父の急逝で、わたくしが公爵になりました ~王太子殿下、浮気したり婚約破棄してる場合じゃありませんよ?
春の王宮大舞踏会。水晶のシャンデリアに灯る無数の蝋燭が、磨き上げられた大理石の床に揺らめく光を投げかけていた。楽団の奏でるワルツに合わせ、色とりどりのドレスが花のように回転する。ブリニア王国の社交シーズンを飾る、最も華やかな夜だ。
わたくしはライサンダー殿下の手に導かれ、舞踏会場の中央を滑るように進む。深い青みがかった黒のドレスは、動くたびに刺繍が煌めく。優美な笑みを浮かべ、完璧なステップを刻む。ソーンフィールド公爵家の令嬢として、王太子の婚約者として、誰もが期待する姿を演じ続ける。
けれど、不安が胸の底に澱のように溜まっていた。
父上の容態が、この数日で急激に悪化している。今朝も執事長のゴドリックが深刻な面持ちで報告に来た。心臓の持病が限界に近づいている、と。本来ならば、こんな舞踏会に出席している場合ではない。しかし父上は首を横に振った。「お前は公爵家の顔だ。王太子との婚約を世間に示すことが、今のお前の責務だ」と。
責務。そう、わたくしには責務がある。個人的な心配よりも、家名を、領地を、領民を守る責務が。
「アラミンタ」
ライサンダー殿下の声で、わたくしはさらに笑みを浮かべる。殿下は妙に浮かれた様子で、いつもより饒舌だ。何か嬉しいことでもあったのだろうか。
「はい、殿下」
「今夜は特別な夜になるぞ」
その言葉に込められた奇妙な高揚感に、僅かな違和感を覚える。だが、それが何を意味するのか分からなかった。
曲が終わりに近づく。最後の旋律が流れ、ライサンダー殿下が優雅な決めのポーズを取ろうとした、その瞬間。
殿下が手を離した。
突然の動きに体勢を崩しかけたが、辛うじて自力で姿勢を立て直す。何事か、と顔を上げれば、ライサンダー殿下は数歩後退し、距離を取っていた。
彼は楽団に向かって手を上げた。
「音楽を止めろ!」
殿下の大声が舞踏会場に響き渡った。楽団が戸惑いながらも演奏を止める。会場が静まり返る。数百人の視線が、舞踏会場の中央に集中した。
胸騒ぎが止まらない。
「皆、よく聞け!」
ライサンダー殿下は、勝利を宣言する将軍のように胸を張る。その様子は少し前と異なり、酷く歪んだ高揚感が滲んでいた。
「俺は今夜、重大な発表をする!」
ざわめきが広がる。動かなかった。動けなかった。次に来る言葉が、どれほど破滅的なものか、本能的に理解していた。
「アラミンタ・ソーンフィールド!」殿下がわたくしの名を高らかに呼ぶ。「貴女との婚約を、ここに破棄する!」
会場が、凍りついた。
誰もが息を呑み、誰もが動きを止めた。シャンデリアの炎だけが、変わらずに揺らめいていた。
わたくしはただ立っていた。顔色一つ変えずに。心臓は驚くほど静かに鼓動を打っていた。これは現実なのだろうか。いや、現実だ。数百人の目の前で、王太子が婚約破棄を宣言した。あり得ないことが起きている。
「殿下」声を出した。自分でも驚くほど、冷静な声だった。「理由をお聞かせ願えますか?」
ライサンダー殿下は「待ってました」とばかりに答えた。
「お前は冷たすぎる。アラミンタには心がない。俺が求めているのは、もっと温かくて優しい女性だ」
殿下は舞踏会場の端を指さす。そこには、栗色の巻き毛を持つ少女が立っていた。大きな茶色の瞳を潤ませ、困惑したように立ち尽くしている。タビサ・コーデリア・ラヴェンダー。子爵令嬢で、最近王宮に出入りするようになった少女だ。
「タビサ、こっちに来い」
殿下の言葉に、タビサ嬢は戸惑いながらも近づいてくる。会場のざわめきが大きくなる。
「俺は真実の愛に目覚めた。この優しく、純粋な心を持つタビサこそが、俺にふさわしい女性だ!」
何という……何という浅はかさだろう。わたくしは内心で呆れながらも、表情を一切出さなかった。王太子が大勢の貴族の前で、公爵令嬢との婚約を破棄し、格下の子爵令嬢を選んだ。その政治的影響を、この方は理解していないのだろうか。
「承知いたしました、殿下」わたくしは優雅に一礼した。「では、正式な婚約破棄の手続きを進めさせていただきますわ。魔法契約の解除には、双方の同意と国王陛下の承認が必要ですので」
冷静すぎる対応に、ライサンダー殿下が一瞬、面食らったような表情を見せた。おそらく、わたくしが泣き崩れるか、懇願するか、そういった反応を期待していたのだろう。
けれど、そんな真似をするわけがない。公爵家の令嬢が、数百人の前で取り乱すなどあり得ない。
その時だった。
舞踏会場の扉が、勢いよく開いた。
うちの執事長、ゴドリックが血相を変えて駆け込んできた。六十七歳の老執事が、礼儀を忘れて走っている。その事実だけで、わたくしの心臓が冷たい水に沈んだような感覚に襲われた。
「お嬢様……!」
ゴドリックの声は震えていた。四十年間公爵家に仕え、どんな時も冷静沈着だった彼が、周囲の目を無視して狼狽している。
わたくしは次に来る言葉を悟った。
「公爵閣下が……」会場が、再び静まり返る。「心臓発作で……ご逝去されました」
時が止まった。
シャンデリアの光が、水の中のように歪んで見える。周囲のざわめきが、遠くから聞こえる波の音のように遠のいていく。
父上が。
父上が亡くなった。
この瞬間に。
婚約破棄を宣告された、この瞬間に。
わたくしの顔色が変わったのを、周囲は確実に見たはずだ。だが、わたくしはそれ以上、何も表に出さなかった。出せなかった。耐え抜いた。ここで取り乱せば、父上が生涯をかけて守ってきたソーンフィールド家の威厳が地に落ちる。
父上の声が脳裏に蘇る。
『アラミンタ。今のうちに言っておく。私が死んだら、お前は公爵だ。感情に負けるな。家を、領民を、誇りを守れ』
そうだ。泣いている場合ではない。
「失礼いたします、皆様。家族の不幸により、退席させていただきますわ」
わたくしは会場に向かって、可能な限り平静を装って一礼をする。
そして、ゴドリックに向かって歩き出した。一歩、また一歩。背筋を伸ばし、優雅に。公爵令嬢として、最後まで。
会場の貴族たちが道を開けた。誰もが複雑な表情でわたくしを見ている。同情、驚愕、興味、計算、様々な感情が入り混じった視線が背中に突き刺さる。
ライサンダー殿下は、呆然と立ち尽くしていた。タビサ嬢も、青ざめた顔で固まっていた。
わたくしは振り返らずに舞踏会場を後にした。
*
舞踏会場に隣接する控室に入ると、膝の力が抜けそうになった。だが、ゴドリックがすぐに椅子を用意してくれた。そこに腰を下ろして深呼吸をする。
「詳しく聞かせてください」
ゴドリックは苦渋の表情で報告を始めた。
「今宵の八時頃でございました。公爵閣下は書斎で執務をされておりました。突然、胸を押さえて倒れられ……侍医が駆けつけましたが、手の施しようがございませんでした」
「……そう、ですか」
目を閉じた。予期していたことだ。父上の心臓は、もう限界だった。それでも、こんなにも早く、こんなタイミングで、とは思わなかった。
「お嬢様」
ゴドリックが、懐から一通の封書を取り出した。ソーンフィールド家の紋章が封蝋に刻まれている。
「それは……?」
「公爵閣下の遺言でございます。魔法契約として作成されており、閣下がご逝去されたとき、私の手元に転移されてまいりました」
魔法契約。法的効力を持ち、違反すれば自動的に罰則が発動する、絶対的な契約だ。父上は、自分の死を予期して、これを用意していたのか。
わたくしは封蝋を割って中の羊皮紙を広げた。父上の几帳面な文字で、文章がつづられていた。
『愛する娘、アラミンタへ
この手紙を読んでいるということは、私はもうこの世にいないのだろう。悲しむな。私は十分に生きた。そして、お前という誇り高い後継者を育て上げることができた。それだけで私の人生は成功だ。
お前は今日から、第十二代ソーンフィールド公爵だ。女子相続は認められている。誰もお前の継承を否定することはできない。
忘れるな、アラミンタ。お前は感情ではなく、理性で動け。公爵とは、個人ではない。家であり、領地であり、数十万の領民の生活そのものだ。
お前なら必ずやり遂げられる。
私はいつもお前を誇りに思っている。
ペレグリン・オーガスタス・ソーンフィールド』
文字が滲んだ。涙で。
この夜、初めて泣いた。けれど、声を上げずに我慢する。ゴドリックは何も言わず、ただそこにいてくれた。
いつまで泣いていたのだろう。時間の感覚がふやけていた。涙は止まっていた。顔を拭って顔を上げた。泣くのはこれで終わり。今からは、公爵として動かなければならない。
「ゴドリック」
「はい、お嬢様」
「いえ、これからは『公爵』とお呼びなさい」
ゴドリックは、一瞬だけ目を見開き、深々と頭を下げた。
「かしこまりました、公爵閣下」
「今すぐ国王陛下に謁見を申し出てください。公爵位の継承を正式に承認していただく必要があります」
「すでに手配してございます。陛下は、控室でお待ちでいらっしゃいます」
さすがはゴドリック。四十年の経験は伊達ではない。
「それから、もう一つ」
立ち上がって、鏡で顔を確認する。涙の跡は残っていない。髪も乱れていない。完璧だ。
「公爵領の詳細な地図を、用意してください」
ゴドリックは鋭い眼光でこちらを見返してきた。
「ウェストモーランド地方の詳細を、でございますね」
「ええ。特に、王太子殿下の居城の位置を明確にした地図を」
執事長の口元に、僅かな笑みが浮かぶ。
「すでに、ご用意してございます」
笑った。この老獪な執事は、全てを理解していた。
「では、参りましょう。国王陛下の下へ」
*
控室の扉を開けると、そこには国王クエンティン陛下がいらっしゃった。五十二歳の国王は、精悍な顔立ちで、深い疲労の色を浮かべておられる。その隣には、王妃と、数名の重臣たちが控えていた。
そして――ライサンダー殿下とタビサ嬢も、そこにいた。
彼らを無視して国王陛下の前に進み、深々と一礼する。
「国王陛下。この度は、父の不幸に際し、お心遣いを賜り、深く感謝申し上げます」
「うむ。ソーンフィールド公爵の逝去は、王国にとって大きな損失だ。心から哀悼の意を表する」
国王陛下は真摯な面持ちで応じられた。そして、わたくしの目を射抜くようにのぞき込まれた。
「アラミンタ・ソーンフィールド。お前は、父の跡を継ぐ覚悟はあるか」
「はい、陛下。わたくしは第十二代ソーンフィールド公爵として、家名と領地と領民を守る覚悟がございます」
「女子相続となるが、問題はないな」
「ソーンフィールド家においては、女子相続が認められております。先例もございます」
「よろしい」
国王陛下は、傍らの重臣に頷かれた。重臣が魔法契約の書類を持ってくる。
「では、ここに署名をせよ。これにより、お前は正式に第十二代ソーンフィールド公爵となる」
羽根ペンを手に取り、羊皮紙に署名した。アラミンタ・ヴェネティア・ソーンフィールド、と。
その瞬間、魔法契約が発動した。羊皮紙が淡い光を放ち、手の甲に公爵家の紋章が浮かび上がった。一瞬の痛みの後、それは消える。分かる。たった今、血統魔法『真実の契約』が履行された。
つまり継承が完了した、ということ。
「第十二代ソーンフィールド公爵、アラミンタ・ヴェネティア・ソーンフィールドの誕生を、ここに宣言する」
国王陛下の声が、部屋に響いた。
重臣たちが、一斉に跪く。これは儀礼だ。公爵は貴族の頂点に立ち、王族に次ぐ存在である。場合によっては王族と対等、あるいはそれ以上の権力を持つこともある。
そんな中、一人だけ跪いていない者がいた。
ライサンダー殿下だ。
殿下は困惑した様子で立っている。おそらく、何が起きているのか、完全には理解していないのだろう。
「ゴドリック」背後に控える執事長を呼んだ。「地図を」
「かしこまりました」
執事長が、大きな羊皮紙の地図を広げた。それを、部屋の中央のテーブルに置く。
ブリニア王国全土の地図だ。そして、そこには色分けされた領地が描かれている。
最も広大な領地の一つが、青色で塗られている。ソーンフィールド公爵領だ。
「皆様、こちらをご覧くださいませ」
地図を指さした。
「こちらが、ソーンフィールド公爵領でございます。北はコットンランド国境から、南はヨーグリーナ地方まで。東は北海沿岸から、西はスワークル海まで。総面積は約六百平方キロメートル、人口は約百五十万人でございます」
重臣たちが頷く。誰もが知っている事実だ。ソーンフィールド家は、王国で最も広大な領地を持つ三公爵家の一つなのだ。
「そして、こちらがウェストモーランド地方でございます」
わたくしは地図の中の一点を指さした。その場所は、青色で塗られていた。ソーンフィールド公爵領の色だ。
そこには小さな城の絵が描かれている。
「これは……」ライサンダー殿下が、ようやく声を出した。「これは、俺の居城だ。ウェストモーランド城だ」
「その通りでございます、殿下」
わたくしは冷静に応じた。ここで感情を出してはならない。
「ウェストモーランド地方は、ソーンフィールド公爵領内にございます。したがいまして、殿下の居城も、わたくしの領地の中にあるということになりますわ」
室内が静まり返った。
ライサンダー殿下は、青ざめた顔で地図を凝視している。タビサ嬢は、状況が理解できないという様子だ。
重臣たちは、複雑な面持ちで沈黙している。そして国王陛下は――頭を抱えておられた。
「殿下、ご存知でしたか?」努めて優雅に微笑む。「殿下の居城は、わたくしの領地内にございます。貴族法第三十七条により、公爵は領地内の全ての土地、建物、住民に対して、行政権と徴税権を有します」
ゴドリックが、すかさず別の書類を取り出す。
「こちらが、貴族法の該当条文でございます。そして、こちらが土地台帳の写しでございます。ウェストモーランド城の所在地は、明確にソーンフィールド公爵領内と記録されております」
完璧だ。法的に何の問題もない。
ライサンダー殿下が、ようやく声を絞り出した。
「ま、待て……そんな馬鹿な。俺は王太子だぞ。王族だ。公爵ごときが――」
「殿下」
声のトーンを少し下げた。
「貴族法第四十二条をご存知ですか? 『王族といえども、公爵領内においては一領民として扱われ、公爵の許可なくして居住することはできない』と記されております」
ライサンダー殿下の顔から、血の気が引いてゆく。
「つまり、殿下」
はっきりと告げた。
「殿下は今、わたくしの領地に、わたくしの許可なく居住しておられるということになります」
誰かの息を呑む音が響いた。
国王陛下が、重い声で口にされた。
「ソーンフィールド公爵。何か妥協案はないか」
「ございます、陛下」
三本の指を立てた。
「殿下には、三つの選択肢がございます」
全員の視線が、こちらに集中する。
「第一、臣下としてわたくしに跪き、正式に領地使用の許可を請うこと」
ライサンダー殿下が、悔しそうに歯を食いしばった。
「第二、ウェストモーランド城を明け渡し、別の場所に居を移すこと」
タビサ嬢が小さく悲鳴を上げた。
「第三、領地使用料として、年間で金貨十万枚をわたくしに支払うこと」
金貨十万枚。王太子の年間収入の約半分に相当する額だ。
ライサンダー殿下は、震える声で口にした。
「そんな……そんな選択肢、選べるわけが……」
「選べませんか?」
冷たい笑みを作って続ける。
「では、法に従い、強制退去の手続きを取らせていただきますわ。ソーンフィールド公爵家の私兵は、約五万人。ウェストモーランド城を包囲するのに、三日もあれば十分でしょう」
「ま、待て! 待ってくれ!」ライサンダー殿下が、初めて懇願の声を出した。「俺は……俺はどうすれば……」
国王陛下へ顔を向けた。陛下は深い疲労と諦めの色を浮かべ、わずかに首を縦に振られた。
「陛下、一つ提案がございます」
「申してみよ」
「わたくしは、殿下に恨みはございません。婚約破棄も、殿下のお気持ちによるものでしたら、それはそれで結構です」
これは本心だ。感情的な恨みなど、公爵家の運営には不要だ。
「しかしながら、公爵家の威厳は守らせていただきます。つきましては、以下の条件を提示させていただきますわ」
四本の指を立てた。
「第一、王太子殿下は、本日の婚約破棄について、公式に謝罪すること。形式だけで結構です。公爵家の面目が保たれれば」
ライサンダー殿下は、苦々しい様子を見せながらも、反論はしなかった。
「第二、タビサ・ラヴェンダー嬢との結婚は認めます。ただし、王太子妃としてではなく、側室としての地位に留めること」
タビサ嬢が顔を上げた。その瞳には涙が浮かんでいた。感情的になるなんて、生ぬるい。それでも貴族か。
「子爵令嬢が、いきなり王太子妃になれば、貴族社会の秩序が乱れます。それは王国のためになりません」
「……その通りだ」
国王陛下は重々しく肯定された。
「第三、今後、公爵家の特権を侵害しないこと。これは魔法契約で誓約していただきます」
「む……」
「第四、領地使用料は免除いたします。ただし、正式な契約書を交わし、わたくしの許可のもとでウェストモーランド城を使用していただくという形を取らせていただきます」
これが落としどころだ。実利は取らず、形式と権利だけを明確にする。これならば、王室の面目も、公爵家の威厳も、両方が保たれる。
「ライサンダー」国王陛下が息子の名を呼ばれた。「お前は、どうする?」
ライサンダー殿下は、長い沈黙の後、ようやく口を開いた。
「……謝罪する」
その声は震えていた。プライドと現実の狭間で、激しく葛藤しているのが分かる。
選択肢はない。公爵家の力を、この方は思い知ったのだ。
ライサンダー殿下は、ゆっくりと膝をついた。王太子が、公爵の前に跪く。本来ならあり得ない光景だ。
「アラミンタ・ソーンフィールド公爵」
殿下は苦渋に満ちた顔で口にした。
「本日の婚約破棄について、不適切な方法を取ったことを謝罪する。そして、貴女の領地使用の許可を、正式に請う」
優雅に首を縦に振った。
「許可いたします、ライサンダー・エドワード・ブリニア殿下。今後とも、良き隣人としてお付き合いくださいませ」
手を差し伸べた。殿下はその手を取って立ち上がる。
「ゴドリック、契約書を」
「かしこまりました」
執事長が、すでに用意していた契約書を取り出す。さすがだ。
契約書には、先ほど提示した四つの条件が、法的に正確な文言で記されていた。ライサンダー殿下と署名し、国王陛下が証人として署名される。
そして、血統魔法『真実の契約』を発動させた。
契約書が淡い光を放ち、魔法の力が文字に宿る。これで、契約違反は自動的に罰則が発動する。完璧で絶対的な契約だ。
「契約、成立でございます」
満足して微笑んだ。全てが終わった。
婚約が破棄されたとき、父も亡くなった。けれども、わたくしが公爵となり、領主として王太子よりも上位の立場を得た。
失ったものは大きすぎるが、得たものも大きい。
そして何より――公爵家の誇りは、守られた。
*
三ヶ月後。
ソーンフィールド公爵邸の執務室で、わたくしは山のような書類に目を通していた。領地の税収報告、農業生産の統計、商業ギルドとの交渉記録、司法案件の裁定書類――公爵の仕事は、想像以上に多岐にわたる。
それでも、わたくしは充実していた。父から受け継いだ教育のおかげで、財政管理も法律知識も十分にある。領民たちも、新しい公爵を受け入れてくれた。女性の公爵は珍しいが、ソーンフィールド家には先例がある。そして何より、わたくしは結果を出していた。
税制改革により農民の負担を軽減し、商業振興策により領地の収入を増やし、司法改革により裁判の公平性を高めた。三ヶ月で、領地の雰囲気は明らかに変わった。
執務室の扉が、ノックされた。
「どうぞ」
ゴドリックが入ってきた。いつも通り、完璧な執事姿だ。
「公爵閣下、国王陛下からの親書が届いております」
「読み上げてください」
「かしこまりました」
ゴドリックが、封蝋を割って親書を読み上げた。
「では……『ソーンフィールド公爵殿。貴女の手腕に、心から敬意を表する。王国の安定は、貴女のような賢明な公爵によって支えられている。今後とも、王国のために尽力されることを期待する。クエンティン』」
「陛下らしい簡潔な文面ですわね」
笑みがこぼれる。国王陛下とはあれ以来、良好な関係を保っている。むしろ、息子の暴走を止めてくれたことに感謝されているくらいだ。
「それから、もう一つ」
「何ですか?」
「ウェストモーランド城からの報告でございます」
ゴドリックの口元に、僅かな笑み。いや、ちょっと意地悪な笑みだった。
「王太子殿下とタビサ様は、最近、頻繁に口論をされているとのことです」
「んまあ」
特に驚きもせずに言った。
「現実的に考えれば分かりそうなものを……あの立ち位置は厳しい、ということですわね」
恋愛だけで生きていけるほど、貴族社会は甘くない。ライサンダー殿下は、それを学んでいるのだろう。タビサ嬢も、王太子妃になれなかったことで、思い描いていた未来が崩れたはずだ。
二人が幸せになるかどうかは、もはやわたくしの知ったことではない。
「それでは、出かけましょうか」
わたくしは立ち上がった。
「どちらへ?」
「父上のお墓です。報告しなければならないことがあります」
*
ソーンフィールド家の墓地は、公爵邸の裏手にある丘の上にある。十二代にわたる公爵たちが、ここに眠っているのだ。
最も新しい墓石の前に、わたくしは立つ。第十一代ソーンフィールド公爵、ペレグリン・オーガスタス・ソーンフィールド。享年五十九歳。
白い花を供え、わたくしは膝をついた。
「父上……」小さく語りかける。「わたくし、やり遂げましたわ。公爵家の威厳を、領地を、領民を、全て守りました」
風が優しく頬を撫でた。
「婚約は破棄されました。でも、構いません。あれは政略結婚でしたもの。愛情など、最初からありませんでしたわ」
本心だ。ライサンダー殿下への未練など、微塵もない。
「父上が亡くなられて、わたくしは公爵になりました。最初は、あまりにも急で、あまりにも重くて、押し潰されそうでした」
三ヶ月前の夜を思い出す。舞踏会で、全てが変わったあの夜を。
「でも、今は違います。わたくしは、この責任を誇りに思っています。公爵として、領民たちの生活を支え、王国の安定に貢献する。それが、わたくしの生きる意味ですわ」
墓石に手を置く。冷たい石の感触が、掌に伝わる。
「父上、見ていてくださいね。わたくしは、必ず立派な公爵になります。父上が誇れるような公爵に」
わたくしが顔を向けると、ゴドリックは深々と頭を下げた。彼は少し離れた場所に佇んでいた。
「お嬢様、いえ、公爵閣下」
「はい?」
「お見事でございました」
その言葉に、心の底から笑った。あなたも、ノリノリで書類を準備していたでしょ、と。
「ありがとう、ゴドリック。これからも、よろしくお願いいたしますわ」
「かしこまりました。この老骨、公爵閣下のために尽くす所存でございます」
丘の上から領地を見渡す。広大な土地、点在する村々、遠くに見える街の輪郭。全てが、わたくしの責任。全てが、わたくしの誇り。
再び風が吹いた。『行け』と、父が背中を押してくれているような感覚。
わたくしは、アラミンタ・ヴェネティア・ソーンフィールド。第十二代ソーンフィールド公爵。
新しい人生が、これから始まる。
(了)
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