第三章 影を追って
翔太は立ち上がった。
膝に残る結菜のノートを握りしめたまま、公園の出口へ駆け出す。
「待ってくれ!」
影が消えた路地は細く、両脇の建物は崩れかけている。
窓ガラスは砕け、看板は落ち、風に煽られてカンカンと音を立てた。
その音に混じって、確かに“靴音”が響いていた。
タン、タン、タン――
誰かが走っている。
翔太は必死に追う。
だが、角を曲がるたびに影は遠ざかり、姿を見失いそうになる。
「待ってくれ! 俺は……ただ……」
声は荒く、喉が焼けつく。
息苦しさに足がもつれるが、それでも止まれなかった。
やがて広場に出た。
崩れ落ちたビルの合間にぽっかりと空いた空間。
そこに、影は立っていた。
背は高く、痩せている。
肩からはぼろ布のようなものを羽織り、顔はフードの影に隠れていた。
翔太が近づくと、その人物は一歩後ずさった。
だが逃げる様子はない。
距離を測るように、ただじっとこちらを見ている。
翔太は立ち止まり、震える声で言った。
「……頼む。俺の……家族を知らないか? 妻と、娘がいるんだ……」
沈黙。
風が吹き抜け、瓦礫の隙間で空き缶が転がる音だけが響いた。
やがて、フードの下からかすれた声が漏れた。
「……ここに……もう、人間なんて……いない」
翔太の背筋に冷たいものが走った。
「……どういうことだ?」
影は答えず、代わりにゆっくりとフードを外した。
露わになった顔は――人間のものだった。
だが、その頬はこけ、皮膚は土色に乾き、目の下には深い隈が刻まれている。
生きているのが不思議なほど、衰弱しきった姿だった。
「……あんた、よく……生きてたな」
男は、掠れた笑みを浮かべた。
「……世界がどうなったか、知りたいのか」
男は掠れた声で言い、崩れかけたベンチに腰を下ろした。
骨ばった指が震え、乾いた唇がひきつる。
「三年前までは普通だった。人も、店も、学校も……な。だが、ある日を境に崩れ始めた。最初は病だと思った。咳と熱。だが違った。これは、心を壊すやつだ」
「……心を?」
男はわずかに頷く。
「疑いが燃え広がった。食料も水も、信じ合うことすら奪い合いになった。やがて、この街は……空になった」
翔太の喉が鳴る。
バス停のランドセル、黒板の「また明日」、乾いたおにぎり——止まった日常の断片が頭の中で連鎖した。
「俺の家族を知らないか。妻の美沙と、娘の結菜だ」
呼吸に引っかかるような声で問う。
男は視線を外し、言葉を探すように空気を噛んだ。
「……名前までは、わからない。生き延びた奴は、ほとんど——」
言いさしたところで、男はふいに目を細めた。
ゆっくり立ち上がると、距離を詰め、翔太の肩口を指先でなぞる。
服の綻びも、擦過痕もない。手首を掴まれた感触に、血が逆流する。
「妙だな」
「……何が」
「お前の身体だ。無傷。指の腹は柔らかいまま、日焼けの境も浅い。ここで生きてた奴らの手じゃない。——それに」
男は顔を近づける。目の奥がひどく乾いて光った。
「お前、話を聞くたび、肝心なことを知らない顔をする。三年だぞ。生きてたなら、知らないわけがない」
言葉が胸骨に当たって跳ね返る。
「三年……?」
「惚けるな。日付くらいは見たんだろう」
視線が、ポケットのスマホに落ちた。
翔太は唇を噛み、言葉を選ぶ時間すらもてあそばれる。
「……今朝、交差点で事故に遭った。気づいたらここにいた。身体は……なぜか無傷で。だから、俺は——」
「だから、何も知らない?」
短い吐息が笑いにも溜息にもならず、男の喉で割れた。
「ここでは“忘れたふり”が一番嫌われる。逃げるために、嘘をつく奴を、俺は何人も見た。だが——」
男の視線が、翔太の腕に抱えた小さなノートへ落ちた。
色あせた表紙、滲んだインクの「パパにあいたい」。
「それは……誰のだ」
「娘の、結菜の」
沈黙が二人の間に立った。風が瓦礫の角を鳴らし、粉塵が光のない空にほどけていく。
男はほんのわずか肩の力を抜いた。
「無傷。何も知らない。——お前は、ここから外れているのかもしれない」
「外れている?」
「時間か、運命か、名のない何かからだ。三年を生きてきた者の匂いがしない。……だからこそ、怖いし、だからこそ、まだ道が残ってるのかもしれない」
背を向けかけて、男は振り返らずに言った。
「覚えとけ。“知らない”ことは、この街じゃ刃物だ。切れる先を間違えると、お前自身を切り裂く。——それでも進むなら、覚悟して行け」
ぼろ布の裾が風を孕み、影は瓦礫の間に溶けた。
翔太はその場に立ち尽くした。無傷の体と、空白の三年。
男の問いが、遅れて胸の内で響く。
——生きていたのに、なぜ何も知らない?
答えのない問いだけが、確かな痛みになって残った。




