ねばいいって思ってる」


 一拍おいて、リリアーヌは吹き出しました。


「それ、わたしも同じ」

「おそろだね」

「あはは」


 その笑い声は、今まででいちばん綺麗でした。


 たぶん、わたしたちはそこでようやく、本当の意味で親友になれたのでしょう。


 だからわたくしは、自然と口にしていました。


「ねえねえ、わたしたちで卒業パーティ、破壊してやろうよ」


 リリアーヌは目を丸くして、それから楽しそうに笑いました。


「悪役令嬢じゃん」


「決まりだね」


 その言葉が妙に嬉しかった。


 悪役令嬢。

 周囲に勝手に押しつけられてきた呼び名でしたのに、そのとき初めて、自分の意思でその役へ乗った気がしたのです。


 数日後、いつもの喫茶店。


 その日は向かい合ってではなく、ソファに横並びで座っていました。

 他のお客さまから見れば、仲のいい女の子同士が肩を寄せているだけに見えたでしょう。


 けれどわたしたちは、甘いケーキの匂いの中で、世界を燃やす相談をしていたのです。


「時限炎魔法で、壇上をめちゃくちゃにしようよ」


 わたくしが小さく囁くと、リリアーヌはかわいい顔のまま、ひどくうんざりした声を出しました。


「どーせ王子が演説するんだもんね」

「うん」

「デキレースだもんね、何もかも」

「……なにもかも気持ち悪い……」


 教師も。

 モブも。

 王子も。

 家も。

 学園も。

 この世界が、最初から正しい顔をしていることも。


 ぜんぶ、気持ち悪かった。


 そのとき、テーブルの下でリリアーヌがわたくしの手を握ってきました。

 やわらかいのに、思ったよりずっと強い力で。


「やろっか」

「うん」

「ふたりで」

「うん」


 それだけで、もう決まったのでした。


 わたしひとりなら、きっと途中でぼんやりして、うまくできなかったでしょう。

 リリアーヌひとりなら、最後の最後で笑ってごまかしていたかもしれません。


 でも、ふたりならできる。


 だってわたしたちは、親友で。

 共犯者で。

 おそろいに、世界が嫌いだったのですから。


 卒業パーティの夜。


 聖アルチェリア王立学園の大広間は、吐き気がするほど華やかでした。


 シャンデリア。

 花。

 ドレス。

 祝福。

 未来。


 わたしたちには何ひとつ似合わないものばかり。


 壇上近くではユリウス殿下が、誰にでも向けられる完璧な笑みを浮かべていました。


「卒業生代表として――」


 よく通る声が、大広間いっぱいに響く。

 令嬢たちはうっとりと見上げ、教師たちは誇らしげに頷いている。


 さすが殿下。

 学園の誇り。

 明るい未来。


 気持ち悪い。

 本当に、なにもかも。


 隣で、リリアーヌが小さく笑いました。


 その笑い声だけが、わたくしにはひどく心地よかった。


「やる?」


 わたくしは笑って頷きます。


「うん」


 仕込んだ魔法が発動して、幕の裾へ火が移るのは、案外あっけないものでした。


 赤い炎がふっと揺れる。

 次の瞬間には、金の装飾をなぞるように燃え広がっていく。


 きらきらした世界が、みるみるうちに黒く塗りつぶされていく。


 一拍遅れて、悲鳴が上がりました。


「火事だ!」

「きゃあああ!」

「誰か、水を――!」


 誰かが叫ぶ。

 走る音がする。

 グラスが割れる。

 ドレスの裾を踏んで転ぶ令嬢。

 顔を青ざめさせる教師。

 ついさっきまで完璧に整っていた世界が、無様に崩れていく。


 ざまあみろ、と思いました。


 こんな世界。

 こんな学園。

 こんな物語。


 全部、燃えてしまえばいいのに。


 炎を見つめながら、リリアーヌがうっとりと囁きます。


「すっごいきれいだね」


 わたくしも笑って答えました。


「キャンプファイアみたい」


 衛兵たちの怒号が飛ぶ。


「二人とも危険だから逃げなさい!」


 逃げるべきなのかもしれませんでした。

 捕まるのかもしれませんでした。

 この先に待つのが断罪でも破滅でも、たぶんろくなものではないのでしょう。


 それでも、その瞬間。


 わたくしはようやく、自分が透明ではなくなった気がしたのです。


 リリアーヌがわたくしの手を握る。

 わたくしも握り返す。


 燃える世界の前で、わたしたちは確かにそこにいた。


 ローゼリア・フォン・ヴァレンシュタインと、リリアーヌ・ベルフルール。


 悪役令嬢と、ヒロイン。


 誰にも祝福されない、たった一度きりの共犯者として。


 世界が燃える。

 未来が燃える。

 正しさが燃える。


 それでも、わたくしは少しも怖くありませんでした。


 だって、もうひとりではないのですもの。


「ねえ、ローゼリア」


「なに」


「ううん、なんでもない」


 おかしなことを言う子だと思いました。

 でも、わたくしは笑ってしまったのです。


「うん」


 炎の向こうで、誰かがわたしたちの名前を呼んでいました。


 けれど、もうどうでもよかった。


 ようやく見つけたのです。

 わたくしを見つけてくれた、たったひとりを。


 だから、この世界の結末なんて。


 ほんとうに、どうでもよかったのでした。

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