8.救出篇(後)
ファサ……と彼女の前足が、柔らかい草の上を踏んだ。
陽光を浴びてきらめく茶縞模様。愛くるしいオリーブグリーンの瞳。
黒猫たちが閉じ込められている小屋に、しゃなりしゃなりと近づいていく美しいイザベラを見た瞬間、見張りの一人がふっと理性を失った。
「うへへ……猫ちゃ~ん、猫ちゃ~ん……」
「おい、何やってんだ!」
呆れ顔で同僚に声をかける衛兵の背後からタイタスの手がぬっと伸びる。
タイタスは首の前に回した腕を素早く締めて相手の意識を奪い、イザベラしか見ていないもう一人も同じようにして落とした。
首尾よく二人を片付けたタイタスは、身を屈めてイザベラを撫でた。
「ありがとう。おかげで物凄くスムーズだった」
西ストランド人の半分は猫好きである。手堅い作戦だった。
ひとしきり撫でられた後、多忙なイザベラはシャッと去っていった。タイタスは扉のかんぬきを外し、中にいる者たちに「出ろ」と呼びかける。あふれ出る黒猫の奔流に身を投じ、自らも一瞬で猫になった。
――動ける者は手伝ってくれ。
タイタスの指揮の下、猫たちは黒い稲妻となって王都を疾走する。
うち一筋は王宮に向かった。
中で働く人間たちを翻弄しながら、同時多発した黒猫の一匹となったタイタスは一直線に父の私室へと走った。王宮のことなら文字通り、隅から隅まで知り尽くしている。
私室の床につながっている隠し扉を「ニャー」と開けて下から顔を出すと、寝台にぐったりと横たわっている人物が彼に気づいてふらふらと身を起こした。
近づいてくる足取りは弱々しかったがそれでも優雅で、次の瞬間、その人物はブルーグレーの高貴な毛皮と、サファイアブルーの瞳を持つ一匹の猫になっていた。
猫はタイタスが持ち上げている蓋から、物凄い勢いで通路に飛び込んだ。
父王の意外な激しさに驚きつつタイタスは蓋を閉め、シャーッと駆けていく背中を急いで追った。
体の弱い父がこんなになってしまうほど、軟禁生活はストレスだったのだろう。
少し行ったところでえずいているブルーグレーの高貴な体を舐め、タイタスは父を落ち着かせた。
――お体は……。
父は頷き、タイタスの体を頭でぐいと押した。
急げということだろう。あまり無理はさせられないが、この通路のことは当然、王弟も第一王子たちも知っている。ぐずぐずしている暇はなかった。
二人は出口に向けて走り出した。
王家の秘密の扉には、必ず猫用の潜り戸も付いている。
そこから外に抜け、お尋ね者たる黒猫は、目にも留まらぬ速さで隘路に飛び込んだ。ブルーグレーの毛皮も後に続く。
人目につかぬ裏通りを選び、二人はひたすら、アーサー・ハンブル辺境伯が待つランデブーポイントを目指した。
逃走のさ中、細い隙間から時折大通りの様子を窺う。
猫も人も行き交う大通りでは、既に兵士たちが動いていた。
姿を消した王を秘密裡に捜す王弟派の兵士と、不審な黒猫を捜す第一王子派の兵士である。
彼らはどちらも奇妙に相手を避けていて、無駄な小競り合いをすることもなく、それぞれの捜索に当たっていた。
ここでもし王弟と第一王子が協力し合い、両者の手持ちの情報と記憶を照らし合わせて考えてみれば、彼らが追うべき対象が即座に判明していたかもしれないが、幸いそうはならなかった。
――父上、大丈夫ですか。
仕方のないこととはいえ、薄暗くじめじめした場所ばかり通っているせいか、父の顔色が悪い。
――こちらへ。
ランデブーポイントまではまだ少し距離がある。タイタスは一旦ここで父に日向ぼっこをさせることにした。
もたれるのに丁度よさそうな白い石壁が、日光を浴びて温まっている。
父王は吸い寄せられるように白壁に体を預け、まったりと座った。
タイタスも同じように並んで座る。
二匹でゆったりとくつろいでいると、どちらかを捜索中の兵士たちが三名、連れ立って現れた。
「おい、あれ……」
「いや、どうだろう……。不審っていうか、自然な黒猫に見える」
黒猫に言及したということは、第一王子派の兵士だろう。タイタスはすうっと目を細め、自然な感じで気持ちよさそうにした。
「だな。片方灰色だし」
父王も人の言葉など分からぬように、のんびりと欠伸をした。
「――っていやいや、不審だろうが自然だろうが、黒猫は発見即捕獲だぁ~ッ!」
兵士たちには不審な黒猫とそうでない黒猫の区別などつかない。判断ミスにより、本来は不審と判定されるべき黒猫を取り逃がしては一大事である為、第一王子の謎の命令は軍司令部の判断により、いつしか「有無を言わさず黒猫は捕獲」に修正されていた。
「やっぱそうかぁ!」
「そうだ。私情を挟むな。俺だって本当はつらいんだ」
タイタス渾身の演技だったが、自然な感じかどうかはあまり重要ではなかったようである。苦悶の表情を浮かべる二名と、そうでもない一名は、無情にも隙のない動きで距離を詰めてきた。
白壁に阻まれ、退路を断たれたタイタスは、サファイアブルーの美しい瞳でじっと彼らを見た。
「くっ……ごめんな、猫ちゃん」
シャララララララ……。
その時である。
兵士たちの背後で、ほっそりとした手がタンバリンを震わせたのは。
「あぁ~ら、お兄さんたち、そこで何をやってらっ……やってるのぉ~?」
彼らが振り返ると、白薔薇のように清楚な娘がにっこりと微笑んでいた。艶やかなヘイゼルの瞳を持ち、瞳と同色の髪には婀娜っぽい大輪の花を挿している。旅芸人の一座の娘だろうか、一見して踊り子と分かる、ひだの多い美しいスカートを穿いていた。恰好は踊り子でも、まるで貴族のご令嬢のような品のある娘である。
「もしかして、寄ってたかって猫ちゃんをぉぉ……?」
綺麗な娘がはっきりと引いているのが分かり、兵士たちは慌てて取り繕った。
「いや、お嬢さん、これは……」
娘がハンと笑って顎で猫たちを指す。姿勢が良いせいか、そんな蓮っ葉な仕草すら何故か上品だった。
「あ~ら、可愛い。猫ちゃんたちが蝶々と遊んでいるわぁぁぁ~?」
貴族の娘のような喋り方を、語尾を上げて無理やり誤魔化したように聞こえたのは気のせいだろう。
娘に誘導された兵士たちが再び白壁に目を向けると、二匹はどこからか飛んできた蝶々に代わる代わる前足を伸ばし、無心に戯れていた。
「ほんとだ……可愛いな……」
誰かが呟き、皆でほっこりとその様子を見守る。
そのうち、ひらひらと飛んでいく蝶々を追って、猫たちはごく自然な感じで駆けていった。
誰一人追わない。
猫たちがすっかり行ってしまうと、娘はタンバリンを小気味よく叩いて身を翻した。
「あ~可愛かったぁ~。どうもね~?」
――どうもね~? は確か、市井の娘の「ごきげんよう」だったはず……。
孤児院への慰問などで、市井の娘の言葉遣いはある程度知っている。グウェンドリンは「いつも振ってます」と言わんばかりの顔でタンバリンをシャラシャラ振りながら、猫たちが行った先とは分岐の後でつながっている道を踊るように駆けていった。
「私……っ、私……っ、ちゃんと出来ておりましたか……っ!」
「出来てた出来てた」
はーっ、はーっ、と馬車の中で息も絶え絶えなグウェンドリンを優しく労うのはアーサー・ハンブル辺境伯である。
馬車の中には猫も二匹いて、父猫は辺境伯の膝の上、タイタスはグウェンドリンの腕の中にいた。
父猫は疲れ果てたように目を閉じている。
タイタスはちらりと脇に視線を移した。
タイタスとしても猫の性としても、グウェンドリンの傍らに置かれたタンバリンは見過ごせなかった。
グウェンドリン、何故、と言いたげなタイタスに、グウェンドリンは「ずっと一緒だと言ったでしょう」とホイップに話しかけるような口調でめっと叱った後、手早く説明した。
「丁度出会った旅芸人の一座の娘さんが、舞台で着る用の貴族の娘の衣装を何者かにズタズタに切り裂かれて困っていたから、着ているものを交換したの」
――そうではなく、そもそも何故ここへ。
人語にならぬタイタスの疑問に答えたのは、彼の背後にいる辺境伯だった。
「ソロモン・ルッツが俺んとこに寄越した。ヤツの名代と言われちゃあ会わない訳にはいかねえ。伝言は下らなかったが……」
――ソロモン・ルッツが一女、グウェンドリン・ルッツにございます。及ばずながらタイタス殿下にお仕えいたしたく、罷り越しました。
そう言って、グウェンドリンがさっと跪いた時のことを、辺境伯はしみじみと振り返った。
「いやあ、あの名乗りは良かった……。その辺の騎士よりカッコよかった。正直、息子の嫁に欲しいと思ったわ」
耳だけ貸していたタイタスがくるりと振り向き、凄まじい形相で辺境伯を見る。
「タイタスぅ~。そんな顔しちゃ男前が台無しだぞ~」
タイタスの名が出たところで、グウェンドリンがはっと我に返った。
そうだった。今の見た目に引きずられて、ついホイップのように扱ってしまったが、彼女の腕の中にいるのはホイップではなく――。
「し、失礼いたしました」
グウェンドリンは頬を赤らめ、タイタスをそっとタンバリンの上に乗せた。
タイタスは恨みがましげに辺境伯を見る。
「いや、駄目だろ」
タイタスは構わず、グウェンドリンの膝の上に戻った。
丸まって目を閉じると、グウェンドリンが背を撫でてくれる。
辺境伯が呆れたようにハンと笑った。
父王は既に、辺境伯の膝の上で熟睡中だった。
「追手も全然来ねえな……。ちったぁ暴れてやっても良かったのに」
物騒な物言いだったが、ぐっすりと眠っている友の背を撫でる手は優しい。
猫二匹は猫の習性に従ってすやすやと眠り、やがてグウェンドリンも緊張の糸が切れたのか、うとうとと体を揺らし始めた。
「……眠れる時に眠っとけ。そうじゃなきゃ、いざという時コイツの騎士として役に立たねえ」
眠るまいと頑張っていたグウェンドリンは、その声に納得したように頷いた。やがて、膝の上の猫に手を当てたまま、規則正しい寝息を立て始める。
逃走中である馬車の中が、ひと時、優しいまどろみに包まれた。
一人起きている辺境伯が、友の背を撫でながらぽつりと言った。
「俺は王家の決まりも、お前の秘密も知らなかったから、健康な弟君ではなく、病弱なお前が王になった時は正直驚いた。でも、お前はいい王様だよ。民のことをよく見ているし、辺境への目配りもすごい。えらく寒かった一昨年の冬、お前が寄越したたっぷりの保存食と、山ほどの温かいキルトは今でも領の語り草だ」
辺境伯は苦いものを飲み下すように、「オーランドー、お前は優しい」と呟いた。
「けどな、オーランドー。お前は優し過ぎるんだ。お前は今度も馬鹿弟と馬鹿息子たちを許すんだろう。だけど、優しいだけでは駄目な時があるんだ……」