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第二十一節 死への挑戦

 窓一つなく、時計もなく、時が流れているかもわからない拷問室。

 人を甚振る部屋だというのに、清潔で白い部屋。

 扉だけがなにか物々しい。

 なぜだか監視カメラはなかった、拷問の映像証拠は残さないようにしてあるのだろうか。


 少し古いテーブルの上だけに、僕の血が乾いていた。


 何時間経ったのか、わからない。


 しばらくずっと、テンスさんの肩は震えていた。

 やり取りをした時からずっと。

 それだけが時が動いているという証明だったが、やがて彼さえも動きを止めた。

 殺生石に手を翳し、天術で修復したかと思うとまた腕に嵌めた。


 今しか考える時間はないのに、僕は眠っているようになにも考えられない。

 過ぎているかもわからない時間がただ流れていった。


 通路から足音すらしなかったのに、扉が開いた。

 よく見れば分厚い扉だ、足音が聞こえないのは当然と言えるくらい。


 まるで巨大金庫のような扉から現れたのは、昨日の二人の男だった。

 明日拷問すると言っていたから、一日が経ったのだろう。

 まったくそんな体感はなかったが。


 一人が近寄りまた万力の取っ手に手をかけた瞬間、なにかに気づいたかのように手を止めた。


「指が、治ってる……」


 そうだった。

 テンスさんに治してもらったのだった。

 今がチャンスか?


「一つだけでいいので、質問に答えてください」


 自分でも驚くほど、喉が渇いているのに言葉が滑り出た。

 男は意を決したようにため息をつきながら、昨日潰された右手の人差し指に万力を押し当てる。

 また無視して潰す気か……。


「お願いします、吸血鬼(ヴァンパイア)の二人と友人がどうなるのかだけ教えてください!」


 男は苦々しい顔をしながら、また取っ手を回し始めた。

 じわじわと冷たい金属が指に圧力を与える。

 どこからか駆け抜ける記憶が昨日の痛みを反響させた。


 音と痛みが響き渡る。

 僕の絶叫に頭が染まる、頭の中で聞こえているだけなのか自分で叫んでいるのかもわからない。


 絶叫を強制的に鎮めようとするかのように、血がうねるように頭に登った。

 見開かれた目が飛び出してしまいになる、顔が破裂してしまう。


 喘ぎながら、僕は開力を全身に巡らせる。

 痛みをなぞるように、痛みの信号に乗せるように開力の循環を加速させる。


 肉体が力強さに重くなりながらも、羽のように軽くなる矛盾した感覚。

 魂と精神と肉体のズレが、徐々に重なり同化していく。

 獣術。


 僕は、腕を固定する机をそれごと持ち上げた。

 体を回転させるように大きな机を振り回して、呆気に取られていた男に叩きつける。


 もう一人、昨日も見守っていた男の表情は驚愕へ彩られて、恐怖の声を漏らした。


「ま、待て、頼む!」


 両腕で顔を覆いながら、そんなことを言い出す。

 しかし動き出した僕の動きは止まることはない。

 止めるつもりもなかった。


 僕が待ってくれと頼んだ時、お前らは待ってくれたのかよ!?


 心の中で吐露しながら、僕は机で殴りつけた。


 倒れた男たちに、僕は呼吸が荒くなる。

 痛みのせいで、重い汗が顔に纏わりつく。


「テンスさん、お願いできますか」


 机を地面につけ、ただ立ち尽くしていた彼に声をかける。


「……わかりました」


 そう言って彼は殺生石をいとも簡単に砕き、腰に身に着けている煌びやかな短剣へと手を伸ばした。

 僕の腕を拘束する皮の拘束を断ち切り、そして黒の手袋越しに僕の手を取る。

 打ち合わせ通りだ。


 背からは星々を宿す銀河のような基盤模様のようなものが浮かぶ翼を出現させ、オーロラのような光が僕の指に注がれる。


 痛みが嘘みたいに消える、罰をなに一つ受けていなかったように。


 物々しい扉は獣術で強化されている僕の力で簡単に開いた。

 襖を開けるくらい、力を入れずとも。


 神聖な天使に見守れながら、僕は罪を犯す。


 僕は通路に出た、いくつも扉がありガラスで向こうが見える扉もあれば、ガラスのついていない扉もある。

 取調室の方向に僕は歩みを進める。


 冥さんと曲夜さんを助けて、大和さんが捕まらないようになれば。

 そうできれば、僕はちゃんと罪を償うから。

 ここから逃げないから、ここで殺されるから。


 一晩が経過してもまだ雪で濡れた靴は、通路を歩む度にゴムが擦れた。

 扉一つ一つを確認していると、迎え合わせになった机に人々が座っていた。


 パソコン、電話、どちらもある。


 学校の職員室みたいな場所だが、誰もがパソコンに向かってなにかを打ち込んでいる。

 僕は迷いなくその扉を開くと、何人かがこちらに視線を投げた。


「どちら様ですか?」


 一番扉の近くに座っていた女性がそう問う。

 怪しいものを見るように、僕と後ろに立つテンスさんを。

 僕はなにも答えないまま、近寄ると少しの恐怖が女性の顔に混ざった。


「な、なんですか?」


 僕は無視して、女性の胸倉を掴んで壁に放り投げた。


 女性の悲鳴に部屋の空気が一変した。

 どよめき、悲鳴、何人かが椅子から立ち上がる。

 別の扉から逃げる人、ただ唖然とこちら見る人。


 僕は立ち尽くしていた人の一人に走って、顔を掴んで窓に向かって投げ捨てる。

 ここは二階だったはずだ、死にはしないだろう。

 いや、僕は醜い罪人だぞ……?


 殺してもいいのではないだろうか?

 だめだ。殺すなら、最初は溝口だ。


 そう考えていると次々に人は逃げ出し、ぽつんと僕たちは取り残された。


 僕はパソコンの前へ座り、ウェブブラウザを立ち上げる。

 エクソテックス社……出た。


 ホームページからお問い合わせ用の電話番号を見つけ、受話器を手に取る。

 電話番号を確認しながら電話を掛けると、二度のコール音の後に繋がった。

 扉の向こうの通路が騒がしくて、電話の音が聞き取れない。

 空いた耳を手で押さえて電話に集中する。


「長内王雅です、社長さんはいますか?」

『申し訳ございません、ただいま不在で』

「すぐに連絡してください、僕は日本妖怪対策局に捕まりました。すぐに大江戸大和さんを保護してください、僕の救出は必要ありません」


 なぜだか焦りもなんの感情も声に籠らない。

 ただタスクを淡々とこなしているような、そんな気持ちだ。


 感じちゃいけないんだ、今胸に封じている気持ちは。

 これ以上、僕は自分を嫌いになりたくない。


『わ、わかりました!』


 その返答を聞いてすぐに受話器を戻し、電話を切る。


 次は、冥さんと曲夜さんの救出だ。

 彼女たちを逃がせれば、終わり。


「あーしまった」


 僕は棒読みで過ちに気づいた。

 局員を一人くらい残しておけば居場所を聞けたのに。


『第四事務所に侵入者! 繰り返す、第四事務所に侵入者! 局員の皆様は避難してください!』


 局内放送のようなものが響いた。

 本当に学校みたいだ。


 しょうがない……どっかで適当に捕まえるか、そう思って腰を上げて扉に向かうと倒れている女性に気づいた。

 蹲って泣いている……忘れてた、ちょうどいいのがいたわ。


 僕はしゃがみ込んで、女性の髪の毛を掴む。


「あの、吸血鬼(ヴァンパイア)の二人はどこにいます?」

「っ……!? 誰か、助けて……!」


 誰もいないのが、見てわからないのか……!?


「余計なことを喋る暇があったらさっさと二人の居場所を喋ってください! 綺麗な目ですね、あはははっ! 目を抉りだしますよ!? 殺されたいんですか!?」


 今、僕はなにを叫んだんだろうか。

 やばい、思い出せない。

 なんだっけ、えーと、居場所は答えてもらったんだっけ?


吸血鬼(ヴァンパイア)の二人はどこにいます?」


 女性局員は震える手で、取調室があった方向を指さした。

 ああ、まだあそこにいるのか。


 ぱっと手を離し、僕は再び通路に戻った。

 逃げ惑う人々が僕にぶつかりながら逃げていく。

 僕に気づいた数人は引き返して逃げていった。


 僕は邪魔しないように、部屋に体を引っ込めて見届ける。

 すぐにさっきまでの閑散とした通路に戻ったが、拷問室の方向から二人の男が走ってきた。

 私服姿で崩衝(ほうしょう)の構えを取っている。

 昨日の車の警護をしていた崩術師とはまた違う顔ぶれだ。


 常駐している崩術師もいるのか。


「崩王の息子が相手って、ツイてないぜ……」

「俺も人間相手は初めてです……」


 手の届かない間合いで彼らは立ち止まり、僕を見たまま会話を交わしていた。

 まるで、僕と大和さんを見ているようだ。


「なあ長内だよな? やめないかこんなこと」

「そうだよ、日妖で暴れるなんて後でどうなるかわからないよ」

「……」


 僕は、それを望んでいる。

 だからここまで派手に暴れているんだ。

 確実に殺してもらえるように。


 僕は地面を踏み込んで、崩衝(ほうしょう)が触れるすんでのところで体全体を落として潜り抜ける。

 背中の上を腕が通ったのを確認して、腕と顎をかち上げるように掌底を放つ。

 すぐにその手を胸に移動させ押すように力を込めると、男はおもちゃのように吹っ飛んだ。


 遮られていた視界にもう一人がいない、と思った瞬間、横腹に崩衝(ほうしょう)を撃ち込まれていた。


「崩力が……通らない……!?」


 彼の言う通り、体の中に崩力が注がれない。

 命線を高速で循環する開力は、相手の崩力が入り込む余地を与えていない。


 異世界の騎士相手の時も、僕の崩衝(ほうしょう)はこのように効果が悪かった。

 あの時と、まったく逆の感覚。


 脇腹に添えられている男の手を払う。


 素早く体勢を整えて顔に拳をぶち込んだ。

 巨大な卵の殻を殴り潰したような感覚だ、人の顔を殴ったとは思えないほどに柔らかい。

 心地良さを覚えるような感触を残して地面にへたり込む男に、僕は腰を起こして歩みを進めようとする。


 その刹那。

 僕の手は崩衝(ほうしょう)を男に撃ち込もうとしていた。

 今まで感じたことのない出力、ダムに横穴を開けたような勢い。

 僕の中を循環加速していた開力が一気に崩色を帯びる。

 

 緑色の光源に視界が遮られ、僕はぴたりと止まる。

 時間が飛んだ、無視して取調室に行こうとしていたのに崩衝(ほうしょう)を構えていた。


 僕は手をぷらぷらとさせながら、周囲を見渡すとテンスさんと目が合った。

 いや、目は合っていない。彼は仮面をつけていて表情はわからない。


 でも、なんらかの意志を感じた。

 ただこっちを見ているその姿に、なにかが滲んでいた。


 鉄格子がある。

 真ん中には鉄製の扉があった。

 僕は鉄格子を引きちぎっていた。


 あれ、ここまで歩いてきた記憶がない。

 なんで扉からではなく、鉄格子を引きちぎって入っているのだろうか。


 潜り抜けて歩くとすぐに取調室の扉が見えた。

 ここにいるんだったよな。


 ゆっくりと扉を開くと、昨日見たままの部屋が見える。

 ソファーに寝転ぶ曲夜さんと、それを膝枕している冥さんがいる。


「すみません、逃がしに来ました」

「……は? なんの話をしているの?」


 冥さんは一瞬目を見開いて、すぐに怪訝な表情に切り替えて問うた。


「え? 逃がしに来たんですよ、逃げてください」

「私たちも逃げれるは逃げれるけど、こういう組織から逃亡してもどっちみち捕まるからこうしてるんだよ」

「うーん? 国外にでも逃げればいいんじゃないですか?」

「日本に逃げてくるのにどれだけ苦労したと思ってるの!? 無理だよそんなの!」


 冥さんの大きな声に曲夜さんが居心地悪そうに起き上がる。


「とはいえ、ここにいてもしょうがないでしょう? とにかく逃げたほうがいいですよ。あ、でも大和さんの依頼は遂行してほしいんですけど」

「やっと出られるの? やったね冥」

「いや、でも……」


 迷っている時間は無駄だった、と嘲笑うように幾つもの足音が通路を埋め尽くした。

 手にはアサルトライフルを持った特殊部隊のような恰好をした連中が迫る。


 洪水のように、銃をつきつけながら部屋中に広がった。

 最後の最後に、失敗か。

 彼女たちを逃がせなかった。


「随分派手にやったね、長内くん。ヒーローごっこもここまでくれば意地だねえ」


 彼らを手で制しながら、中央に溝口が掻き分け出てきた。


「はあ、人の言うことを聞いてくれないとこうなるんですよ」

「それは、駄々をこねた君が死ぬって意味か?」


 その冷たい目、呆れたような顔。

 お前のそれを見るだけで虫酸が走るんだよ。

 許せないんだ、道連れだよお前も。


「殺すつもりまではなかったんだけどさ、こうなったらもう死んでもらうしかないよ」


 なにをペラペラと。


「はは、喋ってないでやればいいじゃないですか」

「不本意極まりない、君は生きて罪に向き合うべきだったんだ」

「ずっと拷問を受けながらですか」

「だってずるいだろ? 君だけ罪を忘れるなんて」


 一体今度はなにを言い出すんだ。

 死ぬ前にこいつの講釈など受けたくもない。


「昨日も言ったけど、君も礼司さんの死を見ていたんだよ。なのに君だけが記憶を封印され、その罪から逃れた」


 嘘だ、そう言いたい。

 もう殺してお終いにしたい、その為に体を動かしたい。

 だというのに、耐えがたい頭痛に襲われ始める。

 頭の芯を引っ張られるように。

 体が動かない。


 記憶が、ありもしない記憶が引きずりだされる。


 立ち尽くす溝口。

 唖然とする僕。

 なにかに食われる──お父さんの姿。

 暖かい手に視界が覆われる。


 そんな、まやかしの断片的な映像が頭で再生される。

 こんなの嘘だ。

 僕はおかしくなっているんだ。

 さっきも記憶が飛び飛びだった、頭が勝手に作っているんだ。


 泣きたくもないのに、涙が溢れる。

 ぽっかりと心の隙間が広がる。


「今大人しく投降すれば、殺しはしない。これは最後の慈悲だよ、そんな吸血鬼を命懸けで守る価値はあるのか?」

「守る……? 僕は……あなたを殺すんです……!」


 頭痛に抗いながら、再び獣術を発動させようとする。


「ほら見ろことか! それが長内くんの正体だよ」


 怒りでなんとか体を動かすと、武装局員たちが戦慄したように銃を構える。


「頭の悪いガキだ。礼司さんの元で育っておきながら、どうしてそう下らないことが出来るんだ?」


 僕は頭痛を振り解いて走り出していた。

 けたたましい銃声が響き渡る。

 激しい光の点滅に視界が飲まれた、だというのに僕の体はまだ動く。

 痛みもない、傷もない、一瞬なにがなんだかわからなかった。


 銃口炎は見えている、何発も何発も、これでもかというくらい撃たれている。

 ただ、その手前に違う光があった。

 星座のように星々が繋がる、基盤模様の光……?


 テンスさんの翼が、銃弾を遮り僕たちを包んでいた。

 銃声がぽつりと止み、静寂が大波を立てて耳を襲う。


「なんで助けたんです!?」


 僕は振り向き、後ろにいたテンスさんに声を荒げる。


「……自分を守ったのです、わたくしも巻き込まれそうでしたので」


 明らかに嘘だ。

 自分の身だけを守れたはずだ、わざわざ離れた僕まで包み込む意味がない。

 計画は伝えたはずだ、僕になにかあったら冥さんと曲夜さんを連れて逃げるように。

 だから、ただ彼女たちを守って僕が死んだ後に逃げればよかったんだ。


 あれだけ説得したじゃないか。

 承諾、してくれたじゃないか……。

 視線を戻すと、翼越しに困惑した溝口の顔が見える。


 今すぐその顔を痛みで歪めてやりたいが、翼が邪魔だ。

 漲る力のぶつけどころもなく、ただ視線が合う。


「おい、どけろ!」


 初老の男が声を荒げながら、武装局員たちを掻き分けて割り込んだ。

 溝口の横に立ったかと思うと、その胸倉を掴み溝口のスーツを歪ませた。

 酷い汗で髪の毛は乱れ、息を荒げたままに。


「し、支局長……ここは危険です!」

「黙れ! 全員銃を降ろして出ていけ!」


 支局長と呼ばれた男は、部屋中を震わすほどの怒声を上げる。

 一瞬遅れて、ハッとしたように武装局員たちが銃口を降ろして部屋から出ていった。


 なんなんだ、揃いも揃って木偶の坊どもが。

 さっさと僕を、殺せよ……!


「溝口、貴様なにを考えているんだ!」

「い、いえ私は先ほどお伝えした通り……支局長も承認されてたはず」


 テンスさんの翼が視界の端へと消えていくと同時に、支局長さんは拳を振るった。

 溝口は殴られたままに地面に倒れ、驚愕したように半開きの口を支局長さんに向けた。


「この少年は異空間体調査管理財団の関係者だ! なぜ下調べもせずに手を出した!?」


 いくうかんたい……聞いたこともない名前だ。

 異空間体調査管理財団……財団……?

 エクソテックス社が会紡機の取引を契約したのも、財団だったはずだ。

 その財団なのか……? ふざけるな、なんだそれは。


「長内王雅さん、こちらの不手際でまことに申し訳ございません!」


 支部長さんは、跪いたかと思うと土下座をした。

 いくつも薬莢が転がる地面で、なりふり構わずに縮こまる。

 状況が、受け入れられない……なにが起こっているんだ。


 この拳を、どこに振り下ろせばいいんだ。

 誰が僕を殺してくれるんだ。


「私たちも解放されるの?」


 ソファーの下で身を屈めていた冥さんが、立ち上がりながらそう聞く。

 僕はそれに苛立っていいのか、安堵していいのか、それもわからない。


「もちろん、長内さんのご友人ということでしたら」

「支局長……!?」


 まるで裏切られたかのように目を泳がせながら溝口が声を上げる。


「まだわからんのか!? 財団が絡んでいるんだよ、この局自体が潰されるぞ!? 貴様のミス一つで、だ!」

「助かったあー……」


 曲夜さんの間延びした声が空虚に響いた。

 こっちはそれどころではないというのに。


 今、溝口を殴ってもいいのだろうか。

 今、殺してくれと頼んで殺してもらえるだろうか。

 溝口を殺せば、やってくれるだろうか。

 この支局長とやらも、今こそこうしているが乗り気だったはずだ。こいつも半殺しにすればいいか?


 なにか、しなければ。

 無抵抗の人間すら僕は加害したんだ、お咎めなしなんて許されるものか。


 その感情のままに歩もうとするが、後ろから何者かに拘束された。

 いや、違う、後ろから抱擁されている。


「オサナイ様、約束を破ってしまい申し訳ございません」


 テンスさんだ。

 テンスさんがそう言った。


「気の済むまでわたくしを痛めつけてください、わたくしは受け入れます」


 その言葉に冥さんも曲夜さんも、溝口も支局長も、僕も、誰一人答えなかった。

 僕は事切れたように力が抜けた。

 張り詰めていた緊張の糸が引きちぎれてしまった。


「あなた様は自分を傷つけています。人を傷つけながら、その拳は自分に向かっています」


 テンスさんに体重を預けたまま、僕は空っぽになった。


 胸の渦巻いていた全ての感情が消えた。

 頭の中で暴れていた考えが全て流れ落ちた。

 なにもかも、僕から抜け落ちてしまう。


 もうなにも残ってない、ただ抱擁の柔らかな感触だけが残った。


「わたくしを恨んでいただいて構いません、どんな報いでも受け入れます……だから今は、帰りましょう」


 彼は僕から手を離して腰から神誓剣を手に取り、空間を切り裂いた。

 雷のような線が広がると、神誓門が開く。


 そこから見えたのは、僕の家のリビングだった。

 僕はそこに向かっていいのか、ここに留まるべきなのか、なにも出来ずに迷っていた。


 力なく立ち尽くす僕の手をテンスさんは握って、僕を引いて神誓門を潜らせた。


「あー私たちも! 行こ、冥!」


 僕はわからない。


 赦されたのか、救われたのか、まだ背負っているのか。

 生きてていいのか、死んだほうがいいのか。

 今どうするべきか、これからどうなるのか。


 ただ、逃げようもない影が足に絡みついたまま、僕はテンスさんに手を引かれ帰ってきた。

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