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1-3 人の目嫌い

「おかえりなさい、おねえちゃん!」


 すぱん、と大きな音を立ててふすまが開かれる。萌奈は、今日もやはりノックをしなかった。萌奈は気にするそぶりもなく、


「おねえちゃん、きょうはずいぶんとおそかったんだね! 待ちくたびれちゃった。学校、たのしかった?」


 私が大きく頷くと、萌奈も満足げに頷いた。


「ゆうれいでも学校にかよえるって、すごいねえ」


 萌奈はくふふふふ、と笑う。

 若菜は、冷え込みが厳しくなってきた十一月初旬の夕暮れ時、死んだ。

 生まれた時から心臓に障害を持っていた若菜は、身体が極端に弱く、十歳までもたないだろうと診断されたという。それでも頑張り続けていればいつか皆と同じように起きて、ご飯を食べて学校へ行って部活をして、家に帰ってご飯を食べて家族団らんをしてお風呂に入って寝るというごく普通の生活が送れると思っていた。今年、やっと高校に入学できたのに、結局一日と通わずに終わってしまった。


 身体中の熱と力が抜け落ち、自分の全てが冷えて止まっていくのを感じながら、若菜は、どうしても学校に通ってみたい、入院ばかりしていた自分を毎日見舞い、可愛らしい笑顔で無邪気な愛を与えてくれた幼い妹を、姉として側で守りたいと願いながらも、そのまま醒めない眠りについた、はずだった。

 なのに次の瞬間には、自宅でひとり、立ち尽くしていたのだった。


 きっとどこかの神様が憐れんで、私の魂をこの世界に留めてくれたのだろうと、若菜は思う。

 若菜を認識できるのは、妹の萌奈だけだった。両親は彼女のことを目視できなかった。若菜は萌奈の後を追い己の葬式に出て、更に確信を得た。誰も、お坊さんですら若菜に視線を向けてこなかった。

 萌奈に対しては声が届かず、触ることも出来なかったが、若菜にとっては些細なことだった。あれほど苛まれていた他人の視線から解放され、自由でいられるのだから。


「もえなもね、きょうたのしかったよ! えっとね、同じクラスのみさきちゃんが……」

「萌奈、ご飯よ! そんなところにいないでさっさと来なさい!」


 萌奈はリビングからの呼び声に振り向き、助けを求めるように若菜の方へ向き直って、小さくうなだれた。


「あの子ったら、何かにつけて仏間に入り込むんだから! あなたからも言ってやってよ、気持ち悪いから止めなさいって! あの気味の悪い独り言も治らないし」

「場所もわきまえずに色んな場所でぺらぺらと話していた時よりましだろう。あの子だって寂しいんだよ。それにお姉ちゃんと話すためには仏間でないとダメだと理解できるようになったんだから、そう文句を言うな」

「あなたねえ、葬式の時の騒ぎ以来、うちが親戚やご近所さんにどんな風に言われてるか直接聞いてないからそうやってのんきに構えてられるのよ、若菜が生きてた時だって散々言われて大変だったのに!

 だいたい矢面に立たされるのはいつもいつも私ばっかり! あなたはなんにもしてくれない――」


 両親は、若菜が物心ついたときからよく言い合いをしていた。諍いの原因は大抵、若菜自身か若菜に関することだった。萌奈が生まれて数年は落ち着いていたものの、再び小さなことでもめるようになった。

 いつまでこの生活がつづくのか、いつ逃れられるのか、いつ、若菜は死ぬのか。終わりの見えない介護生活に、両親は疲弊していた。かといって当事者である若菜に対して直接話すわけにはいかない。二人は若菜に対し、常に笑顔で接して誤魔化そうとした。


 しかし、長い苦しみの中、二人はいつしか若菜に向けて探るような視線を向けるようになった。若菜を見たところで、求める答えなど得られるはずもないのに。

 更に、二人は若菜がその視線の意味を察していることに気づいていた。だからこそ、二人は互いに言い争うことでしか、悲しみも苦しみも怒りも発散できなかったのだと、若菜は思う。

 萌奈には辛い思いをさせている。まだ小さいのに、たったひとりで両親の怒鳴り合いを聞く羽目になっているからだ。


「おねえちゃん」


 困惑ぎみの声を出す萌奈に対し、若菜はリビングを指差し、次いで掌を上下に揺らす。

 萌奈がリビングに入れば、両親も少しは落ち着くはずだ。小さい我が子の目の前で争うなどという無分別なことはしないはずだし、そもそも言い争いの元凶である若菜はもういない。幽霊の若菜は彼らの目には見えない。きっと、もう暫くの辛抱だ。もう暫くすれば、何もかも落ち着くだろう。


「ここにいてね、おねえちゃん」


 若菜はそっと手を伸ばし、萌奈の頭を柔らかく撫でる仕草をする。萌奈の肌のぬくもりも、身体の重さも匂いも何もかも感じられない若菜が、ここ数日の間に編み出したやり方だ。真似事でしかないが、萌奈は喜んでくれる。

 案の定、萌奈はくふふと笑った。気を取り直したのか、(きびす)を返し部屋を出て行った。


 本当は抱き締めてあげたかった。触れることが叶わないのならばせめて、萌奈が傷ついた時には癒してあげたい。怖いものから遠ざけて、守ってあげたい。生きていた間は、全く出来なかったことだから。


 怖いもの、か。若菜は思い返した。

 そういえばあの名も知らぬ女生徒は、私が死んだことを知らなかったらしい。別のクラスだったとはいえ、何故私の情報を掴んでいなかったのだろう。観察が趣味だという割に世事に疎い人だったのか。それとも、教えてくれるような友人がいなかった?

 いや、単に彼女のクラスに情報が届くのよりも、彼女がヤツらに目を付けられる方が早かったのだろう。うちの両親か、学校の先生達が全生徒に情報を流すのを止めていたのかもしれない。

 私の席が空いているのはいつもの事だったし、特別親しい人もいなかった。先生達から伝えられなければ、私が死んだことなんて、生徒側は知るよしも無かっただろう。


 ともあれ、あの女の存在をヤツらに教えたのは私だ。

 ヤツらは学校の影の中、至る所にいる。日が落ち始めたら、校内の影は濃くなり、ヤツらは行動範囲を大幅に広げ活発になる。ヤツらに接触するのは意外と簡単なのだ。

 まあ、私を見ることが出来たのであれば、私が教えなくとも、早晩あの女自身がヤツらを目視して、ヤツらもあの女のことを認識していたに違いない。

 あの不躾な視線を送ってくる女、いまごろ髪の毛から足の爪の先まで嚙み砕かれ体液を吸われ、魂の欠片さえも残さず貪り喰われた頃だ。特にあの気色悪い目玉は丁寧に咀嚼するように進言しておいた。


 ああ、とても気分が良い。

 若菜はこれまでに感じたことのないくらいの満足度を覚えていた。嫌なものを自分の意志で徹底的に排除することが出来るなんて、生まれて初めてのことだった。今日は本当に、心の底から学校が楽しかった。

 それに案外、あの女は幸せを感じているかもしれない。ヤツらのいる場所はほの暗く、生暖かい。中に入れば、目も耳も口も鼻も手も、ありとあらゆる感覚が鈍くなって、ただ身を任せ、揺蕩(たゆた)うことが出来る。意思さえ手放してしまえば、全てを受け入れてもらえそうな心地良さがあった。

 後ろめたさはほんのちょっと。逃れられぬ底なし沼、でもきっと、永遠のゆりかごだ。


 ――あれ、何を考えていたのだっけ。そうだ、萌奈。

 私をこの世にとどめてくれた存在に感謝しなくては。あの名も知らない女生徒のように、妹が変なモノに惑わされ、連れていかれぬよう、私があの子を見守り続けられるのだから。

 萌奈は、父さんと母さんが、私の病が一生治ることがないと医師に告げられた後に作った子どもだ。彼女は二人の思惑通り、家族を照らす光となった。

 萌奈は天真爛漫に私に接してくれたし、単に先に生まれた姉、というだけでひたすらに私を慕ってくれた。私は歪んでいるのに、真っ直ぐに見つめ、信じてくれた唯一の存在。

 ああ、なんて可愛くて愛おしい。


 私はそんな萌奈の側に少しでも長くいるため、常に萌奈に視線を合わせないように細心の注意を払っていた。何故目を合わせないことが重要なのか、本当のところ、自分でもはっきり分からない。自分自身が視線を向けられることが嫌いで、忌避すべき行為だと考えているからかもしれない。願掛けに似ている気がする。とにかく、どんな迷信に縋りついても構わないくらい、萌奈の側にいて、大事に、大切にしたいのだ。


 でも、時々腹の底に、どす黒いものが侵食してくることがあった。

 萌奈は、壊れやすくいつ死んでもおかしくなかった私の代わりに生まれてきた子どもだ。元気で丈夫な萌奈がいれば、不良品の私など必要ない。父さんと母さんは私を諦めることにしたのだと、もう要らないと思われたのだと絶望した。私が死んだら、私は忘れられ、元からいなかったように振る舞われるのではないかと恐怖した。


 もしも、私に対して混じり気のない、親愛の情だけを浮かべる萌奈の瞳に少しでも変化が起こったら。全く別の感情が一筋でも混じっている萌奈の視線を、私が見てしまったら。

 きっと私は私を止められなくなる。


 庇護欲を掻き立てるはずの弱々しい肉厚で柔らかい腕やぽってりとしたお尻やもちもちの頬を乱暴に掴み汗と尿と涎とお乳の入り混じった小さい子独特の匂いを胸いっぱいに吸い込んで両手で捩じ切って喰い散らかしたい、ふっくら膨らんだお腹に手を突っ込んで引っ張り出した内臓を溢れ出る汁ごと全部嚙み砕き嚥下してやりたいという衝動に駆られる。優しい純粋無垢な魂を全て真っ黒に塗りつぶして、殴って踏んで破って粉々にして跡形もなく消し去りたいという欲求が燃えたぎる。

 あの子は嫌がるだろうか。あの女と同じように顔を歪ませて泣き叫んで助けを乞いながら逃げ惑うのだろうか。私はあの子を追い立て捕まえ、まんまるの目玉が大量の涙で覆われたところを抉り出し丸ごと飲み込み喉をずるりと通らせるのだろうか。でも、あの暗いところはきっと心地が良い。あの子も気に入るだろう。むしろ喜び、ありがとうお姉ちゃんと感謝されるかもしれない。

 ああ、視線が怖い。自分勝手な想いを含んだ他人の目が、私を苛立たせ、狂わせる。暴れて壊して、視界に入る全てを崩壊させたくなる。

 全部、全部全部全部、こっちを見るヤツらが悪い。


 ――あれ。

 まただ。若菜は頭を振った。

 またぼんやりしていた。何を考えていたっけ。まさか、短期の記憶喪失みたいなものだろうか。幽霊が記憶喪失だなんて笑わせる。私を助けた神様は、随分と中途半端な力の持ち主らしい。

 いや、もしかしたらこの世にいられるタイムリミットが近いのかもしれない。だとしたら尚のこと、萌奈の側にいられるようにしなければ。

 学校へ通い続けていたら、またあの女生徒のように、私を勝手に見る(やから)が現れないとも限らない。再び魑魅魍魎達を使って処分するのは、楽しいしすっきりはするけれど、余計な手間だし面倒だ。

 そうだ、もう学校へ行くのはやめよう。そして時間の許す限り、萌奈の側にいよう。

 私は萌奈のお姉ちゃんだ。萌奈を守れる、唯一の存在なのだから。






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