第五十四話 失楽園
隅っこで横たわり丸まる僕。
衝撃によって肺の中を全て叩き出し、だというのに爆炎が触手のように鼻や口から入り込み、息を吸い込むことを許されない。
呼吸をする暇もなく、腕や足にいくつもの石がめり込むような鈍い痛みだけが残る。
「これでエダーク財団の目もなくなった。こうも上手くいくものか!」
脳の中心から劈くような耳鳴りが止まない中、微かにその声が聞こえた。
無門を発動できていなければ、腕も足も吹き飛んでいた。
そうすぐに思わせるほどの熱気と衝撃に襲われた。
こ、コーニングスさんは……。
腕を僅かに開き、その隙間から僕は覗きこんだ。
単に黒い煙。
煙の中微かに輪郭を表す光景の中で、扉は吹き飛んでいる。
乱雑に捥ぎ取ったように足場も壁のコンクリも崩れている。
内部の鉄骨が露出し、ここだけが廃墟のようになっていた。
コーニングスさんの姿がどこにもない。
どこにも、ない。
指一つ、塵一つ、ない。
乾いた炭の面を覗き込むように、ただ黒い。
「王雅ァ、コーニングスッ! 返事しろ!」
「余所見していられるのか!?」
遠くで爆発音が聞こえる。
身を捩るようにコーニングスさんがいた場所に向かう僕へ、さらなる衝撃波が臓腑を叩く。
きっと、扉があった場所の向こう、通路にいるんだ。
怪我をしているかもしれない、大和さんを連れ出して一旦逃げないと。
砂のように砕けたコンクリが掌に貼りつくたび、熱で指先が焼けていくようであった。
通路の奥には、誰もいなかった。
じゃあ、じゃあどこにいるんだ?
……?
あ──?
だって、僕はまだ信じていない。
コーニングスさんを信じていない。
だから死んでいるはずがない。
立ち上がろうとすると、力が入らずによろめいて倒れる。
もう一度立ち上がると、突然涙が噴き出してきた。
彼女は死んでいないのに、どうして泣く必要があるのか。
だって、そんな。
僕はまだ信じていないのだから、彼女は信用に値すると証明するまで生きていなければいけない。
死ぬことで、証明するなんて、そんなことは……。
そんなことはあっちゃいけない、だから生きてなきゃいけない。
爆発音が何度も木霊する。
死んだ。死んだ。死。死。
そういっている声に聞こえる。
その度に僕を打ちのめす。
頼んでない。
疑わせていてほしかった。
生きていてほしかった、死んでほしいなんて思っていない。
自分の命を捨てて庇ったって、そういうのか?
全部、全部本当だったって、僕はそれを突っ撥ね続けて、なら傷つけ続けたのに、そんな僕を庇って死んだって。
そんな、嘘の話だ。
嘘なんだ、なにもかも。この世界は紛い物だ、だからこうも残酷なことが出来る。
嘘だから、悪夢なんだ。夢から覚めればいいんだ、全部嘘だから消えてなくなるんだ。
コーニングスさんは財団の特務エージェントだ、だから僕を騙しているんだ、まだそれが続くんだ。
夢から覚めたら少しは信じてみよう、これは啓示だ。嘘をついていないという啓示の悪夢だ。
ああ、でも、嘘じゃないんだ。
全部本当なんだ。
コーニングスさんは、僕を庇って、死んだんだ。
僕の足は向かっていた。
変幻たる欲望に身を包んだ男へ。
虫の羽音のような音をはためかせ、腕からガトリング砲を生やして大和さんに乱射している。
だって、それは、お前のものじゃないだろう。
なのに、その力でコーニングスさんを殺した?
──悲しい。
怒りを冷たい悲しみが覆う。
ちっとも頭が熱くない。苦しいほどに悲しい、全身が締め付けられるように悲しい。
「王雅ッ……!?」
「生きていたか……残念だ」
頭で後悔と罪悪感が漂う。
僕はなんてことをしてしまったのだろう。
信じてあげればよかったのに、あるいはちゃんと嫌われておけば僕のために死ぬことなんてなかったかもしれないのに。
盛り上がったままの肩部からまたミサイル発射された。
僕は柱のような機械に滑り込んで、熱気に包まれる。
七愛の言葉が、不意に脳裏で弾けた。
コーニングスさんは、本当に僕のことが好きだったというのか?
もしそうなら、こんな悲しいことがあるのか?
そんな風に死ななきゃいけない人がいるのか?
両手に崩色が集い、開力を塗りつぶしていく。
いつもの暖かさは熱気に紛れて手に伝わらない。
「どうしてこんなことを……」
思ってもいないのに、口が動いた。
まるで縫い付けられた糸を引かれ、操られているようであった。
「金だ──!」
せめて……大和さんだけは……。
と、感情から発せられた内なる声だというのに、それはいとも容易く感情の蓋を閉じた。
「王雅、無事か!? 一旦下がれッ!」
変幻たる欲望は右腕を鋭利に尖らせ、叫びながら進む大和さんと接近戦へ突入した。
要所要所でこちらに視線を向けながら、刃を振るう。
大和さんは歯を噛み締めた表情で、それを避けた。
「陳腐だと笑うがいい、裕福な家庭に生まれた君たちには所詮、わからないことだ──!」
風を斬る鋭利な音が何度も何度も大和さんに迫る。
彼の服は引き裂け、血が舞い、それでも避けるのに精一杯かのように手を出せずにいる。
左右で意識がバラバラなように、左腕のガトリング砲がこちらを補足した。
ゆるやかに回転し始め、徐々に速度を増してゆき。
羽音。
弾丸はこちらに向かって再発射された。
無門が内側から肉体を操り突き動かすように走る。
「フケと呼ばれ蔑まれたことはあるか?」
弾丸の雨を僕を追い越して、そこに追いつく。
目の前では弾丸で引き裂かれた野太いケーブルが火花を散らせながら、振り子のように揺れる。
「教師が鼻をつまんで、クラスメイトが花瓶を水をかけてきても笑っていたことは?」
「小物がァ! 黙れぇッ!」
大和さんは迫る腕を挟み込むように脇で挟み込み、ヘルメットへ拳を叩き込む。
二発、三発と拳を入れても、微動だにしない。
「想いがどうだとか言ってられる青臭い君たちが羨ましい」
鎧はガトリング砲だったものを装甲で吸い取るように収める。
「選ばれた戦士でいられる君たちが羨ましい」
そして、自由になった右腕で大和さんを殴り飛ばした。
軽い人形が吹き飛ぶように、大和さんはパソコンを乗せた棚に叩きつけられる。
視線を切って、変幻たる欲望へ走る。
崩衝を構えて、左腕から振るわれた横薙ぎの刃を腰を屈めて躱す。
「だが、私からすれば君らのほうが──」
すれ違うように腹に手を置こうとした刹那、半歩ステップを踏み、手が宙を押し進める。
目の前で錆色の装甲がうねる。
「──よっぽど陳腐で下らないんだ!」
硬い感触が、無門の防御を突き破って横っ腹に沈んでいく。
体が真っ二つに折れ曲がりそうな感覚に景色が飛ぶ。
「っぶねぇ!」
受け止めるように大和さんが支えた。
「なんで泣いて──まさかコーニングスが……!?」
左右での挟撃を狙って、右へ回り込む。
「待てッ!」
大和さんは左に行くはずが、唖然と立ち止まっていた。
そのまま地面にあるコードに足を掛けて、蹴るように向かう。
「社会がなんたるかも知らぬ子供が、随分と一丁前に振舞っていたな──!」
刃が顔へ差し迫る。
頬が一瞬、ゴムのように伸びて──引き裂けた。
そのまま耳まで突き抜けた刃を辿って、さらに肉薄する。
神経を束ねてペンチで断ち切ったような痛み。
崩衝を纏った両手を胸に押し当てる。
「……狂ったか長内!」
汗に濡れた首を掴まれる寸前、大和さんが勢い任せに変幻たる欲望へ突進した。
全身を叩きつける大和さんに対し、鎧は鉄壁に激突したが如く微動だにしなかった。
無門によって激流と化した開力を掌へ向けて一気に噴出させ、同時に周囲の崩色を取り込んでいった。
崩力となった奔流を片っ端から胸の装甲へ注ぎこんでゆく。
しかし変幻たる欲望は意に介さぬように、その手を伸ばして腕を掴んでくる。
時の理を掴んだような素早さであった。
大和さんが遅れて衝撃に顔を歪めながらも、密着したまま少ない隙間を縫うように身を捻って拳を腹部に叩き込む。
飛沫のような血が頬に付着する。
「ぐッ!」
割れたのは、大和さんの拳であった。
視界が横転する。
天と地が転がるようにひっくり返り、腕を掴む鎧の掌から皮膚を突き破る針が伸びた。
無数のそれは四方八方から腕の内部を貫く。
「王衣の前では今までの努力も全て無駄だったな! 赤子とさして変わらんよ!」
凄まじい勢いで迫り来る地面に叩きつけられた。
鼻が折れ曲がり、溺れるほどの熱い血が噴き出す。
粘ついた血がタイルを汚す。
使い物にならなくなった右腕は無視し、左手で立ち上がろうとすると払うように頭を蹴られた。
ひっくり返った虫のように地面を転がった視界の隅。
傍らにいた大和さんが、胸を貫かれているのが映った。
ゲノム強化剤の効果で致命傷にはならない。
嘔吐くように体勢を立て直す。
大和の襟を掴んで引っこ抜くように力任せに引き寄せ、後方へ叩きつけるように送り出した。
その悲鳴は──長内王雅には届いていなかった。
王雅は半ば自己を捨てていた。
強烈な感情に呑まれれば、結果的に大和までもを失う、と思い込んでいた。
最初はただ感情を排しただけであった。
しかしそれは完全すぎた。
意志を明け渡すことにも似ている危険な橋渡りから、王雅は滑り落ちた。
すでに王雅の耳には誰の声も届かない。
自我をほぼ失い、肉体の反射だけが残っている。
それでも半分だけ残った本能に似た力が内部から肉体を動かした。
左腕が伸びる。変幻たる欲望の胸にもう一度触れた。
しつこいくらいに流された崩力が、ようやく装甲を溶かし始めた。
通常ならすでに完全崩壊していてもおかしくないほどの量で、ようやく。
王雅の頬を伝う、止め処なく溢れ続けた涙のように──ほんの僅かに、装甲は液体となり地面へ滴り落ちた。
戦いとなってからも、無意識に涙は流れ続けていた。
王雅はそれを煩わしいと感じることすら捨てたがゆえに、ついぞ気付くことはなかったのであった。
変幻たる欲望を身に纏った男は、身を引いて王雅の胸を斬り裂く。
痛覚すらも壊れ、もはや肉体はなにも感じていない。
かろうじて意識を残して倒れた王雅からは、大和の足が見えた。
「無駄だと言うのがまだわからないのか? 愚かにもほどがある……!」
「兄貴を、コーニングスを……テメェは殺したッ! 王雅まで傷つけやがって、テメェだけはァ──!」
少しだけ、王雅は顔を上げた。
大和は血で染め上げられた拳で、王雅が空けた装甲の穴に手を突っ込んだ。
装甲は変幻に針のような形を取って、噛み付くように大和の腕を刺す。
変幻たる欲望の男が殴ろうと、蹴ろうと、突き刺そうと、大和は決してそこから手を離すことはなかった。
大和の全身が流れた血が混ざろうと、装甲を引き剥がそうと食らいつく。
しかし、一向に剥がれる気配はなかった。
それを諦めたように、大和は腕を入れた。
鎧の内部でなにが起こっているのか、それは窺い知れない。
だが男の悲鳴が研究所内に満ち満ちてゆく──ダメージがあったのだ。
同様に大和の腕は、無数に噛み付いていた刃に肉を割かれていた。
世界が赤いのではないかとすら思えるほどの血。
王雅から見える景色にはもう、赤き血しかなかった。
「やめて──!」
そんな中、場違いに甲高い声が響いた。
視線がゆっくりと、そこへ動く。
砕けた階段はすでに階段ではなく、単なる段差であった。
そこから落ち、両足を失う少女。
──頼成蘭世、王雅の記憶にはその名が残っている。
失ったかと思われた足は、義足であった。
王雅が過去何度も、特徴的な小走りだと評していた理由はそれであった。
「蘭世──!?」
「頼成ッ! なんでオメェがここにいンだよッ!」
二人の声は悲痛にも似ている。
蘭世は這いつくばりながらも、ここに向かってきていた。
「お願い、やめて、大江戸くんも……パパも──!」
震える声が告げる。
「全部私のせいなの、だからもうやめて! 大江戸くんごめんなさい、長内さんごめんなさい──殺すなら私を殺してください!」
そう告げる。
「……テメェは、父親でありながら兄貴やコーニングスを殺したっつうのかッ!?」
蘭世の父親は、鎧に閉じこもったままなに一つ答えなかった。
「私が悪いんです、お願いします、お願いします──! ねえ、パパなんでしょ!?」
助けを請うように、自らの命を差し出そうとする蘭世に、ようやく変幻たる欲望は一人の男の姿へと戻った。
「ちげぇ、コイツの名は飛谷隼人だ、そんなワケがねぇんだ! その鎧が見せてる幻かなんかだろうがァ!」
決して認めようとはしない大和に、蘭世が滲み寄る。
「来るな蘭世……!」
「パパなの、本当なんです……! お願いします……!」
体を引きずる音。すすり泣く音。
それが混ざる。
混ざった血だまりを震わせることもなく。
「パパ、私のためなんでしょ、全部……全部言って!」
「……違う、私は!」
「嘘はやめて、大江戸くんも長内さんも傷つけて、嘘までつかないでっ!」
この場の全ては混ざっていた。
未だ眠りながらも王雅の肉体を支える、寝ぼけ眼の残滓。
それと溶け合い、混ざって保たれているだけの意識。
どちらの自我でもない意識。
「私は、もっと改良したゲノム強化剤が必要なんだ! そのためにはエレインコーポを買収する必要がある! 金だ、金がいるんだ──偽りなどない!」
ついに隼人は言葉を漏らした。
「わけわからないよ……! 私の、足を……治すために、そんなこと、してほしくないよ……!」
「──それでも、コイツは許せねぇ!」
その大和の言葉に。
ほんの少し、僕に比重が傾いた。
残された時間は僅かだろう。
もうそれはわかっている。
一言だけ、そこに全部賭けるしかない。
「大和さん、駄目です……殺しては……!」
「お、王雅、それ以上喋るな! 死ぬぞ……!」
この世界は腐ってるし、狂っている。
理不尽だ、あまりにも理不尽だ。
ここまで残酷だなんて思わなかった。
なんで社長のような奴の身にだけこんな奇跡が起きて、僕たちの身には起こらないんだ。
その怒りで僕は消える。
それでも。
大和さんのこれからを思うと、それでも殺してほしくなかった。
頼成さんに罪なんてない、願わくば二人は幸せになってほしい。
聖女さんには殺せといい、大和さんには殺すなという。
二枚舌だから僕は消える。
それが決定的に、慈悲深い寝ぼけ眼から溢れる想いと一致してしまった。
呑まれるから僕は消える。
口裂け女は倒した、そこになにも感じやしなかった。
聖女さんに告白もした、それだけなのに幸福だった。
この先は離別するだけだと思うと寂しい、ただ寂しい。
大江戸武蔵さんは死んでいた、虚無しかない。
目的を果たしてしまったから僕は消える。
七愛はきっと、辛い目にあってしまう。
でも僕にはもう支えてあげることができない。
だって……コーニングスさんが死んでしまった。
向かう先もコーニングスさんやお父さんが待つ天国ではない、ただ自我が消失するのだ。
絶望したから僕は消える。
僕の未来にはもうなにも残されていない。
見開く、覚醒した寝ぼけ眼の中へ。
長内王雅が──消えた。




