第五十五話 覚醒の眼
今この瞬間に生まれ落ちたように──僕は目覚めた。
まず最初に感じたのは、景色の色味が特殊であった。
しかし目を凝らしても、返ってくるのは酷く輪郭の溶けた白さのみ。
かろうじて、体になにかの管が伸びていることには気づいた。
次に淡白な肌触りの布に包まれているのを感じる。
生まれて初めて、感触というものを知った。
呼吸をしてみると、暖かくも舌先を突き刺すような味がした。
物質的な肉体というものを動かしてみよう、という好奇心が胸の内に湧いて出た。
「……?」
しかしながら、身動きが取れない。
全身が引き裂けるような痛みが走り、とくに頭や腕、胸部が顕著である。
感じる、というのはかくも素晴らしいことかと僕は感動した。
しかしなんだか、思考が重い。
総合的に考えると、この体は治すべきである。
動いて見て回りたい、それになんだか大切なことをたくさん忘れてしまっている。
このまま横になっていても、なにも始まらない。
そこで僕は、ひとまず肉体を調整することにした。
視界はくっきりと映り、鋭い痛みは鳴りを潜め、思考も少しばかり明瞭となった。
存在構造がなにやら特殊だったが、問題はない。
僕は体中から管を抜いて、起き上がる。
窓辺へ身を寄せてみた。
澄んだ青空の下には地面や木々。
そしてなにやら重そうで複雑怪奇な箱のようなものがいくつも見える。
あれは車というものだろう。
とすると、ここは科学寄りに発展した世界であるのだろうか?
しかし発展途上だ、未だ重力に縛られていてアナログが抜けきっていない。
雰囲気が似ている世界はいくらでも思い当たるが、どれとも断定できない。
しかし肉体調整では改善しきれないくらい体が重い、僕は体感するのが初めてだから例える術は持ち合わせていないけれど……。
敢えて例えるとすれば、隕石のように全身が沈むほど重い。
そう、もっとも致命的なのは命線数の少なさ。
開力量も増えてゆかず、すなわち肉体や精神や魂との繋がりが希薄になる。
これでは個として確立、世界との融和も難しい。
よし、と内心で頷いて操作すると容易く増やせた。
次は……踵を返して扉を開けてみた。
すると、きょとんした表情の人間が目の前に立っているではないか。
わぁ、人間と顔を合わせたのは初めてだなあ。
なんだかとってもワクワクするなぁ。
「王くん──!? なんで歩いてるのっ!?」
丹念に描かれたかわいらしい顔に、丸い瞳。
どことなく懐かしい、森を想起させるような衣服。
重力に逆らうほどに大きく出っ張った、暴力的な胸部の脂肪。
これは所謂、女の子という存在だろう。
甘い甘い香りが鼻腔を擽り、とてもいい気分である。
「だめだよっ! 四日も意識不明だったんだから、寝てなきゃ……!」
「──……」
「先生呼んでくるからっ!」
そう言って、女の子は走り去ってしまった。
挨拶をしようと空気を吐き出そうとしたのだが、砂漠のように口が渇いていて上手く言葉が喋れなかった。
しかし彼女の言語でわかった──ここは恐らく、枝世界だ。
通常、世界はそう簡単に分岐しないが、この世界は取るに足らないことで分岐し続ける。
ある人がどちらの足で踏みだしたか、そんなことすらで分岐する世界。
無尽蔵に、無限に。
といっても、僕のような存在や一部の例外は分岐先にはいないのだけれど。
居場所は理解できた。
さてさて、ともあれ、閑話休題。
無意識に僕は言語的な思考をしていて、それは日本語である。
現在地は枝世界の一部の日本国なのだろう。
とすれば、ここは病院という施設なのだろう。
肉体が怪我をしていたことからも間違いはない。
この体を先刻まで動かしていた者の記憶は薄いが、そのうち思い出せるかもしれない。
とにかく僕は、楽しげにしている人たちが見たかった。
病院という場ではそれは叶わないだろうと考え、僕は通路を歩んでみる。
開いている扉からは、先ほどまでいた個室と酷似しながらも別の人が寝ていた。
開いていない扉もいくつもある。
やけに足の裏が冷たく、僕は裸足であった。
それもまたなんだか楽しくて、夢中で僕は歩き続けた。
「ん。んん……日本語だと、こんにちは。こんにちは」
お喋りする練習も欠かしてはならない。
そう考えて、宙に挨拶をしてみた。
心地よく低い声が骨身を伝わる。
そして僕は気づいた、股間がなにやら重いことに。
「おお、僕は男の子なんだ!」
意外にもこの肉体は男の子を形作っていた。
先ほどの女の子に、王くんと呼ばれたのも納得である。
くんとは、男性に向けた敬称であることが多いはずだ。
開力を巡らせ、体を軽くしながら僕はスキップする。
階段もペタペタと降りて、歩き続けていると広間に出た。
多くの人間たちがいる。
フェイスベールのような白い布、マスクか。
それを顔に掛け、防寒具に身を包んだ人たちだ。
誰もかれも幸せそうではない。
僕は悲しい気持ちになりながら、自動玄関から外へ出た。
「寒い」
足の裏には突き刺すような冷たさがあった。
表皮を撫でる風も、空間が凍り付いているのではないかと思えるほどだ。
白く切ない雪を踏み付けて、僕は走った。
足をバタバタとはためかせ、駐車場を抜ける。
走るのって結構難しいものなんだなぁ?
幸せそうな人、楽しそうな人。
どこにいるのだろうか。
考えてみても思いつかないので、ただ走り続けた。
すると、鼻がムズムズとしてクシャミをした。
同時に股間からなにかが込み上げるが、対処法もわからず走っていると、じんわりと暖かな液体が足を駆けた。
「ああ、尿だ」
これは汚いものだったはずだ。
しょうがないので、僕はズボンとパンツを下ろした。
向かいから、お婆ちゃんが腰を曲げて歩いてきた。
近づくにつれて、その顔は怪訝な表情へとなってゆく。
怯えた表情のまま、僕の顔や下半身を見て小さな悲鳴を上げた。
ああ、裸は見られてはいけないからみんな服を着ていたんだ。
汚れたズボンを履くというのも、汚いからよくない。
下半身を出すのも、怯えさせてしまうのでよくない。
となれば、八方ふさがりである。
ともすれば、ズボンを確保するしかないだろう。
どこで?
購入するのだろうか?
しかし人間社会の通貨は持ち合わせていない。
なにか対処法が喉まで出かけているのだが……思い出せない。
アプローチを変えよう、この前の肉体を動かしていた者──仮に前の人と呼ぶが。
前の人は居住空間、つまり我が家というものがあったはずだ。
そこには人間的な生活様式に則り、ズボンがあるのではないだろうか。
しかし諦めるわけにはいかない。
悲しそうな、あるいは辛そうな人間だけを見ると胸が苦しい。
だって、それはみんな僕のせいな気がするのだから。
すると、一台の黒塗りの車が隣に停まった。
おお、親切な人なのだろうか?
回転するような機械音を上げ、厚いガラスが下った。
それは黒いスーツ姿の男性であった。
日本人の特徴からは少し離れた、髪の毛のない男だ。
「初めまして」
車に乗ったままの男性にそう言われた。
外に出てから感じていた視線の正体、その一つだろう。
「初めまして、こんにちは、よろしく!」
僕は初めての挨拶を上手にこなした。
「なぜ下半身を露出しているんですか?」
「おしっこをしたら、ズボンが汚れちゃったよ。時に僕のお家は知っている?」
初対面でありながら僕を知っているような奇妙な男に尋ねる。
「もちろんです、乗っていきますか?」
「お願いする、ありがとう。親切な人だね」
車だ。
車に今、僕は乗ろうとしている。
これは多くの場合人間が発明した、馬に変わる乗り物だ。
冷たい取っ手に手を掛けると、漆のような光沢感のある座席に僕はぺたりとお尻をつけた。
「助手席……? あ、失礼。申し遅れました、異空間体調査管理財団のピエールです」
「異空間体調査管理財団? 長いね、組織名かな?」
「エダーク財団です、ご存知でしょう?」
僕の無理解を前提とせず、彼は全てを織り込み済みの事実として言い放った。
前の人が所属していた組織なのだろうか?
車が走り始める。
雪道に揺れ、お尻から振動が伝わって楽しい。
「コーニングスの件は残念でした……」
男は眉を落として、泣き出しそうな顔をする。
同じように僕の中の深淵で、その名を持ち出された瞬間になにかが震え泣いた。
呻くように、怒るように、後悔するように、絶望するように、絶叫するように慟哭していた。
僕の頬に涙が伝う。
余波が肉体まで届いたのだ。
「財団内でも人望だけはある奴でしてね、みんな悲しみましたよ。しかしコーニングスの要望通り、戦いを降りた際もあなた方の命は保証されることになりました。あいつも、天国で安心してくれたらいいんですがね……」
「戦い? こんな平和な世界の国で?」
そう言いながらも、今にも泣きだしそうなピエールがかわいそうになった。
僕は手を伸ばして頭を撫でてみた。
「……!?」
ピエールは驚いているようであった。
僕では安心させられないらしい、難しいものだ。
体を前後に揺らして、なにか方法はないものかと考える。
そうだなあ、と頭を揺らした。
ああ、これはどうだろう?
「──かわいそうにかわいそうに」
と慰めてみたものの、ピエールの目は複雑怪奇に彩られる。
悲しみと恐怖。驚愕と動揺。
だってこっちも泣いているのだから、それはそれは驚いてしまうか。
「全部僕が悪いんだ、なにもかも僕が悪いんだよ。でもなんともしてあげられないみたい。ごめんね」
そう言ってみるが、彼は口を開くことなく車を走らせ続けた。
僕は実に無力なのであった。
そうして、結局彼を笑顔にできることもなく家の敷地内に入った。
広大な家だ。
和風建築の、例えるなら道場の多くはこうした建物であった。
だがそうしたものとの違いもあって、材質の度合いからは真新しさも見て取れた。
「最後に一つ教えてください、私はあなたの監視もしていたが……あまりに普段と様子が違います。なにかあったんですか? やはりコーニングスのことで……?」
男は神妙な面持ちのまま、僕に問いを投げた。
普段と様子が違うというのはとても当たり前のことだ。
僕はにっこりと微笑んで答えることにした。
「僕はこの体の人ではないんだ」
それだけ言い残して車を降り、家へと歩みを進める。
僕の知識にもない、世にも珍しい三重扉を潜る。
リビングルームが飛び出した。
そこは、しんと静まり返っていてさながら時の止まった空間でもあった。
生活感もあまりなく、綺麗に整えられている。
キッチンだけは使用感があるが、あまりここで活動をしている形跡はないのであった。
不思議と体は覚えているものなのかもしれない。
そう思うほどスムーズに僕は一つの扉を開いた。
ここを主要に使っていたのだと、すぐにわかる部屋。
いくつもの容器が乱雑に置かれた洗面台。
埃の被ったゴム製のドラム、その上には不可思議な機器が置かれていた。
別の世界でも見たことのある形状……VRデバイスというものだろうか。
ドラムの横には二枚のモニターとパソコンが置いてある。
そこだけが異常なほど散らかっていた。
パソコンの上にはティッシュケースと正方形の面によって色の違う玩具のようなもの。
ルーターがパッパッと青白い光を点滅させ、僕を注目させる。
ベッド、山積みの箱、壁に掛けられた賞状、締め切って光を通さぬカーテン……認識が億劫になるほど、とにかく物が多い。
とにかく、ここで生活をしていたのは間違いないと思えた。
それほど興味と無関心が色濃くわかる自室であった。
ハンガーラックは一歩も動かずに手に届く位置にある。
そこには乱雑に衣服が積み上げられており、ズボンもある。
でも僕は、唖然としたように──あるいは魅了されたように身動きが取れなくなった。
これが……人の営みなんだ。
一個人はこれほどに複雑で、重みのある存在なのだ。
運命である時間はそれでも流れ続ける。
世界である空間はそれでも在り続ける。
そして僕は立ち尽くす。
嗚呼、どれだけそうしていただろう。
三重扉が開きゆく音が僕を引き戻した。
どたばたと忙しない足音が迫って、僕はその人へ向いた。
「王くんっ! どうしてお家にいるのっ!? あっ、お着換え中だったあ!?」
病院で出会った女の子だ。
彼女は轟々と早口でまくし立て、頬を紅へ染め背を見せた。
そうだったのである。僕はズボンをまだ履いていなかったのである。
僕はズボンを手にとって、いやいやと首を振った。
先にパンツだ。と、それらに足を通す。
「パンツとズボンを履いたよ。これはとても履き心地がいいね」
そう言うと、女の子は振り返った。
濁った言葉を零しながらも。
その表情は先ほどのピエールよりも深刻そうであった。
一瞬怪訝な表情を見せたかと思うと、すぐに絶望したように目から光が失われてゆく──。
「王くん……じゃない……っ」
王くん。
前の人の名前だろうか。
くん、とはすなわち男性向けの敬称であることが多く、それは名前のはずである。
「ねえ、私、愛屋敷七愛だよ……! わかる……っ!?」
愛屋敷七愛と名乗った女の子は縋るように質問をする。
ああ、みんなみんな悲しそうだ。
なぜこの世界はこんなに悲しそうな、苦しそうな人ばかりなのだろうか。
「ごめんね、僕は君の言う、王くんではないんだ。だからわからないよ」
引き裂かれるような痛みが胸に走る。
ああ、きっとこれが王くんなのだろう。
愛屋敷七愛を傷つけるなと、敵意が滲んでいる。
きっと前の人である王くんなる人物は、愛屋敷七愛に対して家族愛のようなものを抱いている。
それはとっても、とっても、とっても悲しいことだ。
「う、うう……っ!」
涙を流し愛屋敷七愛は崩れ落ちた。
その背中が膨らむように跳ねると、抑え切れないように嘔吐した。
僕が肩に手を伸ばす。
「触らないでっ!」
そう言われ手を跳ね除けられた。
誰もかれも、かわいそうで仕方がない。
そして前の人がなによりもかわいそうだ。
愛は素晴らしい、なのに苦悩ばかりが渦巻いている。
悲しみと苦しみにばかり囲まれていたのだろうと、予想がついてしまう。
「返して、王くんを返して……お願い……返して……」
どうやら彼女も前の人を愛しているらしい。
相思相愛であって、僕は仇なようだ。
なにをしてあげられるかを考えて、僕は洗面台に向かって歩む。
鏡を覗き込んでみた。
「なるほどね──」
この顔を見て、僕は合点がいった。
そう──僕は使命だけを思い出した。
似ている、酷似している。
しかし少しばかり違う。
この顔には見覚えがある。
僕はこの顔と瓜二つの彼に用がある。
思い出さなければ。
僕がなんたるかを。
そしてこの胸の内で泣き続ける、彼がなんたるかを。




