第五十八節 冬の終わり
僕は目を覚ました。
寝ぼけ眼のように、ゆっくりと瞼を幕開けた。
見慣れた自室の中心で、僕は立っていた。
心臓は淡く脈打っている。
暖房によって暖められた空気も重く体に沈み込んでいった。
なにやら顔に違和感はあるものの……。
長内王雅として生きている。
帰ってきた。
帰ってきてしまった。
僕は寝ぼけ眼によって現実に引き戻されたのだ。
まさか寝ぼけ眼の慈悲が僕にすら向くとは思っていなかったものの、あいつは……かけられたい言葉の全てを浴びせてきた。
僕自身が自分に言うべきだった言葉を、僕と同一でありながら異なるあいつが言った。
にしても、心象風景での寝ぼけ眼の姿は──。
「王くんなのっ!?」
僕が現実を苦々しく噛み締めていると、思考のページを七愛の声が破り裂いた。
視線を送れば、七愛は僕のベッドに腰掛けていた。
……まず言うべき言葉というものがあるだろう。
「ただいま、七愛……心配掛けたよね、ごめんよ」
「王くん、王くんっ……! おかえりなさい──!」
七愛は体当たりするかのような速度で僕に突っ込んできた。
腰に手をまわして、膝をついた彼女は僕の腹に顔を埋める。
ああ、さっきの僕と寝ぼけ眼のようだ。
立場が逆だけども。
「口調、さっきの人みたい……だけどその表情は王くんなんだよね?」
彼女は今日だけで三度も泣いている。
目元が真っ赤なったまま僕を見上げた。
「お父さんの真似、やめたんだ」
「そっか……王くんちゃんと、王くんになったんだね……!」
なぜそこまでお見通しなのか。
少しばかりの恐怖を覚えるが、僕は彼女を腕を優しくつかんで立ち上がらせる。
そして、真正面から抱きしめた。
「あ……」
綿毛にも似た、たゆたうような柔らかな存在感。
鼻腔を抜ける香りは、バニラエッセンスの原液のように甘い。
微かな湿り気を帯びた啜り音が、その甘美な気配の傍らで小さく響いた。
「ありがとう七愛。大和のお兄さんの情報、見つけてくれて」
「……あ、あの、王くん……?」
本来、僕への恋を諦めさせたいのなら抱きしめるべきではない。
それでも僕は、全力でお礼を言いたいのだ。
これでもかってくらい、寝ぼけ眼がしてくれたくらい、全力で。
「それに僕のことでたくさん心配掛けちゃったもんね」
「……うん」
吐息のような七愛の髪先が、僕の耳朶を掠めた。
それが、堰を切る合図だった。
堰を切った七愛は時間を取り戻すように、子供のように嗚咽した。
その涙腺が涸れることはなく、全身の水分を絞り出すかのようにひたすらに泣き続けた。
「の、のぅ……わちは見ておっていいのかえ?」
視界の外で菫が均衡を破った。
僕と七愛が同時に声を上げて驚いて、身を離す。
「あ、菫、いや、菫さん、いや、菫ちゃん? あれ? なんて呼んだらいい?」
血潮が顔面に集い、皮膚の下で騒ぎ立てる。
いわれのない羞恥心に捕らわれ、僕は場違いなことを口走ってしまう。
「菫でいいのじゃ……しかし王雅殿、なぜ今呼び名の話を?」
「いや、ずっと敬語だったから……僕も殿とかつけずに王雅でいいよ」
「敬語? そうじゃったっけ?」
「菫ちゃんはさすが貫禄があるねえ」
やはり、おたんちんな妖怪だ。
雰囲気もへったくれもあったものではない。
いや、別にいい雰囲気とかじゃなかったけども……家族愛の延長だけれども。
「あ、そういえば聖女は!?」
「先に帰っちゃったよ。ぜひ決戦の日に相まみえることを願っています、って言ってたっ! ロマンチックな子だよねえ」
「えぇ!?」
まさか一足先に帰るとは。
僕が現実に戻ってくることがわかっていたのか?
いやいや……というか、寝ぼけ眼の中で泣いている最中に……告白に応えてくれてたよな。
深淵からでも僕は見ていた。
あれも僕が現実に戻る重要な出来事だった。
す、好きって言ってたよな。
この僕を。
……駄目だ、舞い上がるな。
現実とは未だ残酷、しみったれたクソそのものだ。
舞い上がれば道を踏み外すかもしれない、また更なる絶望に苛まれるかもしれない。
でも、好きって……七愛の前で言ってたよな。
「七愛、まさか二股の話してませんよね!?」
目の前で頬に紅を差しながら、身を捩る七愛に聞いてみる。
僕の好きな人、つまり聖女に出会ったら、二股の許可を迫ると七愛は言っていた。
これか、現実の苦悩とは。もう来るのか……?
新たなる絶望が差し迫る足音がする。
「言ったよっ?」
いとも容易く七愛は言った。
僕は空気の抜けた風船のようにへたり込む。
心臓の鼓動が強くなるが、その脈動は遥か遠い。
儚い恋だった。
「大丈夫だよ王くん。そのくらいで失望する子じゃないって、私でもすぐにわかったよ」
……真実だろうか?
恋愛脳の七愛の言うことだ、信用ならない。
いや、恋愛脳だからこそこういうのは得意分野か?
「じゃ、じゃあなんて言ってた?」
「王くんが望むなら、いいって。聖女ちゃんの世界だと、そういう人も多いんだって」
それ、異世界の貴族とか王族とかだろ……?
「もう一度はっきり言っておくけど、僕は二股しないからね?」
「私もはっきり言いますっ! 諦めないよ!」
七愛はぴしゃりとそう言うが、僕は安堵していた。
元々進める話でもなかった、停滞したままだ。
ならいい、聖女に見限られていないのなら十分だ。
「まぁ、僕じゃない違う恋人出来るまでは傍にいてよ」
「王くん以外の恋人作らないってばっ……でも、そう言ってくれるのは嬉しい」
「次は……大和に会って、話をしなきゃね」
「私たちはここで待ってるね」
「うむ、わちとて男同士の友情に水を差すほど野暮ではないのじゃ」
「私と王くんの愛のハグは邪魔したのにっ!」
ここは二人に任せて、僕はそろそろと確認する。
カーテンの隙間からは光の一つも漏れていない。
すっかりと夜になっていた。
寝ぼけ眼へは夜にもう一度来ると言っていたが、心労を掛けるのも気の毒だ。
と、僕はスマホで大和へメッセージを送る。
すぐに返信が来た、向かっている最中だったみたいだ。
僕はリビングの暖房をつけて、コーニングスさんのことを考えながら過ごした。
やがて、予兆もなく玄関の扉が金属の擦れる音と共に開き、大和が顔を出した。
「……戻ったかァ、王雅」
僕の表情を一瞥するだけで、大和は僕が戻ったのを確信しているようであった。
肩の荷を降ろすかのような表情を浮かべる彼を、僕はソファーに座らせる。
お茶を出した途端、漢らしくグッと飲み干すのであった。
「いやはや、いつもいつもご心配をお掛けして申し訳ない」
「慣れてらァ……ま、今回は本当にやべぇと思ったけどな。にしても、奴みてぇな口調じゃねぇか? 王雅の憂鬱そうな表情だけ真似してるわけじゃねぇだろうな?」
「お父さんの真似してたんだけど、やめたんだ」
「……そォかい。ンじゃ、眼鏡は?」
彼は言葉に促されるように、胸の奥に燻っていた違和感の根源を探り当てた。
思わず顔を撫でる指先に、いつもの感触がない。
眼鏡がない。
にもかかわらず、世界は薄い紗を剥がしたかのように鮮明だった。
視界の輪郭は鋭利な刃のようにくっきりと立ち上がっている。
視力が上がっている?
寝ぼけ眼か……あいつが僕の肉体に目覚めた瞬間はあまり覚えていないけれど、僕の肉体をいじったのか?
「そのアホ面、王雅で間違いねぇな。いくらなんでも真似できる面じゃねぇぜ」
「アホ面ではないけど……まぁ、帰ってきたよ」
ふン、と大和は鼻を鳴らす。
今まで何度聞いた音だろう、安心を覚えるほどに慣れ親しんだ音。
帰ってきたんだなぁ、なんてノスタルジックな気分を覚えるほどだ。
感傷に耽っていると、彼はお茶の最後の一滴をごくりと飲み干した。
僕の顔色を伺うように訝しげにも似た色を瞳に滲ませる。
「……コーニングスのことは、もう大丈夫なのか?」
コーニングスさんのこと、が先か。
本当に優しい人だな、まったくもう。
普通ならば、社長や頼成ちゃんの話とそこからお兄さんの話をしたいだろうに。
「大丈夫……じゃ、ないんだけどさ。今はとにかく悲しいんだよ、もう本当に……悲しいんだ」
コーニングスさんは僕のために死んだのかもしれない。
いや、きっとそうなんだ。
なら僕は、ありきたりだけど、その分も生きなきゃいけない。
これだって、現実に帰ってきた理由の一つだ。
「そォだよな……」
「にしても、社長や頼成ちゃんの話は衝撃だったよね」
でも、コーニングスさん……いや、他人行儀は少しだけやめよう。
アニタさんは僕に苦しんでほしくて、そうしたわけじゃない。
その想いを汲みたい、それが僕の想いだ。
だから、今は話を変えよう。
「頼成、ちゃん……? はいいかァ。オメェ、消えかけて意識なかったとかじゃねぇのか?」
「寝ぼけ眼に乗っ取られてたけど、聞いてたよ」
本当に、なんと感じていいかもわからぬ話だった。
頼成ちゃんの足のこと。
社長がそれをどう捉えたか。
戦っている最中の記憶は薄い……もうあれはほぼ僕ではなかった。
だから社長の幼少期の話などは、薄ぼんやりとしか覚えていないんだ。
なんとも言えない。
ただ、社長と頼成ちゃんが僕の家に来たのは二人で話し合った結果なのだろう。
僕から見れば、これ見よがしに過ぎる変節だし……アニタさんを殺したことは決して許さないけれど。
「ねぇ大和、頼成ちゃんの告白は……どうするの?」
「オメェまで乗っ取り魔みてぇなこと言ってンじゃねぇや!」
「だって僕、元々その話聞いてて影ながら応援してたんだよ」
「ンだその話ッ! 聞いてねぇぞ!」
社長はこの際、どうでもいい。
大和のお兄さんをどうこうしたのは許せないが……あまりにも頼成ちゃんが不憫だ。
彼女はなにも悪くない、僕も寝ぼけ眼と同意見だ。
「……わかんねぇよ、俺だって混乱してンだ」
「まぁ、そうだよね。でも落ち着いたら一度、普通に遊んでみるのはどう?」
デートでもして、お互いの膿を吐ききったほうがいいんじゃないかと僕は思う。
僕みたいに抱え続けても、こじれてゆくだけだろう。
時にはパァーっと遊んで、本音ぶつけて……そんな青春を歩む権利は二人ともにある。
「オメェにアドバイスされっとはな」
「悩んでそうな顔してたから……お節介でしたか?」
「はンッ……今さら敬語はやめろよ、元々似合ってなかったンだからよォ」
「似合っていなかった……? ふんふん……?」
僕はその言葉に、ちょこっとばかりショックを受けてしまうのであった。
「まぁ……お兄さん、可能性があって良かったよね」
「あァ、オメェも帰ってきたし、ようやく大手振って喜べるぜ」
僕はその言葉を聞いて思い立った。
彼の前へと歩いていって、拳を差し出す。
「ヘッ、カッコつけやがってよォ」
彼はそう言いながら、照れくさそうに拳を差し出した。
所謂、グータッチである。
硬くて大きな拳が僕の拳に触れ、こつんと軽妙な音を響かせた。
そうすると僕は、打ち震えるほどに感動していた。
胸の奥底で花火が上がったように、明るい気持ちが湧いた。
ようやく。
会紡機戦も最終戦まで勝ち進み、大江戸武蔵さんの生存の可能性も見えた。
捻じれに捻じれて、苦しみに苦しんで、ようやく──ここまで来た。
社会の陰謀に晒され、宗教戦争の端っこで、僕たちはここまで来られたんだ。
僕と大和から始まって、冥さんと曲夜さん、七愛と菫、工藤さんや志村さん、そして聖女。
色んな人の力を借りて、僕らも全力で戦い続けて。
「残るは最終戦だけだね」
「そォだな、ビジョンもあったしな……最終戦だけだ」
「と言っても、ぶっちゃけ勝ち目ないよね」
「……てか、寝ぼけ眼と統合したのか? 入れ替わったのか? あいつはなんかすげぇ力とかあンじゃねぇの?」
正体すらも教えてくれなった寝ぼけ眼は、当然その力がなんたるかも教えてくれなかった。
僕の正体についてもはぐらかされたし、あまり語りたくないのだろう。
そこだけは気に食わないが、あの場でなにか新しい事実を提示されれば僕は混乱しただろう。
あいつの選択は間違いではない。
「入れ替わっただけだし、別に派手な能力とかは授けてくれてないと思う」
だからこそ、まともにやり合うべきではない。
聖女。
未だに性別も年齢も顔もわからぬ、僕の恋心を受け入れてくれた彼女と戦い。
尋常ならざる力も、能力も持っている彼女。
はっきり言って、正面から戦って勝てる要素など一つもない。
聖女は僕に、戦うときは悩まないでほしいと言ってくれた。
まぁ、土台無理な話だ。
そうしたいとは思うけれど、勝てないし戦いたくもない。
でもきっと、今日から四十日後。
強制的に最終戦が始まる、その日。
僕たちは邂逅する。
「時間はあるし、たくさん作戦考えるしかないよね」
「あァ、そうだな。のんびり考えようぜ」
それから、僕たちは今までのことを振り返ってみたり、大江戸武蔵さんがどんな人か聞いたり。
夜ご飯を作っていると、七愛と菫が我慢の限界のように部屋から現れたり。
大江戸家の両親はやっぱり大和を心配していて、その愚痴だったり。
冥さんと曲夜さんにも電話をしてお礼を言ったら、ようやく七愛と行動しなくていいことに安堵されたり。
大和を車で送り届けて、その後七愛と二人でちょっと怪しい雰囲気になったり。
色んな、色んなことを話した。
なにかを名残惜しむように、色んな話をした。
たった四十日は、粛々と過ぎてゆく。
時間は待ってくれない、だからこそ追い越すように僕は考えて、修行して、遊んだりもして。
清濁が入り混じるように、良いことも嫌なこともあって。
なにか思いついたり決心すれば進んで。
大和と頼成ちゃんがいい感じの関係を築けたと聞いた時は、噛み締めるように立ち止まって。
アニタさんが胸を締め付けて、立ち戻り。
僕は生きた。
そしてある日を境に、僕と大和は会わなくなった。
未だ冷たい空気の中、雪が溶けて春の息吹が芽吹き始める。
長く続いた冬は──終わった。




