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父の急逝で、わたくしが公爵になりました ~王太子殿下、浮気したり婚約破棄してる場合じゃありませんよ?

作者: 藍沢 理

 春の王宮大舞踏会。水晶のシャンデリアに灯る無数の蝋燭が、磨き上げられた大理石の床に揺らめく光を投げかけていた。楽団の奏でるワルツに合わせ、色とりどりのドレスが花のように回転する。ブリニア王国の社交シーズンを飾る、最も華やかな夜だ。


 わたくしはライサンダー殿下の手に導かれ、舞踏会場の中央を滑るように進む。深い青みがかった黒のドレスは、動くたびに刺繍が煌めく。優美な笑みを浮かべ、完璧なステップを刻む。ソーンフィールド公爵家の令嬢として、王太子の婚約者として、誰もが期待する姿を演じ続ける。


 けれど、不安が胸の底に澱のように溜まっていた。


 父上の容態が、この数日で急激に悪化している。今朝も執事長のゴドリックが深刻な面持ちで報告に来た。心臓の持病が限界に近づいている、と。本来ならば、こんな舞踏会に出席している場合ではない。しかし父上は首を横に振った。「お前は公爵家の顔だ。王太子との婚約を世間に示すことが、今のお前の責務だ」と。


 責務。そう、わたくしには責務がある。個人的な心配よりも、家名を、領地を、領民を守る責務が。


「アラミンタ」


 ライサンダー殿下の声で、わたくしはさらに笑みを浮かべる。殿下は妙に浮かれた様子で、いつもより饒舌だ。何か嬉しいことでもあったのだろうか。


「はい、殿下」

「今夜は特別な夜になるぞ」


 その言葉に込められた奇妙な高揚感に、僅かな違和感を覚える。だが、それが何を意味するのか分からなかった。


 曲が終わりに近づく。最後の旋律が流れ、ライサンダー殿下が優雅な決めのポーズを取ろうとした、その瞬間。


 殿下が手を離した。


 突然の動きに体勢を崩しかけたが、辛うじて自力で姿勢を立て直す。何事か、と顔を上げれば、ライサンダー殿下は数歩後退し、距離を取っていた。


 彼は楽団に向かって手を上げた。


「音楽を止めろ!」


 殿下の大声が舞踏会場に響き渡った。楽団が戸惑いながらも演奏を止める。会場が静まり返る。数百人の視線が、舞踏会場の中央に集中した。


 胸騒ぎが止まらない。


「皆、よく聞け!」


 ライサンダー殿下は、勝利を宣言する将軍のように胸を張る。その様子は少し前と異なり、酷く歪んだ高揚感が滲んでいた。


「俺は今夜、重大な発表をする!」


 ざわめきが広がる。動かなかった。動けなかった。次に来る言葉が、どれほど破滅的なものか、本能的に理解していた。


「アラミンタ・ソーンフィールド!」殿下がわたくしの名を高らかに呼ぶ。「貴女との婚約を、ここに破棄する!」


 会場が、凍りついた。


 誰もが息を呑み、誰もが動きを止めた。シャンデリアの炎だけが、変わらずに揺らめいていた。


 わたくしはただ立っていた。顔色一つ変えずに。心臓は驚くほど静かに鼓動を打っていた。これは現実なのだろうか。いや、現実だ。数百人の目の前で、王太子が婚約破棄を宣言した。あり得ないことが起きている。


「殿下」声を出した。自分でも驚くほど、冷静な声だった。「理由をお聞かせ願えますか?」


 ライサンダー殿下は「待ってました」とばかりに答えた。


「お前は冷たすぎる。アラミンタには心がない。俺が求めているのは、もっと温かくて優しい女性だ」


 殿下は舞踏会場の端を指さす。そこには、栗色の巻き毛を持つ少女が立っていた。大きな茶色の瞳を潤ませ、困惑したように立ち尽くしている。タビサ・コーデリア・ラヴェンダー。子爵令嬢で、最近王宮に出入りするようになった少女だ。


「タビサ、こっちに来い」


 殿下の言葉に、タビサ嬢は戸惑いながらも近づいてくる。会場のざわめきが大きくなる。


「俺は真実の愛に目覚めた。この優しく、純粋な心を持つタビサこそが、俺にふさわしい女性だ!」


 何という……何という浅はかさだろう。わたくしは内心で呆れながらも、表情を一切出さなかった。王太子が大勢の貴族の前で、公爵令嬢との婚約を破棄し、格下の子爵令嬢を選んだ。その政治的影響を、この方は理解していないのだろうか。


「承知いたしました、殿下」わたくしは優雅に一礼した。「では、正式な婚約破棄の手続きを進めさせていただきますわ。魔法契約の解除には、双方の同意と国王陛下の承認が必要ですので」


 冷静すぎる対応に、ライサンダー殿下が一瞬、面食らったような表情を見せた。おそらく、わたくしが泣き崩れるか、懇願するか、そういった反応を期待していたのだろう。


 けれど、そんな真似をするわけがない。公爵家の令嬢が、数百人の前で取り乱すなどあり得ない。


 その時だった。


 舞踏会場の扉が、勢いよく開いた。


 うちの執事長、ゴドリックが血相を変えて駆け込んできた。六十七歳の老執事が、礼儀を忘れて走っている。その事実だけで、わたくしの心臓が冷たい水に沈んだような感覚に襲われた。


「お嬢様……!」


 ゴドリックの声は震えていた。四十年間公爵家に仕え、どんな時も冷静沈着だった彼が、周囲の目を無視して狼狽している。


 わたくしは次に来る言葉を悟った。


「公爵閣下が……」会場が、再び静まり返る。「心臓発作で……ご逝去されました」


 時が止まった。


 シャンデリアの光が、水の中のように歪んで見える。周囲のざわめきが、遠くから聞こえる波の音のように遠のいていく。


 父上が。


 父上が亡くなった。


 この瞬間に。


 婚約破棄を宣告された、この瞬間に。


 わたくしの顔色が変わったのを、周囲は確実に見たはずだ。だが、わたくしはそれ以上、何も表に出さなかった。出せなかった。耐え抜いた。ここで取り乱せば、父上が生涯をかけて守ってきたソーンフィールド家の威厳が地に落ちる。


 父上の声が脳裏に蘇る。


『アラミンタ。今のうちに言っておく。私が死んだら、お前は公爵だ。感情に負けるな。家を、領民を、誇りを守れ』


 そうだ。泣いている場合ではない。


「失礼いたします、皆様。家族の不幸により、退席させていただきますわ」


 わたくしは会場に向かって、可能な限り平静を装って一礼をする。


 そして、ゴドリックに向かって歩き出した。一歩、また一歩。背筋を伸ばし、優雅に。公爵令嬢として、最後まで。


 会場の貴族たちが道を開けた。誰もが複雑な表情でわたくしを見ている。同情、驚愕、興味、計算、様々な感情が入り混じった視線が背中に突き刺さる。


 ライサンダー殿下は、呆然と立ち尽くしていた。タビサ嬢も、青ざめた顔で固まっていた。


 わたくしは振り返らずに舞踏会場を後にした。



 舞踏会場に隣接する控室に入ると、膝の力が抜けそうになった。だが、ゴドリックがすぐに椅子を用意してくれた。そこに腰を下ろして深呼吸をする。


「詳しく聞かせてください」


 ゴドリックは苦渋の表情で報告を始めた。


「今宵の八時頃でございました。公爵閣下は書斎で執務をされておりました。突然、胸を押さえて倒れられ……侍医が駆けつけましたが、手の施しようがございませんでした」

「……そう、ですか」


 目を閉じた。予期していたことだ。父上の心臓は、もう限界だった。それでも、こんなにも早く、こんなタイミングで、とは思わなかった。


「お嬢様」


 ゴドリックが、懐から一通の封書を取り出した。ソーンフィールド家の紋章が封蝋に刻まれている。


「それは……?」

「公爵閣下の遺言でございます。魔法契約として作成されており、閣下がご逝去されたとき、私の手元に転移されてまいりました」


 魔法契約。法的効力を持ち、違反すれば自動的に罰則が発動する、絶対的な契約だ。父上は、自分の死を予期して、これを用意していたのか。


 わたくしは封蝋を割って中の羊皮紙を広げた。父上の几帳面な文字で、文章がつづられていた。


『愛する娘、アラミンタへ


この手紙を読んでいるということは、私はもうこの世にいないのだろう。悲しむな。私は十分に生きた。そして、お前という誇り高い後継者を育て上げることができた。それだけで私の人生は成功だ。


お前は今日から、第十二代ソーンフィールド公爵だ。女子相続は認められている。誰もお前の継承を否定することはできない。


忘れるな、アラミンタ。お前は感情ではなく、理性で動け。公爵とは、個人ではない。家であり、領地であり、数十万の領民の生活そのものだ。


お前なら必ずやり遂げられる。


私はいつもお前を誇りに思っている。


ペレグリン・オーガスタス・ソーンフィールド』


 文字が滲んだ。涙で。


 この夜、初めて泣いた。けれど、声を上げずに我慢する。ゴドリックは何も言わず、ただそこにいてくれた。


 いつまで泣いていたのだろう。時間の感覚がふやけていた。涙は止まっていた。顔を拭って顔を上げた。泣くのはこれで終わり。今からは、公爵として動かなければならない。


「ゴドリック」

「はい、お嬢様」

「いえ、これからは『公爵』とお呼びなさい」


 ゴドリックは、一瞬だけ目を見開き、深々と頭を下げた。


「かしこまりました、公爵閣下」

「今すぐ国王陛下に謁見を申し出てください。公爵位の継承を正式に承認していただく必要があります」

「すでに手配してございます。陛下は、控室でお待ちでいらっしゃいます」


 さすがはゴドリック。四十年の経験は伊達ではない。


「それから、もう一つ」


 立ち上がって、鏡で顔を確認する。涙の跡は残っていない。髪も乱れていない。完璧だ。


「公爵領の詳細な地図を、用意してください」


 ゴドリックは鋭い眼光でこちらを見返してきた。


「ウェストモーランド地方の詳細を、でございますね」

「ええ。特に、王太子殿下の居城の位置を明確にした地図を」


 執事長の口元に、僅かな笑みが浮かぶ。


「すでに、ご用意してございます」


 笑った。この老獪な執事は、全てを理解していた。


「では、参りましょう。国王陛下の下へ」



 控室の扉を開けると、そこには国王クエンティン陛下がいらっしゃった。五十二歳の国王は、精悍な顔立ちで、深い疲労の色を浮かべておられる。その隣には、王妃と、数名の重臣たちが控えていた。


 そして――ライサンダー殿下とタビサ嬢も、そこにいた。


 彼らを無視して国王陛下の前に進み、深々と一礼する。


「国王陛下。この度は、父の不幸に際し、お心遣いを賜り、深く感謝申し上げます」

「うむ。ソーンフィールド公爵の逝去は、王国にとって大きな損失だ。心から哀悼の意を表する」


 国王陛下は真摯な面持ちで応じられた。そして、わたくしの目を射抜くようにのぞき込まれた。


「アラミンタ・ソーンフィールド。お前は、父の跡を継ぐ覚悟はあるか」

「はい、陛下。わたくしは第十二代ソーンフィールド公爵として、家名と領地と領民を守る覚悟がございます」

「女子相続となるが、問題はないな」

「ソーンフィールド家においては、女子相続が認められております。先例もございます」

「よろしい」


 国王陛下は、傍らの重臣に頷かれた。重臣が魔法契約の書類を持ってくる。


「では、ここに署名をせよ。これにより、お前は正式に第十二代ソーンフィールド公爵となる」


 羽根ペンを手に取り、羊皮紙に署名した。アラミンタ・ヴェネティア・ソーンフィールド、と。


 その瞬間、魔法契約が発動した。羊皮紙が淡い光を放ち、手の甲に公爵家の紋章が浮かび上がった。一瞬の痛みの後、それは消える。分かる。たった今、血統魔法『真実の契約』が履行された。


 つまり継承が完了した、ということ。


「第十二代ソーンフィールド公爵、アラミンタ・ヴェネティア・ソーンフィールドの誕生を、ここに宣言する」


 国王陛下の声が、部屋に響いた。


 重臣たちが、一斉に跪く。これは儀礼だ。公爵は貴族の頂点に立ち、王族に次ぐ存在である。場合によっては王族と対等、あるいはそれ以上の権力を持つこともある。


 そんな中、一人だけ跪いていない者がいた。


 ライサンダー殿下だ。


 殿下は困惑した様子で立っている。おそらく、何が起きているのか、完全には理解していないのだろう。


「ゴドリック」背後に控える執事長を呼んだ。「地図を」

「かしこまりました」


 執事長が、大きな羊皮紙の地図を広げた。それを、部屋の中央のテーブルに置く。


 ブリニア王国全土の地図だ。そして、そこには色分けされた領地が描かれている。

 最も広大な領地の一つが、青色で塗られている。ソーンフィールド公爵領だ。


「皆様、こちらをご覧くださいませ」


 地図を指さした。


「こちらが、ソーンフィールド公爵領でございます。北はコットンランド国境から、南はヨーグリーナ地方まで。東は北海沿岸から、西はスワークル海まで。総面積は約六百平方キロメートル、人口は約百五十万人でございます」


 重臣たちが頷く。誰もが知っている事実だ。ソーンフィールド家は、王国で最も広大な領地を持つ三公爵家の一つなのだ。


「そして、こちらがウェストモーランド地方でございます」


 わたくしは地図の中の一点を指さした。その場所は、青色で塗られていた。ソーンフィールド公爵領の色だ。


 そこには小さな城の絵が描かれている。


「これは……」ライサンダー殿下が、ようやく声を出した。「これは、俺の居城だ。ウェストモーランド城だ」


「その通りでございます、殿下」


 わたくしは冷静に応じた。ここで感情を出してはならない。


「ウェストモーランド地方は、ソーンフィールド公爵領内にございます。したがいまして、殿下の居城も、わたくしの領地の中にあるということになりますわ」


 室内が静まり返った。


 ライサンダー殿下は、青ざめた顔で地図を凝視している。タビサ嬢は、状況が理解できないという様子だ。


 重臣たちは、複雑な面持ちで沈黙している。そして国王陛下は――頭を抱えておられた。


「殿下、ご存知でしたか?」努めて優雅に微笑む。「殿下の居城は、わたくしの領地内にございます。貴族法第三十七条により、公爵は領地内の全ての土地、建物、住民に対して、行政権と徴税権を有します」


 ゴドリックが、すかさず別の書類を取り出す。


「こちらが、貴族法の該当条文でございます。そして、こちらが土地台帳の写しでございます。ウェストモーランド城の所在地は、明確にソーンフィールド公爵領内と記録されております」


 完璧だ。法的に何の問題もない。

 ライサンダー殿下が、ようやく声を絞り出した。


「ま、待て……そんな馬鹿な。俺は王太子だぞ。王族だ。公爵ごときが――」

「殿下」


 声のトーンを少し下げた。


「貴族法第四十二条をご存知ですか? 『王族といえども、公爵領内においては一領民として扱われ、公爵の許可なくして居住することはできない』と記されております」


 ライサンダー殿下の顔から、血の気が引いてゆく。


「つまり、殿下」


 はっきりと告げた。


「殿下は今、わたくしの領地に、わたくしの許可なく居住しておられるということになります」


 誰かの息を呑む音が響いた。


 国王陛下が、重い声で口にされた。


「ソーンフィールド公爵。何か妥協案はないか」

「ございます、陛下」


 三本の指を立てた。


「殿下には、三つの選択肢がございます」


 全員の視線が、こちらに集中する。


「第一、臣下としてわたくしに跪き、正式に領地使用の許可を請うこと」


 ライサンダー殿下が、悔しそうに歯を食いしばった。


「第二、ウェストモーランド城を明け渡し、別の場所に居を移すこと」


 タビサ嬢が小さく悲鳴を上げた。


「第三、領地使用料として、年間で金貨十万枚をわたくしに支払うこと」


 金貨十万枚。王太子の年間収入の約半分に相当する額だ。


 ライサンダー殿下は、震える声で口にした。


「そんな……そんな選択肢、選べるわけが……」

「選べませんか?」


 冷たい笑みを作って続ける。


「では、法に従い、強制退去の手続きを取らせていただきますわ。ソーンフィールド公爵家の私兵は、約五万人。ウェストモーランド城を包囲するのに、三日もあれば十分でしょう」


「ま、待て! 待ってくれ!」ライサンダー殿下が、初めて懇願の声を出した。「俺は……俺はどうすれば……」


 国王陛下へ顔を向けた。陛下は深い疲労と諦めの色を浮かべ、わずかに首を縦に振られた。


「陛下、一つ提案がございます」

「申してみよ」

「わたくしは、殿下に恨みはございません。婚約破棄も、殿下のお気持ちによるものでしたら、それはそれで結構です」


 これは本心だ。感情的な恨みなど、公爵家の運営には不要だ。


「しかしながら、公爵家の威厳は守らせていただきます。つきましては、以下の条件を提示させていただきますわ」


 四本の指を立てた。


「第一、王太子殿下は、本日の婚約破棄について、公式に謝罪すること。形式だけで結構です。公爵家の面目が保たれれば」


 ライサンダー殿下は、苦々しい様子を見せながらも、反論はしなかった。


「第二、タビサ・ラヴェンダー嬢との結婚は認めます。ただし、王太子妃としてではなく、側室としての地位に留めること」


 タビサ嬢が顔を上げた。その瞳には涙が浮かんでいた。感情的になるなんて、生ぬるい。それでも貴族か。


「子爵令嬢が、いきなり王太子妃になれば、貴族社会の秩序が乱れます。それは王国のためになりません」

「……その通りだ」


 国王陛下は重々しく肯定された。


「第三、今後、公爵家の特権を侵害しないこと。これは魔法契約で誓約していただきます」


「む……」


「第四、領地使用料は免除いたします。ただし、正式な契約書を交わし、わたくしの許可のもとでウェストモーランド城を使用していただくという形を取らせていただきます」


 これが落としどころだ。実利は取らず、形式と権利だけを明確にする。これならば、王室の面目も、公爵家の威厳も、両方が保たれる。


「ライサンダー」国王陛下が息子の名を呼ばれた。「お前は、どうする?」


 ライサンダー殿下は、長い沈黙の後、ようやく口を開いた。


「……謝罪する」


 その声は震えていた。プライドと現実の狭間で、激しく葛藤しているのが分かる。


 選択肢はない。公爵家の力を、この方は思い知ったのだ。


 ライサンダー殿下は、ゆっくりと膝をついた。王太子が、公爵の前に跪く。本来ならあり得ない光景だ。


「アラミンタ・ソーンフィールド公爵」


 殿下は苦渋に満ちた顔で口にした。


「本日の婚約破棄について、不適切な方法を取ったことを謝罪する。そして、貴女の領地使用の許可を、正式に請う」


 優雅に首を縦に振った。


「許可いたします、ライサンダー・エドワード・ブリニア殿下。今後とも、良き隣人としてお付き合いくださいませ」


 手を差し伸べた。殿下はその手を取って立ち上がる。


「ゴドリック、契約書を」

「かしこまりました」


 執事長が、すでに用意していた契約書を取り出す。さすがだ。


 契約書には、先ほど提示した四つの条件が、法的に正確な文言で記されていた。ライサンダー殿下と署名し、国王陛下が証人として署名される。


 そして、血統魔法『真実の契約』を発動させた。


 契約書が淡い光を放ち、魔法の力が文字に宿る。これで、契約違反は自動的に罰則が発動する。完璧で絶対的な契約だ。


「契約、成立でございます」


 満足して微笑んだ。全てが終わった。


 婚約が破棄されたとき、父も亡くなった。けれども、わたくしが公爵となり、領主として王太子よりも上位の立場を得た。


 失ったものは大きすぎるが、得たものも大きい。


 そして何より――公爵家の誇りは、守られた。



 三ヶ月後。


 ソーンフィールド公爵邸の執務室で、わたくしは山のような書類に目を通していた。領地の税収報告、農業生産の統計、商業ギルドとの交渉記録、司法案件の裁定書類――公爵の仕事は、想像以上に多岐にわたる。


 それでも、わたくしは充実していた。父から受け継いだ教育のおかげで、財政管理も法律知識も十分にある。領民たちも、新しい公爵を受け入れてくれた。女性の公爵は珍しいが、ソーンフィールド家には先例がある。そして何より、わたくしは結果を出していた。


 税制改革により農民の負担を軽減し、商業振興策により領地の収入を増やし、司法改革により裁判の公平性を高めた。三ヶ月で、領地の雰囲気は明らかに変わった。


 執務室の扉が、ノックされた。


「どうぞ」


 ゴドリックが入ってきた。いつも通り、完璧な執事姿だ。


「公爵閣下、国王陛下からの親書が届いております」

「読み上げてください」

「かしこまりました」


 ゴドリックが、封蝋を割って親書を読み上げた。


「では……『ソーンフィールド公爵殿。貴女の手腕に、心から敬意を表する。王国の安定は、貴女のような賢明な公爵によって支えられている。今後とも、王国のために尽力されることを期待する。クエンティン』」


「陛下らしい簡潔な文面ですわね」


 笑みがこぼれる。国王陛下とはあれ以来、良好な関係を保っている。むしろ、息子の暴走を止めてくれたことに感謝されているくらいだ。


「それから、もう一つ」

「何ですか?」

「ウェストモーランド城からの報告でございます」


 ゴドリックの口元に、僅かな笑み。いや、ちょっと意地悪な笑みだった。


「王太子殿下とタビサ様は、最近、頻繁に口論をされているとのことです」

「んまあ」


 特に驚きもせずに言った。


「現実的に考えれば分かりそうなものを……あの立ち位置は厳しい、ということですわね」


 恋愛だけで生きていけるほど、貴族社会は甘くない。ライサンダー殿下は、それを学んでいるのだろう。タビサ嬢も、王太子妃になれなかったことで、思い描いていた未来が崩れたはずだ。


 二人が幸せになるかどうかは、もはやわたくしの知ったことではない。


「それでは、出かけましょうか」


 わたくしは立ち上がった。


「どちらへ?」

「父上のお墓です。報告しなければならないことがあります」



 ソーンフィールド家の墓地は、公爵邸の裏手にある丘の上にある。十二代にわたる公爵たちが、ここに眠っているのだ。


 最も新しい墓石の前に、わたくしは立つ。第十一代ソーンフィールド公爵、ペレグリン・オーガスタス・ソーンフィールド。享年五十九歳。


 白い花を供え、わたくしは膝をついた。


「父上……」小さく語りかける。「わたくし、やり遂げましたわ。公爵家の威厳を、領地を、領民を、全て守りました」


 風が優しく頬を撫でた。


「婚約は破棄されました。でも、構いません。あれは政略結婚でしたもの。愛情など、最初からありませんでしたわ」


 本心だ。ライサンダー殿下への未練など、微塵もない。


「父上が亡くなられて、わたくしは公爵になりました。最初は、あまりにも急で、あまりにも重くて、押し潰されそうでした」


 三ヶ月前の夜を思い出す。舞踏会で、全てが変わったあの夜を。


「でも、今は違います。わたくしは、この責任を誇りに思っています。公爵として、領民たちの生活を支え、王国の安定に貢献する。それが、わたくしの生きる意味ですわ」


 墓石に手を置く。冷たい石の感触が、掌に伝わる。


「父上、見ていてくださいね。わたくしは、必ず立派な公爵になります。父上が誇れるような公爵に」


 わたくしが顔を向けると、ゴドリックは深々と頭を下げた。彼は少し離れた場所に佇んでいた。


「お嬢様、いえ、公爵閣下」

「はい?」

「お見事でございました」


 その言葉に、心の底から笑った。あなたも、ノリノリで書類を準備していたでしょ、と。


「ありがとう、ゴドリック。これからも、よろしくお願いいたしますわ」

「かしこまりました。この老骨、公爵閣下のために尽くす所存でございます」


 丘の上から領地を見渡す。広大な土地、点在する村々、遠くに見える街の輪郭。全てが、わたくしの責任。全てが、わたくしの誇り。


 再び風が吹いた。『行け』と、父が背中を押してくれているような感覚。


 わたくしは、アラミンタ・ヴェネティア・ソーンフィールド。第十二代ソーンフィールド公爵。


 新しい人生が、これから始まる。




(了)

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― 新着の感想 ―
位置関係がよくわからないのですが、公爵領って王都の隣にでもあるんですか?そうだとしても王都の王城に王子が住んでない理由ってなんなのでしょう?「郊外」にある離宮に住んでるならもはや王太子の役割なんかでき…
王太子妃より先に側妃が決まったってこと、ですよねぇ?タビサが側妃で殿下の寵愛を受けていたと考えて、これから王太子妃になりたいという人はいるのかなあ?ってか、王太子なのに王城に住んでいないのか。
今後は婿取りが難しそう〜〜最悪種だけ貰って子どもを産めば跡取りなのは確実だから問題はない?かも??これだけ大きな領地と権力を持つ家に婿入させる家は力がありすぎるとマズイですものね…だからといって能力が…
感想一覧
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