9.試練篇
一週間ほど行方知れずとなっていた西ストランド王、オーランドーがハンブルの城にて健在の名乗りを上げた。
王はこれより、第三王子タイタスとアーサー・ハンブル辺境伯、及びハンブル軍を引き連れて王都に帰還するという。
恭順の意思ある者は続けとの触れが出され、諸侯は一斉に従った。
王国最強と謳われるハンブル軍を従えた、現国王に従わぬという道理はない。
我先にと駆けつけたのは第一、第二王子たちだった。
彼らは「この度のことは父を憂う心ゆえ」と涙ながらに訴え、許された。
王都の入口では、王弟が両腕を広げて兄を待っていた。
――兄上が無事でよかった。
まるで最初から味方だったような顔をして、王弟は力強く兄の肩を抱いた。
彼は「許す」との言質をその場で兄から取り付けたが、兄と別れたその足で西ストランドを出国し、二度と戻ってこなかった。
身を寄せた先は妻の実家がある対岸の国である。
彼は兄の言葉を信じ切ることが出来なかった。もし彼が逆の立場なら、口では「許す」と言いつつも、相手を生かしておくことはない。
これ以降、彼の名は西ストランド史に一切出てこなくなる。
彼が海の向こうで儚くなった後、遺言により、彼の墓は愛する母国がよく見えるよう、未練がましく海沿いの丘に建てられた。
ホイップが「狭いコップの中のいがみ合い」と呼んだ、小さな内々の諍いはこうして終結した。
王宮に戻った王は、しばしの静養を余儀なくされたが、やがて容体も落ち着き、改めて息子たちを呼び寄せた。
「この度のことで思うところがあり、我が後継を正式に指名することにした」
恭しく首を垂れ、父の言葉を待つ息子たちの背後には諸侯もずらりと控えている。アーサー・ハンブル辺境伯の姿もあった。
「第三王子、タイタス・アルカディウスを――」
「お待ちください」
物柔らかで優美な王の声を、艶やかで張りのあるクローディアスの声が遮った。
「この度のことで、タイタスを評価してのことでしょうか」
王は普段通りの穏やかな表情でクローディアスを見やる。
「陛下、タイタスは今回、御身に何も尽くしておりません」
「ほう?」
話せ、と王が目顔で促し、クローディアスはタイタスに冷たい一瞥を投げかけてから口を開いた。
「我らが陛下の御為に身命を賭しておりました頃、臆病なタイタスはいち早く逃亡し、マリポルトに潜伏しておりました。卑怯者の考えることなぞ到底分からぬ私は、何故ハンブル領を通り過ぎてマリポルトにとずっと不思議に思っておりましたが、ようやく気づいたのです――タイタスは我が身可愛さに、安全なところまで逃げていただけなのだと」
「――兄上」
「その後、ハンブル辺境伯の帰還を知り、素早く勝ち馬に乗ったという訳です。機を見るに敏なところは褒めてやりたいが、タイタスのやり口、陛下に誠実であるとは言い難い」
「そうだそうだ」
長兄が大好きなオーガスタスが同意し、タイタスはうんざりと兄たちを見やった。
「では、最も誠実な息子とは誰であろう」
「それは私――と言いたいところですが、口先だけなら何とでも言えましょう。ならば陛下、我々三人に、平等に機会をお与えください」
クローディアスは恭しく腰を折って要求した。
「立太子の試練を、私たちも受けたく存じます」
立太子の試練とは、フヴェルギの断崖と呼ばれる険しい崖の岩壁にのみ生える、カッタレイクルなるものを持ち帰り、王に捧げる儀式である。
どう考えても人の足では到達出来ぬ場所に到達し、その証を持って帰る。西ストランド歴代の王は皆、一人の例外もなくその儀式を経て王となっていた。
「陛下の御為に、このクローディアスが必ず、カッタレイクルを取ってまいります」
「――では、そのように」
王が認め、三人の兄弟はカッタレイクルを求めて出立することとなった。
「あなたを一人にして、すまない」
淡々と荷造りを済ませたタイタスは、危険な崖に挑む己ではなく、外国の城に一人残されるグウェンドリンのことしか心配していないようだった。
「私のことはいいのです。殿下、立太子の試練とは――」
タイタスはにっこりと笑い、グウェンドリンの耳元で秘密めかして囁く。
「大丈夫。俺にはさして危険なことでもない。……知っているでしょう?」
人の足では到達出来ぬ場所とやらも、「猫になる」が出来る者にとってはそうでもないと言いたいのだろう。だが、グウェンドリンが懸念しているのは試練のことだけではなかった。
――立太子の試練を、私たちも受けたく存じます。
智謀に長けた第一王子、クローディアスが、何の勝算もなくそんな提案をするだろうか。
「タイタス、ルッツのお嬢さんが気にしているのはそこじゃない。お前も分かってんだろう?」
「小父上、いつからそこに」
「最初からいるわ。気をつけろよ。崖じゃなく、兄貴たちの方だ。オーランドーがクローディアスの話に乗ったのは、あの二人がカッ……何とかを自力で取れる訳がないと踏んだからだろうが、俺にはそもそも、クローディアスが真っ当な方法でカッ……を手に入れる気だとはとても思えない」
「小父上、いつまで経ってもカッタレイクルが覚えられませんね」
「それはいいんだよ」
辺境伯が顔をしかめ、タイタスが肩をすくめた。
「そうですね。せいぜい気をつけておきます。足場にも、兄たちにも」
タイタスはグウェンドリンの頬に口づけた。
「……待っていて」
「……はい」
グウェンドリンはぎこちなく頷いた。
連れていってほしい、と縋ることは出来なかった。
立太子の試練とは、供も付けずたった一人で臨むものである。
女連れで出向けとねだるなど、タイタスの名を貶めるようなものだった。
「無事のお帰りを、お待ち申し上げております」
グウェンドリンは心を押し隠し、完璧な淑女の礼をとった。
タイタスはすっと物憂げに目を細め、グウェンドリンに顔を寄せた。
「ホイップになら何と?」
「え? ええと……無事に帰ってきてね、と……」
「では、俺にもそう言って」
「ぶ、ぶ、無事に……か、か……」
タイタスが甘えるようにグウェンドリンの頬を舐め、グウェンドリンが小さな悲鳴を上げる。
「オイ、今のお前は猫じゃないからな?」
「……小父上、まだいらしたんですか」
「テメエさっきから随分だな!」
タイタスはふふんと笑い、「では行ってきます」と優雅に踵を返した。
軽やかに馬を走らせるタイタスの後を、長兄とともに付かず離れず追っているオーガスタスが気のない口ぶりで尋ねた。
「兄上、勝算はあるの? 俺は正直、服が汚れるようなことは」
「何を言う。タイタスが取ってきたところを奪うだけの話だろう」
「成程!」
オーガスタスは目をきらきらさせ、尊敬の眼差しでクローディアスを見る。
この弟はまさか、正攻法で行くとでも思っていたのだろうか――クローディアスは今更ながら信じ難い思いで弟を見返す。
氷のようなクローディアスの視線にも一切動じず、オーガスタスはコケティッシュに首を傾げた。
「あ、でも、そう易々と渡すかな……。あいつ、悔しいけど剣の腕が立つし」
「そこは策略を用いて騙し取ればよかろう」
「そっかぁ~」
「オーガスタス。いちいち皆まで言わせるな」
「ごめんごめん」
オーガスタスはヘッと可愛く笑った後、あどけなく視線を巡らせた。
「あれ? タイタスは?」
「チッ。見失ったか」
頭のねじが一本抜けている方の弟の相手をしている間に、油断のならない方の弟が姿を消してしまった。相変わらずすばしこい奴め。
「まあいい……。崖に向かう道はこの一本のみ」
この道を進めば、いずれ追いつくことが出来るだろう。
クローディアスの読み通り、しばらく進むとタイタスの馬が木の陰に繋がれていた。
この先は徒歩で行ったようである。
クローディアスは流れるような所作でひらりと馬から降りた。オーガスタスも兄に倣う。
タイタスがこの先にいると分かった以上、何も慌てる必要はなかった。カッタレイクルが向こうからやってくるのを、ここでのんびり待っていればいい。
辺りには心地よい風が吹き、下には紺碧の海が広がっている。
「では――ここでゆるりと待たせてもらうとしよう」
「――だね」
艶やかな漆黒の髪と、それぞれに深みが異なるサファイアブルーの瞳を持つ美しい兄と弟が、捕食者の目でおっとりと微笑んだ。
四つ足でするすると崖を下りたタイタスは、ほどなくして岩壁の窪みに揺れるカッタレイクルを発見した。
この形状、この美しさ。
思わす触れたくなるのを堪え、茎の部分を優しく押さえて手折る。
尻尾でくるりと絡め取り、タイタスは来た道を取って返した。
既に追いついているであろう兄たちは、この先のどこかで手ぐすね引いてカッタレイクルを待っているに違いなかった。
そして、長兄クローディアスが手に入れようと目論んでいるのは、カッタレイクルだけではあるまい。この機にタイタスの命も奪うつもりであることは目に見えていた。彼にとってタイタスはそもそも目障りな存在であり、カッタレイクルを奪った後は、その事実もろとも闇に葬らなければならない悪事の生き証人だった。
――無事に帰ってきてね。
グウェンドリンにそう言われていることもあり、人の姿に戻ったタイタスが用心しながら歩いていると、前方で若い女の声のような甲高い悲鳴が上がった。
「助けて! 助けてぇ!」
悲鳴は下から聞こえてくる。
タイタスが崖の端に近づき、下を覗き込むと、ほっそりとした白い指で、辛うじて崖の先端につかまっている美しい人の姿があった。
「オーガスタス兄上?」
「タッ、タイタス! いいところに。助けて。もう腕が限界!」
「…………」
タイタスは次兄を見下ろしながら考えた。
罠だろうか。それとも、この次兄のことだから、本当に素で足を滑らせたのだろうか。トゥー・ビー・オア……。
「タッ……タイタス! 何してる。はやく!」
オーガスタスは目を潤ませ、必死の形相で訴えた。この鬼気迫る様子はとても演技には見えなかったが、それでもタイタスが警戒して動かずにいると、オーガスタスは意外なことを告白し始めた。
「あっ、あっ、あのことは謝る……!」
「あのこと?」
「そうだ! 眠ってるお前の顔に、猫ひげを描いて遊んだっ……! でも、あれは、ちょっとした子供の悪戯だろう……!」
「えっ……。あれ、オーガスタス兄上の仕業だったんですか」
「そうだ! 俺だ! 謝るからはやく……うおー、しまった! お前気づいてなかったのか! いやいや助けて! 落ちる落ちる落ちる!」
オーガスタスは混乱し、はらはらと涙をこぼしていた。クローディアス兄上はさっき、「タイタスがすぐに助けてくれるから」と言っていたのに、どうしてタイタスは一向に助けようとしてくれないのだろう。
「タイタス、助けて。謝る。もう二度としない!」
「……」
そんな過去の悪戯はこの際どうでもよかった。それよりもこれは罠なのか。違うのか。いや、考えるまでもない。これはクローディアスが仕掛けた罠だ。タイタスは耳を立て、辺りの気配を探ろうとするが、オーガスタスが「タイタスゥーーーー!」とわめくせいでうまく探れない。
「タッ……タイタス……!」
そろそろ次兄の腕も限界のようだった。タイタスは一旦荷を置き、彼に手を差し伸べた。
「つかまってください」
「うん」
差し伸べられた手にオーガスタスが夢中でつかまった瞬間、長い足がタイタスの背を蹴った。
「あっ――」
下は渦を巻く海である。タイタスがオーガスタスに覆いかぶさるようにして、二人は真っ逆さまに落ちてゆく。
「あに、うえ…………」
仰向けで落ちゆくオーガスタスは、崖の上から彼ら二人を冷静に見下ろす長兄の姿をその美しい瞳に映した。
二人が波しぶきを上げて海に落ちる。
クローディアスは崖の上で一人海風に弄られながら、二人が消えた波間をじっと見つめていた。
「弟たちよ――安らかに」
十分に時間が経ち、もう浮き上がってこないと確信したクローディアスは、弟たちの為に黙祷した。
渦巻く海流の果てには、海神の住まう常若の国があるという。もし本当にそんなものがあるのなら、お前たちは永遠に若く美しいまま、そこで幸せに暮らすがいい。
クローディアスはタイタスの荷をほどいた。
白く優美な指先が、一見して特別なものと分かる、透明な球形の容器に当たる。
取り出して日の光にかざすと、容器の中にはこの世のものとも思われぬ美しい花が保存されていた。
クローディアスは花を見つめ、満足げに微笑んだ。
グウェンドリンがタイタスを思い、窓前の石のベンチに座ってぼんやり頬杖をついていると、どこからか蝶々が飛んできて窓枠に止まった。
――あら、この蝶々は……。
ホイップとよく一緒にいる蝶々ではないだろうか。
蝶々を個別に特定出来るほどの愛好家ではなかったが、グウェンドリンの直感はそうだと告げていた。
蝶々はグウェンドリンの指先に止まり、翅を震わせる。
「どうしたの? 何か言いたいことがあるの?」
細い前足が何かを伝えようとするようにグウェンドリンをつかんだ――ような気がした。
蝶々はついと飛び上がり、少し進んではグウェンドリンのところに舞い戻ることを繰り返す。
「分かったわ。ついてきてと言っているのね?」
グウェンドリンは立ち上がり、蝶々の後を追った。
ホイップに何かあったのだ。
「こっちへ。馬で行きましょう」
グウェンドリンは蝶々を追い越す勢いで厩に走った。
馬の世話をしている少年たちに足の速いのを出してもらい、さっと飛び乗って蝶々に先導させる。
タイタスが通った道をたどり、彼の試練の場である崖を目指してグウェンドリンはひたすら馬を走らせた。
――ホイップ、どうか無事でいて……いえ、殿下、どうがご無事で……!
腕だけは冷静に手綱をさばきながら、グウェンドリンの思いは千々に乱れていた。
「……この先は馬で行けそうにないわ。少し待っていて」
進むうち、道幅が徐々に狭くなり、足場も悪くなってきた為、グウェンドリンはこれ以上馬で進むことを諦めた。適当な木に馬をつなぎ、裾をさばいて徒歩で蝶々の後を追う。
切り立った崖に近づくにつれ、恐ろしい予感で胸がつぶれそうになった。
――そんなはずがない。
人間の足ならともかく、ホイップにはさして危険なことでもないと、あの時確かに、彼は笑って言ったのだ。
だが蝶々は崖の先端まで来ると、グウェンドリンの淡い希望を打ち砕くかのように、その場で円を描いてひらひらと飛んだ。
――ああ、そんな……。
下は渦を巻く海である。
「殿下は、ここから……。そうなのね……?」
震える声で尋ねるが、蝶々は何も答えない。
グウェンドリンはその場にくずおれた。
「殿下……殿下……!」
――ずっと一緒だと約束しました。
「嘘つき……!」
ずっと一緒だと言ったのに。
海風吹きすさぶ崖の上で、グウェンドリンは声を上げて泣いた。泣いて泣いて、このまま彼の眠る地に咲く一輪の野花になればいいと願った。
彼が残した言葉通り、ずっと一緒に、ここで一緒に。
見えないタイタスの体に覆いかぶさるように体を曲げ、グウェンドリンは泣き続けた。
――聖女よ、何を泣く。
突然頭の中に声が響き、グウェンドリンははっと我に返った。
涙に濡れた目を上げると、いつの間に現れたのか、崖の上に美しい男が浮いている。
男はこの世のものとも思えぬ、凄絶な美貌の持ち主だった。
青みがかった艶やかな銀髪は腰まで届くほど長い。瞳は吸い込まれそうな深い紫藍で、瞳孔は冴え冴えときらめく銀である。美しさと同時に言いようのない恐ろしさを感じさせる異形の男は、グウェンドリンに向けて確かにそう尋ねた。
グウェンドリンをここまで導いた蝶々が、太古の昔からそうしていたかのように男の指先に止まっていた。
――この方はもしや、妖精王……。
まさかとは思うが、お伽話にある特徴と完全一致しているからには、そうであると理解するしかない。
グウェンドリンが声もなく男を見上げていると、美しい異形の後ろにすっぽり隠れていたらしい、小さな人影がおずおずと顔を出した。
ミルクティー色の髪と、澄んだ水色の瞳をした可憐な美少女である。
「グウェンドリンお姉様……?」
「アデル様……!」
驚いたことに、そこにいたのはマリポルトが国境を接するもう一つの国、グラン・ガラテーアの公爵令嬢だった。
グウェンドリンがマリポルトの侯爵令嬢として正式にグラン・ガラテーアを訪問した際に知り合い、今も時々手紙のやり取りをしている仲である。
アデルは控えめな笑顔が愛らしい、心根の優しい少女で、かつてはグラン・ガラテーアの王太子の婚約者だった。
彼女には、父が再婚した相手の連れ子である義理の妹がいた。
この義妹と彼女の婚約者である王太子が、今となってはグウェンドリンも仔細を思い出せないほど下らない難癖をつけてアデルを苛めていた場面に出くわし、二人を追い払ってアデルに胸を貸したことが親しくなったきっかけである。
――見るに堪えませんわ。
さっと広げた扇できっかり目の下側三分の一を隠し、目線を斜め四十五度の角度で背ける。
外国の令嬢に、貴族社会における完璧な礼儀作法でもって、その振る舞いをたしなめられた義妹と王太子は、ばつが悪そうにそそくさと立ち去った。
その後、アデルがいたいけな水色の瞳に涙をいっぱいに溜めてグウェンドリンを見つめ、グウェンドリンは愛らしいものへの不可抗力で思わず両腕を広げた。
アデルは公爵令嬢でグウェンドリンは侯爵令嬢である。ここは淑女の礼をとり、向こうから話しかけられるのを待つのが筋であったが、アデルの方も構わずグウェンドリンの胸に飛び込んできた。
グウェンドリンはよしよしとアデルの背をさすった。
――ずっと、あのような目に?
――えぐ、えぐ、ううっ。
アデルは堰を切ったように泣き続け、グウェンドリンの問いに答えることが出来なかったが、そのことが既に答えのようなものだった。
――アデル様、気が済むまでお泣きになって。
グウェンドリンは胸元がぐしょぐしょになるのも構わず、アデルが縋りついてくるに任せた。
やがてアデルが落ち着いた頃、グウェンドリンはアデルに優しく囁いた。
――顔をお上げに。
アデルは随分すっきりとした顔をしていた。誰かの胸を借りて思い切り泣くことすら、今まで出来なかったのだろう。
――アデル様。こんなこと、もう許してはなりません。
グウェンドリンがそう言うと、アデルは怯えたように首を振った。
――む、むり、私……。
――大丈夫ですよ、アデル様。秘策があるのです。
グウェンドリンはアデルを励ますように微笑んだ。
何も事情は知らずとも、おおよそのことは想像がついた。彼らのような連中は、アデルの弱さとも言える心根の優しさを敏感に嗅ぎ取り、ますますいたぶってやろうとする。それに対抗する手段は、酷なようだがひとつしかない。
――いつだって顔を上げ、毅然と前を向いていてください。
アデルは目をぱちぱちさせた。グウェンドリンは口を閉ざし、淑女の笑みを浮かべている。
――そ、それだけ……?
――それだけです。
――そんな、ことで……?
愛らしく首を傾げるアデルに、「これが案外効くのです」とグウェンドリンは請け合った。
家柄も美しさも申し分ない令嬢たちを飛び越えて、王太子の婚約者に指名されたグウェンドリンである。聞こえよがしの陰口も、もっと直接的な嫌がらせも、大小さまざま、うんざりするほど経験してきた。
だからこそ、身をもって知っているのだ。
何事もなかったように前を向き、彼らのことなど視界にも入れない。無論、傷ついた顔など一切見せない。
そうすれば、彼らに付け入る隙を与えることはないと。
グウェンドリンはそっとアデルの手を取った。
――アデル様、あなたの人生はあなたご自身のもの。決して誰かに踏みにじらせていいものではないのです。
――グウェンドリンお姉様……。
この時以来、同い年で家格も下位であるグウェンドリンのことを、アデルはお姉様呼びするようになった。
「あの時のお姉様の言葉に背中を押され、私はもうあの二人に何をされようと、うつむくことを止めました。するとどうでしょう、人生が急に好転し始めたのです。お試しで買った宝くじが当たったり、魔力ゼロだと思っていたのに、実は希少な光魔法属性があったと判明したり。妖精王と出会った時も――」
アデルは可愛らしくはにかんだ。
「以前の私なら『こんな私なんて』と卑下して、きっと逃げていたと思います。でも、私はもう昔の弱い私じゃない。この人は運命の人だと心が告げたから、迷わず妖精王の手を取りました」
「そうか。我が愛し子が私の手を取るきっかけを作ったのはそなただったか」
「え? いえ、私は何も――」
「礼をせねばなるまい」
妖精王はそう言って、遥かな高みから逆巻く海に手をかざした。
すると、驚いたことに、渦を描いて荒れ狂う海の中心に、人一人通れるくらいの穴が開く。
グウェンドリンが声もなくその様子を見つめていると、続いて崖の上からきらめく光の粒子で出来た階が渡された。
「そなたの黒猫がいる、水底の国への道を開いた。聖女であるそなたならば、たどり着くことが出来るだろう。だが――黒猫を連れ帰ることが出来るかどうかは、そなた次第」
グウェンドリンは一切の迷いなく階の先端に飛び乗り、跪いて妖精王の衣の裾に口づけた。
「感謝いたします」
「そなた次第だ」
「――絶対に、連れ帰ります」
グウェンドリンはそう宣言し、颯爽と階を駆け降りる。
「お姉様、頑張って!」
初めて出会った時とは別人のような、朗らかなアデルの声がグウェンドリンを後ろから激励した。