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スイッチ  作者: natsuki
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第四章 空白を埋めるもの

翔太は男の言葉を引きずりながら、瓦礫の街を歩いた。


――生きていたのに、なぜ何も知らないのか。

――なぜ自分だけが無傷なのか。


確かにそうだ。


あの事故で粉々になったはずの身体は、今もどこも痛まない。

骨も折れていない。擦り傷すらない。


「……俺は、本当に“死んだ”んじゃないのか……?」


心臓は動いている。息もできる。

だが、それが本当に“生きている証”だと、どうして言い切れる?



廃墟となった交差点を戻ると、道路脇に傾いた掲示板があった。

ガラスは割れ、紙は雨でにじんでいたが、かろうじて文字が読める。


「避難指示――○○区役所 臨時避難所」


翔太の目が見開かれた。

その場所は、妻・美沙が以前勤めていた区役所のすぐ近くだった。


「……美沙……」


胸の奥で名前を呼ぶと、握りしめていたスマホの画面が勝手に点灯した。


待受には、美沙と結菜の笑顔。

それが、この荒廃した世界とあまりに噛み合わず、逆に恐怖を煽った。


翔太は歩き出す。

無傷の身体。空白の三年。

その答えは、きっと“美沙の痕跡”に繋がっている。


区役所のあった方角へ、崩れたビルの影を縫うように進んでいった。


崩れたビル群を抜けると、区役所の建物が見えてきた。

窓は砕け落ち、壁面には黒ずんだ煤の跡が広がっている。

入口の自動ドアは外れ、無惨にねじ曲がったフレームだけが残っていた。


翔太は足を踏み入れた。

内部は湿気と埃の匂いに包まれている。

散乱する椅子。割れた蛍光灯。


そして壁に貼られたままの避難所案内図。


「……本当に、ここが……」


区役所だった面影はかろうじて残っていた。


だが、一番奥の大広間に入った瞬間、翔太は息を呑む。

床一面に散らばった紙の束。

めくれば、そのほとんどが「避難者名簿」だった。


汚れと湿気に滲んでいるが、手書きの名前がびっしりと並んでいる。

震える手でページを繰る。


――「佐藤 ……」


目が釘付けになった。

そこには確かに、「佐藤美沙」と記されていた。


しかし、その横には小さく赤いインクで書き足されている。


――「死亡」


翔太の視界がぐらりと揺れた。

喉が焼けるように熱くなり、思わず名簿を握りしめる。


「……嘘だ……」

さらにページをめくる。


「佐藤結菜」――その名前もあった。

だが横には、何も記されていない。


生死不明。

空白のまま残されたその一行が、逆に重く圧し掛かった。


翔太は膝から崩れ落ちた。

胸の奥で何かが悲鳴を上げる。

「結菜……まだ……生きてるのか……?」


震える声が、誰もいない大広間に吸い込まれていった。


名簿のページを握りしめたまま、翔太は深く息を吐いた。


「美沙……結菜……」


視線は止まったままの赤インクと空白に釘付けになる。


片方には冷酷に刻まれた「死亡」の二文字。

片方には何も記されない、余白。


翔太の中で、希望と絶望がせめぎ合った。

だが同時に、胸の奥に別の疑念が生まれる。


――なぜ自分だけが無傷なのか。

――三年間の記憶がまるでないのか。


「……俺は、本当に“ここを生きてきた”人間なのか……?」


自分が存在してきた証拠を探すように、大広間を歩き回る。

机の下、ロッカー、散乱した段ボール。


その中で、ひときわ乱雑に積まれた紙束に気づいた。

拾い上げると、それは避難所の記録用メモだった。


ボールペンの走り書き、震える文字。


――「水の配給、あと3日ぶん」

――「熱を出した子ども 隔離」

――「信じられる人間がいない」


そして最後のページ。


――「佐藤 美沙 容体悪化」

――「子どもは……」


文はそこで途切れていた。

ペンが途中で折れたように、線が乱れ、インクが飛んでいる。


翔太の手が震えた。


「子どもは……何だよ……」


言葉が宙に溶け、胸の奥で鈍い痛みに変わる。

その瞬間、翔太は気づいた。



――どの記録にも「自分の名前」がない。


名簿にも、配給メモにも、避難者リストにも。

妻と娘の名はある。だが、自分の痕跡はどこにも残っていなかった。


「……俺は、ここに……いなかったのか……?」


薄暗い空間で、紙束を握りしめる手が力を失った。

静寂の中に、自分の呼吸音だけがやけに響いた。


散らばった紙束を床に戻し、翔太はふらつく足取りで大広間を歩いた。

机の上には空のペットボトル、破れた毛布。


どれも人が必死に生き延びようとした痕跡だ。


――だが、妻の存在を示すものは、もっと“具体的な証拠”として欲しかった。

名簿やメモの文字ではなく、彼女自身の痕跡を。


そんな思いに突き動かされ、部屋の隅に積み上がったロッカーを覗き込む。

錆びついた扉を無理やりこじ開けると、くしゃくしゃに折れた布切れが落ちてきた。


翔太は思わず手を伸ばす。

白地に小さな花模様が散ったハンカチ。

角の部分には、かすかに見覚えのある刺繍が入っていた。


――「M・S」

美沙の名前の頭文字。

誕生日に、自分が冗談半分で贈った刺繍入りのものだった。


「……美沙」


指先で触れると、乾ききった布はざらついていたが、確かにそこに彼女が生きた証があった。

目の奥が熱くなる。


涙がこぼれる寸前で、翔太は必死に堪えた。


そのとき、布の奥からもうひとつ小さなものが転がり出た。

金属のプレート。


「区役所 職員証」と刻まれたケースに収まっている。

写真は擦れてほとんど見えなかったが、名前の欄には確かに「佐藤美沙」と記されていた。


震える手で握りしめながら、翔太は息を吐いた。


「やっぱり……ここにいたんだな」


名簿の赤いインク。

メモに残された「容体悪化」。

そして今、手の中にある彼女の私物。

全てが一点に結びついていた。


美沙は確かにここで生きて、そして――。


「……結菜は……?」


目を閉じると、娘の声が耳に蘇る。

“パパ、がんばってー!”


幻聴のように、胸を締め付けた。

翔太は立ち上がった。


足はまだ震えていたが、握りしめたハンカチと職員証が彼を支えていた。


「結菜……生きてるなら、必ず見つける」

そう呟き、崩れた避難所を後にした。

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