第十七節 漆黒の天使
冷たい。
口から垂れた涎が枕を濡らしていた。
ルーターの青き点滅に照らされた自室で、いつも通り目が覚めた。
メガネを掛け、スマホで時刻を確認する。
十四時九分だった。今日はたくさん寝たなぁ。
昨日は一日であれだけのことがあったのだから、当然か。
僕は遮光カーテンも開けず、部屋に備え付けられた洗面台のライトを点け顔を洗う。
きっと僕の前世はもやしかモグラだったのだろう、太陽光は外に出るようになった今でも苦手だ。
そういえば自室に洗面台があるのは珍しいんだっけ、めちゃくちゃ便利だからみんなそうすればいいのに。
歯ブラシを咥えながら鏡を見ると、いつもながらに違和感を覚える。
左流れの癖っ毛は髪の毛が細いせいで少し明るく、寝ぐせが酷い。
黒縁メガネから視線を合わせてくる目の下にはクマ。
一瞬、誰が映っているのかわからない。
僕は自分の顔を自分だと思ったことがない。
……視界になにか紛れたような気がする、鏡の奥……なんかいる?
僕は振り返ると、真っ黒なお化けがそこにいた。
「おあぁぁっ!?」
僕はビクつきながら、歯ブラシを吐き出す。
いや、あのエックスのような意匠の仮面、テンスさんだ。
彼は恭しく股の上で手を重ね、頭を下げた。
「驚かせてしまい申し訳ございません、おはようございます」
「あ、ああ、驚いてすみません、おはようございます」
僕も謝りながら歯ブラシを拾った。
車と大和さんのワープ後、客室に案内したよな。そこで寝てもらったはずだが……。
「なぜここにいるんです」
まさか寝首を?
違うか、昨日切断された腕を治してもらったばっかりだ。
「お恥ずかしながら空腹になってしまいまして、お料理の許可をいただきに来たのですが……とても心地よさそうに眠っていらしたので、起きるのをお待ちしておりました」
「え、別に好きな時に好きな具材使って料理していいですよ」
「ご配慮、痛み入ります」
ご配慮しないと預言者さんになにされるかわかんないからね。
でも僕も重症の傷を治してもらった恩も、ささやかに芽生えてきている。
彼なしでは死んでいたかもしれない、そう思うとどうして無碍に出来ようか。
出ていく彼に僕は歯ブラシを洗った。
僕も腹減ったから、ついでに料理を作ってもらおう。
起床時のルーティンを終わらせ、リビングに向かうと彼はキッチンで立ち尽くしていた。
とても奇妙な光景だ。後ろから見ると真っ黒人間がただ棒立ちしてる。
なにかを煮る音も焼く音もしない、ただただ自宅らしい無臭の中で。
「……キッチンになにか違和感が?」
「使い方がわかりませんし、わたくしはお料理をしたことがありませんでした」
この人、今まで異世界でどうやって生きてきたの?
システムキッチンの使い方がわからないのはわかる、でも料理をしたことがないって……まあ、こんな風貌でも親は居るか。
母親にご飯を作っていてもらったのだろう。
「僕が作りますよ、なにか食べたいものはありますか?」
「お手数をお掛けし申し訳ございません……では、パンとエボン豆と野菜のスープをお願いしてよろしいでしょうか?」
エボン豆ってなんだ、聞いたことないぞ。
「僕はご飯派なのでパンがありません、エボン豆もありません」
食の嗜好が異なるというのは大変だ。
将来、結婚するなら好みが合う女性と結婚しよう。
でも、豆と野菜のスープと言えば、味噌汁はある意味それではないだろうか。
味噌って大豆だし、ネギと大根は野菜さ。
「わたくしはどのようなものでも食べられます、お任せしてよろしいでしょうか?」
「そんな、消し炭は出したりしませんよ」
僕はキッチンを代わり、朝ご飯らしさ満点の料理をこしらえる。
昨日寝る前にうとうとしながら、炊飯予約しといてよかった。
一応いつもとは違って、少し味を薄くした。
異世界のご飯は味が薄そうだから。
二人前をリビングのテーブルに並べ、手を合わせる。
「いただきます」
「天高き雷の主よ、今日の生に感謝します」
彼は右手を左手で包み込むような所作をしながら、なにやら祈っていた。
異世界流の祈りか。
僕はいつも、いただきますをリ・コクエンさんに捧げている。
崩術の通信教師でありながら、出会った日に彼は僕の人生を変えた。
物が近づいた瞬間に目を瞑ってしまう癖と、偏食を崩術でなんとかしてもらった。
彼の崩術を受けていなければ、健康不良か会紡機戦で死んでいたことだろう。
そして、崩術を本格的に学び始めた今、あれがどれだけの高等技術かは途方もつかない。
術なき術だ。型もなく既存の崩術ではないのに、自由自在に崩力に意味を持たせるのは常人では不可能だろう。
未だ基本型の崩衝しか出来ない僕とは雲泥の差だ。
僕は卵焼きを頬張りながら、そんなことを考える。
会紡機戦が卵焼き対決だったら負けなしなのに。
「おいしいですか?」
「馴染みのない味ですが、とても美味しいです」
箸を使ったことはないだろうから渡したスプーンで、彼は卵焼きを食べていた。
やはり仮面越しに、物理法則を無視した貫通をさせながら。
食べ終わったら崩術修行をしなくてはいけない。
その後は筋トレだ。
一日のスケジュールを立てながら、僕は食事を終えた。
彼はまだ食べている、少し休憩したらやるか。
「あ。そういえば、傷を治してもらったお礼がまだでした、ありがとうございます」
「いえ、長年毎日やってきたことですので当たり前のことです」
彼は食事の手を止め、答える。
「あの回帰の力でしたっけ、あれ自体は異世界人は誰でも使えるんですか?」
預言者さんがテンスさんの回帰の力は特別だと言っていた。
ということは、複数人が回帰の力とやらを使えるはずだろう。
じゃなきゃ特別な回帰の力、という言い方をしたはずだ。
「天人種の一部だけです。わたくしは天人種天翼族なので問題なく使えます」
は、天人種天翼族? 種族名?
僕で例えるとホモサピエンス種日本人族か?
変な言い方だな、あとなんでも天つければいいってもんじゃねえぞ。
逆に覚えやすいけど。
「失礼、ご飯を食べながらいいですよ」
ちょっと飲み込む時間が欲しかった。
異世界人の中でも少し特殊な立ち位置ということかな。
天使ではなく、一応人間の区分なんだろうけども。
「第十神託者なんですよね? 神託者って何人いるんですか?」
「十人です、わたくしが一番新参者ですが十番目に入ったわけではありません」
ふんふん。
前任の第十神託者でも居たのだろうか。
他の神託者連中もこんな癖強いのか? こっちの世界に来た神託者は預言者さんとテンスさんだけなことを祈る。
これ以上は手が付けられないぞ。
「わたくしからも質問があるのですが、この家で一人で過ごしていらっしゃるのですか?」
「そうですよ、父が中学生の時に亡くなってしまいましてね。あ、中学生って意味わかります?」
「そうなのですね……中学生の意味はわかりますよ」
キッチンの使い方を知らない人がなぜ学校制度を知っている?
「なぜそれを知っていてキッチンの使い方は知らないんですか?」
「会紡機戦の参加資格を得てこちらの世界に来た時、最低限の知識は授けられます。キッチンで言えば、調理する為に必要なものというのはわかりますが、使い方までは知らされないのです」
へえ。
異世界の騎士さんが言っていたことと差異はないが、より詳細だ。
たしかに、この世界のなにもかもを一気に知ろうとすればキリがない。
詰め込まれすぎたら脳が焼き切れそうだ。
理に適ってるな、会紡機ってのは。
「ていうか会紡機戦って、本戦以降で部外者に参加者が倒されたらどうなるんです?」
これは恐らく授けられるタイプの情報ではないだろうが、知っているのではなかろうか。
「基本的には戦闘不能にならぬ限りは参加資格は剥奪されません」
「まあそうですよね。では参加者の協力者が、相手の参加者を倒した場合は?」
騎士さんが言っていた、一国が総力を挙げて協力したという話。
あれの真偽がわからなかったから、知っているならぜひとも知りたい。
「介入の度合いによります。参加者本人様よりも影響力が大きい状態で勝利すれば、結果的にはどちらも敗北として扱われます」
そうか……味方を集めまくるのは意味がないのか。
曖昧な基準だが、会紡機自体が判断しているというのか?
わからん。
まあ異世界にキッチンがないのは確定だ、やはりファンタジーで中世なヨーロッパなのだろうか、と考えを巡らせていると、彼は食事を終えた。
「オサナイオーガ様、洗い物はわたくしにお任せいただけますか?」
「ありっ……」
ありがとうございますと言いかけて、凄まじい違和感に言葉が止まった。
「オサナイ、その後なんと言いました?」
「オーガ様、洗い物はわたくしにお任せいただけますか? と言いました」
オーガ。
西洋のモンスターではないか。
僕は化け物じゃないぞ? どっちかっていうとゴブリンだ。
異世界にはオーガとかゴブリンとか、そういうモンスターがいるのだろうか。
「オ、ウ、ガです」
「オ、ウ、ガ様……オサナイ、オウガ様」
「完璧です! ……いや、でも普通に長内で良いですよ、ファミリーネームです」
「オサナイ様、わかりました」
預言者さんは完璧な発音だったのに、なぜ出来ないんだ。
意外とポンコツなのだろうか。
「では洗い物は任せました。洗剤はオレンジ色の容器で、スポンジはピンク色のやつです、洗剤をスポンジに絞って洗い物をしてください」
「心得ました」
そう言い残して、お父さんが崩術修行に使っていた広い和室へ歩みを進める。
修行の間とか呼んでみようか、かっこいいし。
「さむぅ……」
瞳を閉じて、深呼吸しながら腕を交差させる。
左手を前へ、右手を胸横に構える。
腰をひねりながら、全身の動きを連動させ右手を突き出す。
崩衝たる緑色の優しい光が走る。
次は速度を上げ、その次またゆっくり。
実戦想定スピードと動きを確認するようなスロースピード。これを繰り返す。
お父さんがやっていたことを見たままの練習法だ。
十分ほど続け、崩注の修行に移ろうと、曲がった模造刀へ手を伸ばす。
すると、突然襖が開いた。
やはりというべきか、テンスさんである。
「……」
会話がないとなぜだか余計に寒さに包まれる。
なんの用だよ……。
「えっと、お皿洗い終わりましたか?」
「はい、終わりました」
「ありがとうございます」
「わたくしは置いていただいている身、当たり前のことです」
襖を閉めてくれるのを待つが、微動だにしない。
カカシのようだ。
「……なんでしょうか」
「見ています」
僕が求めているのは状況説明ではない、そんなの見りゃわかる。
意図だよ意図、なんで見てんだよって聞いてんの。
「なんで見ているんですか?」
「見ているので、見ています」
さすが異世界人だ、理解できない。
無音でなんだか耳が痛くなってくるし、肌を撫でる冷気に集中してしまう。
人と喋っているはずなのに、独り言を喋ってる気分だ。
僕はぶるりと寒気に震えて、トイレを催した。
横をすり抜け、トイレに向かうと彼は当たり前のように連れ添ってきた。
「すみませんお手洗いなので、ついてこなくていいですよ」
「どうかお気になさらず、ご自由にお過ごしください。わたくしはただ見ていますので」
「はぁ!?」
へ、変態だ……まともじゃない。
「お風呂も外出も、全部ついてくる気ですか!?」
「はい、ご迷惑でしょうが預言者様に頼まれましたので」
「勘弁してくださいよ!」
生きた心地がしない、他人が家に居るというだけでストレスなのに。
これがペットとかだったら、かわいいもんだが人間相手だとここまで嫌なものか。
預言者さん、資金繰りで困ってるからテンスさんを僕に預けたんじゃなかったのか!?
監視役かよ、これ以上僕のなにを知りたいと言うんだ!
「トイレとお風呂だけは勘弁してくれませんか!? さすがに限度ってもんがあるでしょ!?」
尿意が僕を焦らせ、足が震えだす。
「預言者様に相談致します」
僕は足踏みするようにバタバタしながら、テンスさんが手を耳辺りに当てる所作を見守る。
地面が冷たい、温度が冷たい、早くして。
「……預言者様、オサナイ様がご用を足す時とご入浴中は監視の中断を申し出ておりますが……はい、わかりました」
「預言者さん、なんて言ってました!?」
「笑っておいででした、構わないそうです」
前半いらん! と叫びたくなりながら僕はトイレに駆け込む。
あ、危ねえ……。
僕は泣きそうにながらトイレを出ると、ボディーガードのように彼は待っていた。
VIP待遇なのにまったく嬉しくない。最悪の気分だ。
手を洗い、修行の間に戻る。
ああ、そうだ、崩術修行も見られたくないな。
いつか戦うかもしれないのだから、手の内を晒したくない。
「修行も見ないでもらっていいですか? あと寝ている時も」
「オサナイ様、失礼ながら先ほどの条件と異なります」
「じゃああなたの力全部教えてくださいよ! 全部!」
「構いませんよ、もちろん全て説明いたします」
く、くぅぅ! 頭に血が上るのを感じる。
サラサラとザラザラの中間の音がこめかみに流れ、耳の奥から重い空気が吹いてる音が聞こえる。
キレちまいそうだ。
「もういいです!」
どうせ見てもわからんだろう、崩術なんて体の動きだけで出来るもんじゃないしな。
こんなポンコツに読み解けるほど稚拙な武術じゃないんだよ。
深い瞑想と無我の先から崩力を知っていくんだ。
僕はまた、ゆっくりと型通りに崩衝を放つ。
「面白い術ですね、こちらの世界の色を使ったものですか」
邪魔までするとは聞いてない。
せめて黙ってろよ。
「崩衝という名の術でしたか? こうでしょうか?」
テンスさんは、手を交差させ僕の動きを完全に再現していた。
動きだけじゃだめなんだよ、崩術は。
と、思った。
彼の右手からは──緑色の光が眩いほどに漏れながら、まごうことなき崩衝を放っていた。
思わず、小さな電流が走ったように全身の毛が逆立つ。
「う……嘘?」
僕が崩力を出せるようになるまでどれだけかかったと思ってるんだ。
たった一回見ただけで、いや……戦闘は見られていたから崩衝自体は何度か見られていたか。
しかし悔しい、本当に悔しいと思う。
だけど、それ以上に完璧な崩衝に思わず感動していた。
お父さんが戻ってきたような、そんな感覚に陥る。
こんな奴が、と思う気持ちはあるのにどうしても……初めて僕が努力したことだからか、その凄さは心が勝手に認めてしまう。
「これは動きで崩色を取り込み、掌に溜める術ですね。ただ流すだけでは染め切れていないのでしょう、中和のできない異を流し内部崩壊させることが本質のようです」
その言葉に僕は思わず、テンスさんの両肩に手を置いていた。
意味はわからなかったが、内部崩壊という理解はすごい。
「そこまでわかるんですか!?」
「……はい、わたくし如きが偉そうに申し訳ございません」
「いや褒めてるんです、凄いですよ! じゃあこれ出来ますか!?」
僕はそう言って、模造刀を握る。
崩注、武具に崩力を纏わせる術だ。
外から半円を描くように模造刀を内に引き入れる。
胸の前で刃を天井に向け、左手で崩力を流しながら刀身に触れないようになぞる。
だがやはり、僕がやると崩衝の成り損ないを撃ち込んでいる形となり、模造刀が反対方向へ曲がってしまった。
「これが出来なくて、崩注という武具に崩力を纏わせる術なのですが」
そう言って、模造刀を渡す。
彼はそれを手に取ると、また僕の動作を再現した。
しかし僕のようなたどたどしさはなく、なめらかで美しい。
「なるほど、オサナイ様は刀そのものに崩力を注ぎ込んでいたようです」
「違うんですか?」
「崩衝は掌から少し距離を開けて発生していますよね? それと一緒で、武器の表層を膜で覆うように、持ち手から崩力を流します。左手は加減した崩力で形を整えるように、崩力固定のために使います」
彼の手に握られた模造刀の刀身は、妖しく緑色の光を帯びる。
めちゃくちゃロジカルでわかりやすい、やれそうな感覚がある。
「ありがとうございます!」
僕は模造刀を握るテンスさんの手を包む。
思わず、テンションが上がりすぎてしまった。
お父さんとは違って、小さな手だ。
背丈も僕の胸ほどしかない、お父さんは僕と同じくらいだった。
さっきまでの印象が嘘みたいに、僕は彼を受け入れ始めていた。




