鋭利な箸
初めて目にした時、私はその淡い色彩に心を奪われた。
薄紅の中に桜の花弁が細かく散らされたその繊細でいて、女性らしさを主張しているデザイン。
何処にでもある普通の食卓用品売り場での巡り逢い……なんていう言い回しをすれば大袈裟かもしれない。
だけど私にしてみれば、どんな人との巡り逢いよりも印象に残る出来事だったのだ。
「本当に雅な塗り箸……このお箸以外の物を使う気にはとてもなれない」
どんな状況になろうとも、このお箸の他のお箸にうつつをぬかすなんて事が在るわけ無い。
私にはこの薄紅の美しい塗り箸だけが似合うのだ。
その塗り箸を購入してからというもの、今までより食事の時間が楽しくなっていた。
何を食べても、どんなにお腹が空いてなくとも、何故か不思議と美味しく食べる事が出来る。
まるでその塗り箸が、ありとあらゆる食品の味を最高の好みの物にしてくれているかのようだ。
「う~ん……今日の朝ごはんも最高の味だわ‼
普通の玄米、アジの開き、豆腐のお味噌汁……!
このお箸で食べれば、どんな物も御馳走になるわ!」
美味しさのあまり、独り暮らしだというのに弾んだ独り言を食卓へと向けてしまう。
朝から機嫌が良い私は、食事の感想の相手を無意識に塗り箸に向けていた。
「貴女のおかげで最高の朝になったわ!
ふう……っ、御馳走様!」
お箸に食事の美味しさのお礼を云うなんて、以前の私には無かった事。
一人暮らしなので洗い物は実に簡単。
食器もお箸もサアーッと手早く、だけど綺麗に洗い終えて私は出掛ける準備をする。
この日は休日という事で、久しぶりに学生時代の友人と映画を観る予定を組んでいた。
高校を卒業して以来、電話やリモートや年賀状のやり取りはしていたが、直接会うのは二年ぶり。
早く会いたくて、軽い足取りで家を出た。
友人との待ち合わせは映画館が設けられてあるモールのエントランスだ。
私が目的地に着くと、友人は既に来ていた。
「久しぶり~っ!」
「お久~、直で会うのホントに久々!」
「元気そうね!」
「そっちも!」
私たちは大はしゃぎで久々の再会を喜び、暫くして映画館へと入館した。
映画は二人とも好きなホラー物、主人公の青年が一度きりの浮気をしたせいで、恋人の妬みをかい復讐されるストーリー。
恋人が主人公の青年を追い詰め、心……つまり心臓を抉り取り、彼女自身の物にするラストには心が凍りついた。
現実ではそれは逮捕に繋がるのだが、映画ならではの戦慄のラストでは館内を出た後もその余韻は凄いものだった。
その後モール内をブラブラし、時刻はお昼をさそうとしている。
「ランチ、どの店入ろっか?」
「何処も満席だね。
向こうの食堂、空いてるっぽいよ」
「和食か……いいね!
そこにしよ!」
人で賑わうフードコートから少し離れた位置にある和食屋には、お客が数人いる程度だ。
二人ともガッツリ食べたい気分なので、ごはん類がメインの和食が今の胃袋にはピッタリくる。
「いらっしゃいませ!
お好きなお席へどうぞ」
和服を着た店員さんが何人か見えて、お客が少ないながらもそれなりに忙しそうに動いている。
私たちは奥の席に着き、二人とも天ぷら定食を頼んだ。
店内に流れる歌謡曲が店の雰囲気と合っており、心地好い気持ちになる。
「でさ、さっきの映画『独り占め』……がちで怖かったね。
浮気する男は悪いけど、恋人の嫉妬はマジキョーレツだった」
友人は店に気を使いながら小声で話す。
怪奇映画を囁いて話されると、恐怖心が膨らんでくる。
怪談師の人が怪奇話の冒頭を話し始める感じと似ているからだろうか。
「ん……女は男より独占欲が強いからその辺は意志疎通するよね。
でも、心臓を抉るのはリアルじゃあり得ないね」
「アレは流石に……かなりひいたわ」
「映画だから誰も責めない感じ」
映画トークを盛り上げていると、女性の店員さんがメニユーを箱んできた。
「お待たせ致しました。
天ぷら定食です」
「「ありがとうございます」」
慣れたものか、女性の店員さんは両手にお盆に乗せた天ぷら定食を安定よくテーブルへと移す。
(ん?
お箸、割り箸じゃなく塗り箸なのか)
この和食屋では、店の名が彫られた黒い塗り箸が用意されていた。
「ごゆっくりどうぞ」
飲食店の箸は何処も割り箸だと思っていたので、私は少し戸惑う。
(あの塗り箸以外の箸を使うなんて……だけど、アレはうちに置いてきたし……)
店の箸に手を伸ばそうかどうか考える私に、友人が食事を促す。
「どしたの?
冷めるよ?」
「え……ああ、さっきの映画のシーンが脳裏に焼き付いて……ちょっとね」
「ああ、アレはグロいわ。
でもまあ、忘れた、忘れた。
映画が終われば、楽しい現実」
友人が弾んだ声で食事を盛り上げるので、私もそれにのって気分を盛り上げた。
天ぷら定食は本当に美味しくて、私はいつも使う塗り箸の事を頭の隅に追いやった。
「ん……美味しい!」
「和食にして正解だったわね」
「そうね」
友人との楽しい時間を過ごした私は、幸せな余韻に浸りながら家での夕食の準備をしていた。
(ランチはガッツリした物だったから、夕飯は軽くうどんでいっか……)
手早く食べられるうどんをサッと茹で、小さめの器で食べる事にした。
いつもの塗り箸を用意して、いつも通りに食卓に着いた。
「頂きます」
うどんの香ばしい風味を心地よく感じ、私はいつもの塗り箸を麺に潜らせた。
そしてコシのあるうどんのを口に運び、また次の動きに移ろうとした。
「?」
不快な感覚が舌を刺激する。
「んぐ……っ!」
気のせいか、うどんが妙に苦く感じたのだ。
確かめるように噛み締めると、今度は強い痛みを感じた。
「……っ!」
あまりの強烈さに声もでない。
中のうどんを吐き出そうとした時、手にしている塗り箸が掴んでいる麺を更に口へと押し入れた。
「!」
苦みと痛みがあまりにも耐え難いもので、私は椅子から転落してのたうち回り続けた。
塗り箸は手から離れず、私の舌を思いきり貫いた。
〈がああああ……〉
喉の奥から声なき声が絞り出され、私はそのまま気を失った。
あれから数日、私はあの塗り箸を手離し普通の素朴な箸を使っている。食事は良い具合に美味しく楽しめているので、今の私はまずまず幸せである。