第三十八節 プロローグ
寝ぼけ眼。
僕以外に知る人のいなかったはずの言葉。
大和さんにはぼんやりと伝えたことはあるが、その名前は出したことがなかった。
僕を苦しめ続けた、根源的な恐怖の象徴。
初めて他人の口からそれを聞いた。
「ね、寝ぼけ眼の正体……知ってるんですか……?」
揺れ動く、ビルが捻じれる。
そんな感覚を覚えてしまって、平衡感覚がなくなる。
それほど僕にとっては衝撃だった。
「正体まではわからないが、先ほど言ったように呪神教の呪術師、その全ては己を完璧な存在へとすることが目的だ。言わば究極の自己完結だ」
彼の目は、僕を見ている。
僕の奥に眠る寝ぼけ眼ではない、この僕を。
「貴様はまるで完璧ではないが、長内王雅という自己を追い続けている……寝ぼけ眼なんていう他者の意識が中にあっては完璧になれないだろう?」
「……」
他者の意識、そこまで、そこまでわかるのか……。
「ハッキリ言おう──長内王雅は紛い物だ」
ああ、きっと、そうなんだろうな。
僕だってそう思うことがあった。
でも、断言されると受け止めきれない。
「貴様が黄昏世界と呼ぶ世界の裏側、我々神世界の者はそれを幻世界と呼んでいる。あれらは幻なんだよ、長内王雅」
じゃあ、そこで生まれた僕は幻だ、なんていうのか?
「しかし幻世界は成長しないはずだ、その幻を生み出した人が成長することを考慮しないはずだからな。例えば貴様が知る河童という妖怪、それが生まれ出り、赤ん坊から成体へと成長していくことを夢想するか?」
しない……見たまま、聞いたままの姿しか考えない。
妖怪と聞けば、あの緑色の肌に鱗かきに甲羅を背負って頭に皿がある、僕と同じ身長くらいのあいつらしか想像しない。
逆に僕は赤ん坊から、十九歳へ肉体的に成長している。
「あなたは僕を幻だと言ってるんですか、それとも幻世界に捨てられたただの人だと言ってるんですか? 大体誰の空想だと言うんです……」
これ以上聞いたらおかしくなる。
吐き気が込み上げてくる、なのに出るものは言葉だ。
胃の底をかき混ぜられるような不快感とともに、言葉だけが溢れ出る。
「どちらもありえる可能性だ。幻生には見える者と見えない者がいる、己の魂を見て取れた者には視認できるようになる」
幻生、妖怪や吸血鬼の総称……のはずだ。
僕にもその可能性があるというのは、黄昏世界……いや、幻世界で誰かの空想によって生まれてきた可能性。
「生まれながらに見える者、その一握りのさらに一握り……きわめて稀に、幻生を生み出せる者もいる。あるいは大衆の幻想かどちらによって生まれるのが幻生だ」
「……僕がどっちだか、本当にわからないんですか?」
「それはいいだろう、問題はそこではない。そこから生じてはいるがな」
彼は言う、表情を一切変えないままに。
どうでもいいと切り捨てているようだ。
「貴様は幻世界の出自を持ち、どちらだかわからない。そして生まれた時から寝ぼけ眼という他者の意識が根付いている……そこで貴様は、何者かになりたいと無自覚に思い、父を真似た」
ああ、やめてくれ。
それは駄目だ、それは……。
「父親の口調、長内礼司に貴様はなろうとした。それでもなれなかった、当たり前だろう。貴様は長内王雅なのだから」
どくんどくんどくん、と力強く鼓動が脈を打つ。
僕は、違う、お父さんになろうと思ってたんじゃない。
敬語なのは、だってお父さんがそうだったから、一緒に暮らしてたんだ、自然とだ、自然となんだよ!
「それ以降には記憶の綻びが見られるが……貴様は何者かになろうとしている。矛盾しているようだが、本質的には長内王雅になろうとしているだけの何者でもない存在だ」
「だま、ってください……」
「だからこそ、我々と同じ道を歩むべきなのだ」
彼がそこまで言うと、車が通った。
通ったというか、真横で止まった。
コーニングスさんの車だ、そこから大和さんと彼女は降りてくる。
「この間の……王雅ァ! 無事か!?」
「お、長内……!」
二人が僕の側に駆け寄ろうとする。
僕はそれを手を掲げ静止させる。
駄目だ、今は、聞いてはならぬこの話を、聞かなきゃいけない……。
「見ろ長内王雅、奴らが貴様の敵だよ」
「は、え……大和さんが……? いや、いや……」
奴ら。
たしかにこいつはそう言った。
コーニングスさんはまだわかる、どっちかっていうと呪神教のこいつ寄りだ。
でも大和さんは敵じゃない。
「なぁ、貴様らの世界は随分と歪だと思わないか?」
「あァ!? テメェ、なに言ってンださっきから……!」
「暴力を否定しながら、核という暴力装置の元に秩序を築いているだけではないか」
か、核……?
なんの話……?
「核の恐怖で外交が成り立っている、いわば暴力を恐れてだ。なぜ平和ボケしているくせに核を放棄しない? 他者が信用できないからだろう?」
核がどうこうって、わからないよそんな話。
急になんなんだよ。
「だがそこで生きる貴様らは暴力を否定する。誰かに暴力を振るわれないためにだ……それが群れを成して秩序だっている。実に歪な秩序だ、そうじゃないか?」
そこから生じた倫理、それに効果はあるけど……って話か?
僕の悩みの一つに通じてるというのか? 核ミサイルとかが?
「この男、長内王雅は随分とそれで悩んでいたようだ。自分が間違っていると思いながらも突き進むほどに悩んでいた……いいか? この世界に生きるのならば、それが正しい姿と言えよう。しかし長内王雅には向いていない」
「テメェが王雅を語るンじゃねぇ……!」
大和さんは握り拳を作って、震える。
「俺ならば用意できる、長内王雅が悩まず自己を確立できる居場所を。そして大江戸大和、貴様こそが問題なのだ」
「俺が、問題だァ!? 抜かしてっとブン殴るぞテメェ!」
呪術師であろう男は薄ら笑いを浮かべて、大和さんを指差す。
「貴様してきたことはなんだ? 長内王雅が困れば答えを提示し、だというのに貴様は長内王雅に答えを求めない。こいつは俺がどうにかしないと壊れてしまう、そう考え続けてきただろう」
「なッ……」
大和さんは言い淀む。
こいつは……そうか、あの時大和さんにも触れていた。
記憶を盗み見る技を大和さんにも使っていたのか。
「長内王雅が成長し、あるいは自分で答えを出すための力を奪い続けてきたのは他でもない。貴様だよ大江戸大和」
「お、俺が……?」
大和さんは目を見開いて、僕を見る。
その後ろにいるコーニングスさんも、似たような表情をしている。
「だから長内王雅は成長できない、いつまでも自立できない、貴様に依存するばかりでそこから脱却しようとしても押し込められる……貴様がそう仕向けている、本質的に長内王雅を信じてはいないからな」
「ち、ちげぇ……俺は王雅を」
「信じていないだろう? 長内王雅がどれだけ出来るか、どうすれば成長できるかなど考えもせず場当たり的に依存させただけだ」
ああ……?
「だから、貴様こそが彼にとって最大の敵なのだ」
「……」
大和さんは、絶句してしまった。
なにも言い返そうとしない、視線が泳いでいる。
「あなた、いくらなんでも言いすぎよ! この二人には二人なりのやり方があるんだから!」
「黙れアニタ・コーニングス。貴様の話は聞いていない、次喋れば殺す。貴様とてやっていることは大江戸大和と同じだ」
呪神教の男はそう言って顎を上げ、冷たい視線をコーニングスさんに突き刺した。
本気で、やる気だ。
でも、僕の答えはもう決まった。
「本当に呪神教に入れば、僕は長内王雅になれて、テンスさんの命も奪わないんですね……?」
「約束しよう」
男は間髪入れずに答えた。
こいつの約束なんて、信じるに値しないかもしれないが……。
でも。
「宗教勧誘にしてはお粗末じゃないですか?」
「どこがだ?」
「大和さんを否定したら、僕が誘いに乗るわけないじゃないですか……あなたは、間違ってますよ」
「どこが間違っているか、説明できるというのか?」
男はこの瞬間から、なんだか楽しそうな表情を浮かべた。
まるで独りぼっちの世界を生きてきて、ようやく友達が出来たような純粋な表情に。
いつの間にか降ってきた雪、その中で遊ぶ子供のようだ。
「正しいとか間違ってるとか、核がどうとか……あなたは人の想いを軽視しすぎています。それでも、それでも大和さんは僕を心配したんです!」
答えなんて、この世界のどこにあるというのだ。
答えがあるなら人は迷わない、それに従う機械でいい。
テンスさんはそれがわかっていた、僕は大和さんに依存しているのかもしれない。
それでいいとも言わない、間違っているかもしれない。
「その想いによるやり方がどうであろうと、人を想う心は嘘じゃない」
今新しく気づいたことではない。
答えでもない。
テンスさんと別れたあの日に決めたことを、再確認しているだけだ。
この男の言い分がどう間違っているかはわからない、でも僕への誘い文句としては失格なだけだ。
「下らん、個人は個人だ。自己こそが全てなんだよ」
「人は理屈で生きてるわけじゃないんです、僕はお父さんの真似をしていようが、お父さんは僕は人間じゃなかろうと、長内王雅で息子だと言いました。その想いだって嘘にはならないでしょう!」
泣き叫ぶように、そうであってほしいと願うように喉が震える。
僕の生き方は、この際どうでもいい。
僕の間違いは逃避したって背負ったって、僕の問題だ。
でも、僕のことを考えてくれたその想いは、僕だけは踏みにじってはいけない。
だって僕はそれを、信じてる。
「あなただって、寂しいんじゃないですか? 性欲とかあります? 独りぼっちの世界で女が抱けるんですか!」
「なにを言い出すかと思えば……」
「人類の自己保存法ってのは、繁殖なんですよ! 自己完結で完璧になることじゃない、他人と生きることなんですよ!」
男は一つ笑う。
「矮小な考えだ、この世界の者らしい……だが、貴様の本質はそうではない。欲望に生きるのは喰獣の所業だ、いつかその考えも変わるだろうさ」
「変わったら、変わった時に考えますし。言い方ってもんがあるんですよ、知ってます? 核とか言い出す前は入信しようと思っていたのにもったいない!」
大和さんの想いを踏みにじったら、お父さんの想いもテンスさんの想いもそう扱ってしまう。
口裂け女を倒す、テンスさんと再会したいという理由もなくなる。
そうなったら、戦う意味もない。
それなら入信する意味もない、簡単な話だ。
想いで戦うと決めた僕に、もっともやってはならないことだろう。
当然の結果だ、断るに決まってる。
「気が変わったら、待っているぞ」
男はそう言い残して、忽然と姿を消した。
目にも止まらぬ速さであった。
しくじった、テンスさんに手出しするなという話に繋げようと思っていたのに。
まあ、呪術師の言う通り人間なんて矮小なものだろう。
会紡機戦だって、主役は雷神教神託者と呪神教なのかもしれない。
僕たちは単なる脇役かもしれないさ。
コーニングスさんは未だに信用できない。
でも、脇役だって生きてる。
成長しなくても生きてる。
間違ってたって生きてる。
生きてても良いことなんてないかもしれない。
生きてることは、良いことでも素晴らしいことでもないかもしれない。
またこういう目にあっておかしくなるのかもしれない。
ただ、状態として生きてる。
想いを感じられる。
誰かを想える。
本当にちっぽけな、それだけが出来る。
死んだ時は死んだ時、寝ぼけ眼の脅威もそのまま。
なにも解決していないけど、僕は弱いままでまた錯乱するんだろうけど。
別にこれじゃ駄目なんだけど、いつか人殺しまで行っちゃうのかもしれないけど。
僕は振り返って、大和さんを見る。
学生服のままの酷くショックを受けたように、顔は青ざめていて唇が震えている。
僕は彼の両肩を掴む。
「言いたい放題言われましたね」
「……」
僕は無理やり笑った。
「依存させてるんですって! どうすんですか男を依存させて」
「……るせぇ、言い方ってもンがあるんだろ? オメェがライン越えてどうすンだよ……」
「だって女の子依存させたほうがいいじゃないですか」
彼は釣られたように顔を上げる。
こんな触れれば砕けてしまいそうな、か細い決意は綺麗事で片づけられない。
自信もない、僕に言えるのなんてこんなことだけだ。
「バカ、ヤロォ……下手な慰め、すぎンだろ……」
「感謝してます、いつも、いつだって」
一粒。
小さな涙が大和さんから零れた。
初めてかもしれない、彼が泣いている所を見たのは。
コーニングスさんも、なんだか感極まったように体を震わせて、駆け寄ってきた。
僕たち二人を包むように抱きしめてくる……こいつは邪魔だ。
男同士の友情にスパイが突っ込んできた。
でも、押しのける気にはならない。
さっきの罪悪感が湧くから、今はそっとしておいてほしいけど……人生はままならないものだ。
「長内、さっきはごめんね……かっこよかったわ」
「こちらこそすみません。ほんとムラムラしましたよ、頭おかしくなっちゃいましたし」
「……オメェらなにがあったンだよ」
ままならない、ままならぬままに行くしかない。
そんなもんだろ、僕の人生は。
正直、精神が子供すぎるのだと思う。
誰かと心を通わせることすら難しい、成長していない子供。
だから僕は、正解を導き出す土台すらない。
これから選択に至るピースを見つけていく、そんなあまりにも遅れたスタートラインにようやく立ったようなものだ。
呪神教の大それた野望なんて、今の僕には付き合いきれない。
まずは、ちっぽけな長内王雅になっていきたいのだから。




