1-1 人の目嫌い
三谷藤若菜は人の視線が嫌いだった。視線を向けられることは、若菜にとって恐ろしく、吐き気を催すレベルで気持ちが悪いとまで感じていた。
魑魅魍魎に遭遇した時、視線が合わなければターゲットにされないのだと聞いたことがあった。互いに視認しないと、魑魅魍魎は人がそこに存在していると認識出来ないらしい。つまり目を背けさえすれば、そういう恐ろしい存在とは関わり合いを持たずに済む。
しかし人が相手だとそう簡単にはいかない。いくらこちらが見ていなくても、相手の視界に入れば勝手にこちらを認識されてしまう。全ての人の視線を避けて、関わらないように生きていくことなど不可能に近い。
なんと厄介で、理不尽なことか。
例えば長期入院で頬が痩け、目が落ち窪んで精気の無くなった顔をちらちらと窺うように見てくる他の患者の見舞客。皮と骨だけになった腕を恐る恐る持ち上げ、あばらの浮いた上半身を診察した後、少し離れたところでひそひそと話し合う医師や看護師達。ベッドに横たわった様子を凝視して、こちらが見返していることに気づくや否や、遠慮ない嘲笑と罵りをこちらに投げ付けて走り去っていく、同じ患者の子ども達。
絡みつく視線には人の思念が籠っている。憐憫、戸惑い、卑下、嫌悪。向けられている本人が実際のところどう考えているかなんて全くお構いなしの、うるさいくらいの決めつけをも内包する。
いくら顔を背けていても、病室にこもって寝たふりをしていても、彼らの視線は常にこちらを追いかけて来た。
もう、そういうものからは全部、逃れられたと思っていたのに。
「三谷藤、若菜さん?」
放課後、ひと気の無くなった廊下をひとりで歩いていた若菜の身体がびくりと揺れる。名を呼ばれるなど、想定外だったからだ。
声のする方へ顔を向けると、全く見覚えのない女生徒が立っていた。
同じクラスではなさそうだ。記憶を辿ってみても、覚えのある顔立ちではなかった。
「やっぱりあなたが三谷藤さん! ずっと入院してたんでしょ?」
女生徒はにっこりと笑いかけてきた。若菜は驚きと違和感が優って、相手を見返すことしかできなかった。
「へえ、学校に出て来られるくらいにはなったんだ。良かったじゃない」
話しながら、少しずつ詰め寄ってくる。女生徒は前かがみになり、下から真顔で若菜を覗き込んできた。じっとりとした、値踏みするような目つきだ。
しばらくすると、満足そうな笑顔を見せて姿勢を正した。
「ね、あたし、人を観察するのが趣味なんだ。いままで色んな人達を観察してきたの。たぶん他の人が気づいていないこと、たくさん知ってる」
女生徒は、ぱんっと両手を叩き、滔々と話し続ける。
「例えばあなたのクラスの林田さん。藤本君と付き合ってるけど、彼女の親友の古谷さんも、彼のことずっと前から好きだったの。態度からしてあからさまなのよね、秘密にしてるみたいだけど。面白いことに、おそらく気づいてないはずの藤本君が、二人の間で結構曖昧な態度を取るのよ。あの三人、とっても観察のしがいがあるの。
そうそう、あなたにこの話をしたのは、あなたが誰にも話さないだろうって思ったから。そうでしょう、当たってるよね?」
若菜は黙っていた。女生徒は何かを期待し強請るような表情をしたが、若菜の反応がないことで、女生徒は徐々に顔を曇らせていった。
「ねえ三谷藤さん、まだ調子悪いの? それとも……あ、もしかして世間慣れしてないとか。こういう話、嫌い? ちょっと天然入ってるのかな」
女生徒はくすくすと笑った。最初に見せたものとは異なり、人を小馬鹿にするような笑いだった。違和感の正体はこれだったのか、と若菜は腑に落ちた。彼女は、見下せる相手を探していて、私はそのターゲットにされたわけだ。
腹の底が、ジワリと熱くなる。
女生徒の綺麗に切り揃えられた前髪が揺れる。きちんとアイロンのかかったシャツに、少しだけゆるめに結わえられたリボン。綻びも汚れもない、ブレザーとチェックのスカート。それらは校則を破らぬ程度に上手くアレンジされている。肌も唇も潤っている。爪と眉は整えられ、上向きのまつげに縁取られた目は、強い光を放っていた。
なるほど、と若菜は思う。観察する自分自身が攻撃されぬよう、隙を無くしているということか。
「まだ戻ってきて数日しか経ってないと思うけど、三谷藤さんって、元々自分から積極的に他人と話すタイプじゃないよね。常にクラスメイトとは距離を置いて、誰とも話そうとしない。お昼休憩と放課後はまだしも、短い休憩時間ですらすぐに教室を出て行っちゃうんだから。
だいたい、人と視線を合わそうとしないのってかなり変わってる。でも」
女生徒は若菜のことなどお構いなしにお喋りを続ける。若菜も聞き流そうとしていたが、
「あたしとは合わせてくれたわね、視線」
指摘された途端、背筋がぞくりとした。若菜は慌てて女生徒から一歩身を引き、顔を背けた。
「ふーん、そう。三谷藤さんって一対一で話すとそんな感じなの。人見知り? まあ、面白いことには変わりないわね」
面白い。その言葉にまた、苛立ちを覚える。
「あなたのこと、これからもずっと観察させてもらうわ」
若菜は下を向き、沈黙を守った。
しばらくの静寂の後、女生徒はふんっと鼻で笑い、すたすたとスリッパの音を大きく立てながら去って行った。
周囲から何の音もしなくなってようやく、若菜は顔を上げた。誰もいないことを確認して、ため息を吐く。私は長年憧れていた高校生活を、ただひっそりと楽しんでいただけだったのに。嫌な思いをさせられた。
反論や反発を、口にした方が良かっただろうか、とも思う。いや、と若菜は首を振った。恐らくいま何を話しても、あの女生徒には伝わらない。
だいたい、人の噂話をして何が楽しいのか。観察することに、何の意味があるのだろうか。
こちらのことを暴いたつもりになって得意気にお喋りをする、名も名乗らぬ失礼な人。きっと私に話したのと同じように、あの医師や看護師達のように、見舞客のように、入院している子ども達のように、私のことを自分勝手に話すに違いない。それに、これからもずっと観察すると言っていた。また、あの絡みつくような、気持ち悪い視線と思念を身に受けなければならないのか。
冗談じゃない。もう二度と、こちらを見て欲しくない。
与えられた苛立ちはどす黒く粘り気のあるタールのようなものになり、腹の底を侵食しながらふつふつと煮えていく。
「お帰りなさい、おねえちゃん!」
ふすまを勢いよく開ける音と掛けられた明るい声にはっとして、若菜は顔を上げた。学校での出来事を考え過ぎて、家へ辿り着いたことすら自覚できていなかったらしい。
「あっ、ごめんなさいまたノックするの忘れてた! おねえちゃんのにおいがしたから、きっと帰ってきてるって、おねえちゃんに会えるっておもって、そしたらうっかり……ほんとに、ごめんなさい」
妹の萌奈はまだ小学一年生なのだからノックを忘れるのもしょうがないし、若菜としては、ノックのし忘れなどいまや全く問題なかったのだが、萌奈はこれまで母親から何度もきつく注意されていたせいで、不憫に思えるほどに恐縮している。
若菜は、気にしていないと伝えるために首を振って微笑んだ。
「きょうも学校、たのしかった?」
気を取り直して聞いてきた萌奈に対し、若菜は大きく頷いた。嫌なことはあったが、そのことを萌奈に伝えるのは止めておいた。理解してもらえるように話すのは困難だし、なにより、萌奈を心配させてしまうだろう。
萌奈の口が横に広がり、丸い頬が更にもっちりと盛り上がったのが見て取れた。
「よかった! そうだよね、学校って、病院よりもどこよりも、ぜったい楽しいもん!」
萌奈が小さく手招きをする。若菜が屈んで彼女の口元に耳を寄せると、萌奈が小さい手で自分の口元を囲い、小声で言った。
「……おうちよりも、ね!」
萌奈はくふふふっ、と笑いながらぴょんと身を離した。たいそうかわいらしい。
若菜は上下する丸い頭に手を伸ばそうとして、
「萌奈、ご飯前の宿題は終わったの?」
リビングから母の声がして、若菜は手を引っ込めた。
「おねえちゃん、またくるね」
言い残して、萌奈は入ってきた時同様、勢いよくふすまを開け、部屋を出て行った。