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(1)

 ――どうしてこんなことに?


 ミミの脳裏を埋め尽くすのは、その言葉ばかり。


 クッションのきいた、背のない小さなイスに座らされたミミは、そのまま横に置いてある姿見に目をやる。


 鏡に映るのは、まったく見知らぬ女性……。少なくとも、ミミはこのような女性を知らない。


 けれどもこのまったく見知らぬ女性こそが、今のミミの姿そのものなのであった。


 鏡の中にいる女性の髪はブルネットではなくブロンドで、ひどくうねっていないストレートヘアー。瞳の色から目の形、顎の骨にいたるまで、なにもかも元のミミとは違うその姿が、今の彼女であるという事実は動かしようがない。


 ――どうしてこんなことに?


 再度、嘆きにも似た言葉がミミの胸中に浮かぶ。


 鏡に映る色白の、シミひとつない顔が憂いを帯びる。しかしミミの脳内で、それが己だと上手く結びつかない。


 ――どうしてこんなことに?


 すべては、神の思し召し。ミミにもそのことはわかっていた。そもそもの発端が己であることも、わかっていた。


 ミミは愛欲の女神エロミーネに仕える尼僧兵である。尼僧兵は、平時は他の尼僧同様にエロミーネのお膝元である神殿で様々な雑事――たとえば神殿の清掃や傷病人の世話など――に励む。しかし戦時ともなればエロミーネの名代として武装し、前線に立つ。


 もちろんミミも例外なく、先の戦役にて前線に立ち、終戦に伴って半月前に帰還したばかりだった。


 もちろんその後は神前――愛欲の女神エロミーネに報告……となったのだが。


「ねえ、いいひとはできなかったの?」


 愛欲の女神エロミーネは、人間の惚れた腫れたをなによりも愛する女神であった。早い話、人間の「コイバナ」というやつが大好物なのである。


 愛欲の女神エロミーネによって道ならぬ恋を実らせた人間も数知れず――。そうしてエロミーネに感謝する人間たちがいる一方、エロミーネはその嗜癖によって数々の騒動も起こしてきた、稀代のトラブルメーカーでもあった。


 ミミももちろん、そんなことは知っている。エロミーネは決して性悪ではないのだが、どうにもこうにも向こう見ずで、彼女の情の篤さはいい方向にも悪い方向にも作用する。


 エロミーネに「コイバナ」を持ちかけるのは最終手段だというのが、人間たちの共通の認識なのだ。にっちもさっちもいかなくなった恋を抱え、最後にすがる神――それが愛欲の女神エロミーネ。


 ミミももちろん、そんなことは知っている。


 ……だからそれは「魔が差した」としか言いようがない。


 ミミはほかならぬ戦場で恋をした。相手は、若き将軍ライカン。「赤狼(せきろう)将軍」の異名を取る、勇猛果敢な男性である。


 愛欲の女神エロミーネの尼僧兵であるミミは、その加護の力の種類ゆえに、最前線に立たなければお話にならない。


 身体強化と、敵を一時的に魅了――というよりかは挑発する力……。敵の攻撃を集めるため、いくら身体強化されていようとも、ミミや周囲の兵たちが応戦しようとも、ミミの体に生傷は絶えない。


 女性の身体についた傷が、ものによっては婚姻に差し障るような風潮の中で、ミミは己の体に傷がつくことを厭うたことはなかった。


 そもそも、ミミは尼僧である。神殿に入った時点で、ミミはだれかの伴侶となる未来を望んではいなかった。


 ミミは経済的に恵まれた家庭に生まれたが、両親の夫婦仲は最悪だった。幼いころからそれを見てきたミミは、婚姻というものに夢を見ることもなく、長じてから、若い女性は避けては通れぬ縁談を回避するために、神殿の尼僧となったのだ。


 だから、自身の肌に傷が刻まれていくことを、悲観したことはなかった。今だって、この傷の数々は勲章とすら思っている。


 けれども。けれども……思ってしまったのだ。


 自分がふつうの、かわいらしい女の子だったら、と。


 恋をして、思ってしまったのだ。


 ライカンは優しかった。ミミよりふた回りは大きな体躯をそなえているが、その指先は優しく繊細な印象をミミに残した。


 ともすれば、ミミの力は使い捨てにされる可能性もあるようなものだ。けれどもライカンは決してミミを粗末には扱わなかった。


 あるとき、深手を負ってミミは一時的に意識がもうろうとする状態に置かれた。ライカンをかばったのだ。くずおれるミミの身体を、ライカンがつなぎ止めるようにその腕をつかんだところまでは覚えている。


 それからライカンは、ミミが起きたときもそばにいてくれた。たまたまだろう。けれども、ライカンが気にかけてくれているという事実は、ミミの心を温かくした。


 家庭にミミの居場所はなかった。両親が、社会への義務とでも言いたげに儲けた子。それがミミだ。直接的に虐げられた記憶はないが、ただ冷たく無機質な家庭しかミミは知らなかった。


 愛欲の女神エロミーネの尼僧兵となりながらも、ミミは愛も恋もよくわからなかった。だからこそ、愛欲の女神の尼僧兵となった側面もある。他者を観察していれば、いつかは腑に落ちることもあるかと思ったのだ。


 けれども、だれかの恋を、愛をいくら見ても、ミミはそれらを理解できなかった。


 できなかった――のに。


「恋に落ちちゃったのね」


 ライカンがこっそりと病み上がりのミミにわけ与えてくれた糧食を口にしたとき、ミミはもっと欲しいと思った。糧食でもいい、なんでもいい。ライカンからもっと、たくさんのものを与えられたい――。


 それがミミの、初恋だった。

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