7.救出篇(前)
「相変わらず、極端から極端に走る国だ……」
西ストランド王国第一王子、クローディアスは密偵からの報告を受け、美しい顔に仄かな侮蔑と、隠し切れぬ嫌悪を浮かべて冷笑した。
タイタスによく似た退廃的な美貌の持ち主だが、タイタスよりやや面長で瞳の色が濃い。堂々たる風格は生まれついてのものであり、偉大なる古ストランド帝国の末裔にして、西ストランド王国の長子なれば、それも当然のことであった。
「さて、愚かなマリポルト。そなたを一体どうしたものか――」
所詮は政を知らぬ、愚か者どもの革命ごっこ。十中八九、自滅の道を勝手に辿って終わりだろうが、あのソロモン・ルッツが指揮しているというのなら、万が一ということもある。西ストランドに飛び火する前に、摘み取っておかねばならぬ悪い芽だった。残念ながら、クローディアスは今すぐ動くことが出来ぬ身だったが。
「叔父上にも困ったものだ……」
あの人があんなに粘りさえしなければ――。
普段はちゃらんぽらんな王弟の、意外な野心とそれなりの行動力を見抜けなかったのはクローディアスの手落ちだった。
忌々しいことに、王宮は王弟派に占拠されてしまっている為、クローディアスは不本意ながらも王都の外れの離宮まで退き、そこを本拠地としている。
――まったく。どこでこんなことになってしまったのか……。
美酒の杯を傾けながら、クローディアスがこれまでのことを何とはなしに振り返っていると、側仕えがやってきて予期せぬ客人の名を耳打ちした。
「……何しに来た?」
「庇護を求めております。その代わり――」
「追い返せ。厄介な火種を抱え込む気はない」
クローディアスがにべもなく答えた時、扉口から気取った声がした。
「厄介な火種か、マリポルトに秩序をもたらす者か――はてさて、どちらなのでしょう」
「ようこそ、マティアス・バイロン。この度は災難だったな」
クローディアスは悪びれもせず、互いに顔くらいは見知っている亡国の王子をにこやかに招き入れた。来てしまったものは仕方がない。
――さて、この王子の価値はいかほどか……。
マリポルト革命政府も無論、彼の逃亡に気づいているだろうが、血眼になって探している様子はない。それなりに頭は切れると噂の王子だが、未だ政務に携わったこともない温室育ちの小童、何が出来るとも思われていないのだろう。妥当な評価である。
マティアスの方では、もともと高かった自己評価は今や天を衝く勢いだった。
――運命はやはり、王になれと私に言っている……。
王都の民が乱入した辺りで風向きが変わったことをいち早く察し、隙を突いて脱出した己の先見性に今でも鳥肌が立つ。
おかげでこうして彼だけは、愚かな民衆たちの手に掛からずに済んだ。あの後どうなったのか知らないが、絶対に碌なことになっていないだろう。
「正直に言おう。我が家は今、少々立て込んでいてな。王権奪還の手伝いをする余裕なぞ」
「何もそこまでは申しません。我が国の政情が安定するまでの、ほんの少しの間だけ、密やかな庇護をいただけたら」
母国に乗り込むのに、クローディアスの力を借りる気などなかった。消去法で選んだ交渉相手とはいえ、一癖も二癖もあるこの男にあまり借りを作りたくない。
そもそも、兄とは違って物事を冷静に俯瞰できるマティアスは、熱しやすく冷めやすいマリポルトの国民性を良く知っていた。
ルッツを担いで国政に参加したはいいものの、その実態は無知で無責任な烏合の衆、自分たちはやはり高貴な血筋の者に治めてもらい、隷属して生きるのが性に合うと早々に気づくことになるだろう。そうなったら軍隊すら必要ない。身一つで戻れば歓迎される。もともと優秀な王子として、将来を嘱望されていた身である。一つ年上の兄とは違って。
「これはこれは。何とささやかな。相分かった。客人として、このクローディアスが御身をお預かりしよう」
「感謝いたします」
「で? せっかくだから聞かせてもらうとするか。私のもとへ来るにあたり、どんな土産を用意してくれていたのか」
クローディアスに促され、マティアスは眼鏡の縁をくいと押し上げた。無論、クローディアスの庇護は無償ではない。
「タイタス・アルカディウスに関する、ちょっとした情報を」
「居場所、などと言ってくれるなよ? あれは実にすばしこくて、数刻前の居場所すら当てにならぬ」
クローディアスが茶化すように釘を刺し、マティアスはその言葉に何かを確信したように微笑んだ。
「勿論です。お耳を」
白く美しいクローディアスの耳に、マティアスは対価を囁いた。
「ほう……?」
告げられた内容は突拍子もないことだったはずだが、クローディアスは「何を馬鹿な」と撥ねつけることも、「あり得ない」と一笑に付すこともしなかった。
――心当たりがあるのだ……。
あのシスター・マデリーンに否定された時は、マティアスも一瞬自信を失いかけたが、マティアスにはどうしてもエイナルが嘘や冗談でこんなことを言っているとは思えなかった。だからこそ、最初は半信半疑だったマティアスも彼の言葉を信用したのだ。
今にして思えば、シスター・マデリーンは単に何も知らなかっただけという可能性がなきにしもあらずだった。彼女はすべてを知る完全無欠の聖女ではなく、単に嘘を吐かないというだけの、耳の遠い老婆である。
クローディアスは機嫌よく対価を受け取った。
「――部屋を用意させよう。疲れを癒すがいい」
「ご厚意に感謝を」
性格の悪い男ではあるが、庇護を与えると約束したからには、彼自身のプライドにかけてそれを違えることはない。これが彼の叔父たる王弟であれば、情報を引き出せるだけ引き出した後は、無用となったマティアスを放り出すことに何の躊躇もないだろう。そう踏んだからこそ、マティアスは王宮と王を押さえ、権力争いで優位に立つ陽気な王弟ではなく、高慢でいけ好かないクローディアスを選んだ。彼の選択はどうやら正しかったようである。
側仕えの一人に先導され、部屋を出ていこうとしたマティアスに、クローディアスは朗らかに言った。
「そう言えば、タイタスが随分世話になったようだな。おお、今のそなたは丁度、あの時のあれと同じ状況ではないか? 身分を隠し、密かに他国へ侵入――いや、何も気にすることはない。人にはそれぞれ事情というものがあるのだろうからな」
「…………恐れ入ります」
頬を引きつらせて出ていくマティアスを機嫌よく見送った後、クローディアスは別の側仕えに合図をして、弟のオーガスタスを呼んだ。
「……何だよ、いいところだったのに」
ほどなくして現れた第二王子、オーガスタスは、三人の王子たちの内、一番の美姫と謳われる女顔を不機嫌に覗かせた。
上半身は裸で、肩に女物の薄い肌着を引っかけている。こんな恰好でクローディアスの前に出てくるのは彼くらいのものだった。幼い頃からクローディアスの言いなりで、今とて文句を言いつつお楽しみを中断し、兄からの呼び出しに応じている。
「やはり……あれは人ではなかったか」
「何の話? 急に」
「タイタスのことだ」
「タイタス?」
クローディアスは薄く笑った。
「そうだ。我らの可愛い弟の」
タイタス・アルカディウス――時折、人ではない生き物のような雰囲気を漂わせる、得体の知れない末の弟。
このクローディアスとしたことが、何故もっと早くあれの正体に気づかなかったのだろう。
思い起こせば、真実は最初から目の前にあったのに。
――猫が……!
生まれて間もないタイタスの揺りかごを覗き込んだ、年若い侍女が発したという謎の言葉。
侍女はすぐに暇を取らされた。
彼女が発した言葉も、彼女の存在そのものも、その瞬間から綺麗さっぱりなかったことにされた。
「お前も少しは心当たりがあろう」
「うーん……?」
オーガスタスはコケティッシュに首を傾げた。
「ないかな?」
「そんな訳なかろう」
喋ったり歩いたりする頃になっても、タイタスはどこか普通の子供と違っていた。
快活な悪戯っ子という訳でもないのに、やたらとすばしこくて神出鬼没、皆が必死になって探していると、思いもよらないところからするすると降りてくる。
呆気に取られる皆を子供らしさのない退廃的な眼差しで一瞥し、昼寝の為にお気に入りのかごへと向かうのが常だった。
長じるにつれ、そうした気ままな振る舞いも徐々に影を潜めていったから、今の今までクローディアスはすっかり忘れていたのだ。少年の頃、胸に抱いていた末弟への疑惑を。
「あれは妖精の取り替え子だ。我らの本当の弟ではない」
そんなものは迷信だと言う者もいよう。だが、そう考えればすべての辻褄が合う。何より、あのプライドの高いマティアス・バイロンが、自らの保護と引き換えに差し出してきた情報がただの与太話などであるはずがなかった。彼自身が実際に見たか、嘘とも思えぬ目撃証言を聞いたのだ。
「そうなんだ……。俺たち三人はよく似てるって言われてるけど……」
「似せておるのだ。妖精ならばそれくらいのこと造作もなかろう」
「成程」
オーガスタスは分かったような顔で頷いた。
「で、どうするの」
クローディアスは妖艶に笑った。
タイタスが捕えられたのは、マリポルト王国――今は共和国だったか――の中でも、ハンブルにほど近いペハヴィーンだったと聞く。何故通り過ぎたのか不明だが、大方、あの小うるさいハンブルのアーサーと結託し、父王の奪取でも目論んでいたのだろう。取り替え子の分際で生意気な。
クローディアスは低く囁いた。
「猫だ。黒猫を捜せ」
漆黒の背を持つ、それはしなやかな猫を――。
「奴は既に王都に戻っている可能性がある」
マリポルト王の恩情により無罪放免となった途端、タイタスは行方をくらましたという。人ならぬ身に姿を変えることが出来るなら、誰に知られることなく王都に身を潜めることなど造作もない。
だが、優位に立っているのはクローディアスだった。
「王宮のそばをうろつく不審な黒猫がいれば、それがタイタスだ。奴はまだ、こちらが奴の正体に気づいていることを知らぬ。油断しているところを捕え――後は煮るなり焼くなり、だ」
「それがいいね。兄上、そうしよう」
オーガスタスは勿論同意した。
――ホイップの旦那、こいつぁヤバいぜ……。
ホイップのお耳とお耳の間に止まった相棒に言われるまでもなく、ホイップにもそれはよく分かっていた。
――不審な黒猫を捕えよ。
第一王子クローディアスが発した命令により、王都近辺では今、悪夢のような黒猫狩りが始まっていた。
第一王子派の兵が壁の向こうでぼやいた。
「何で俺たちがこんなこと……」
「普通の猫は捕えなくていいって言うけど……普通の猫と不審な猫の線引きってどこだよ」
「絶対分かんねえわ。無茶苦茶だよな」
まったりと日向ぼっこをしていようが、他の猫と喧嘩をしていようが、見ようによってはすべてが不審に見える。結果、兵たちは黒猫と見れば手当たり次第に捕獲して回っていた。
ホイップの上で蝶々がため息をついた。
――うちの人が捕まって帰ってこない、って泣いてる若奥さんが気の毒でさぁ……。
クローディアスはどうやってか、タイタスが猫になると知ったらしい。タイタスが早晩、王都に現れることも、その際には人の姿ではなく、恐らく猫の姿を取るであろうことも見越して先手を打ったと思われた。
だが、彼は猫時のタイタスの特徴についてはよく知らないようだった。
王都中の黒猫を片っ端から捕える一方、その中にタイタスが既にいるのか、それとも未だ捕えられていないのかを判別する術は持っていないようで、捕えられた猫たちが閉じ込められているという一角の住環境は、日に日に新顔が増えて劣悪になっていく。
このままでは早晩、ストレスで吐き戻しをする者も出てくると思われた。
蝶々は悔しげに唸った。
――何でだよッ……! 西ストランド人の半分は猫好きのはずなのに!
そうだとしても、第一王子の命令に逆らうなど誰にも出来ないことだった。
ホイップはサファイアブルーの目を細めて尋ねた。
――猫たちが閉じ込められている小屋の見張りは。
――衛兵二人一組で三交代、二十四時間体制だ。
念入りなことだ……。
タイタスは猫の姿であることも忘れ、頭を抱えそうになった。
ひとまず王都中の猫をかき集め、全員揃ったところでゆっくり吟味でもする気だろうか。馬鹿馬鹿しい。クローディアスはそれでいいのかもしれないが、ホイップにも猫にも、そんな下らないお遊びに付き合う義理はなかった。
――イザベラを呼んでくれ。
――イッ……イザベラ姐さんかい。
ホイップの頭の上で、蝶々が驚いたように翅を震わせる。
――そうだ。彼女の都合もあるだろうが、出来るだけ早く……。
――お上品言ってる場合かよ。旦那のお呼びとありゃあ、姐さんだってすっ飛んでくるぜ。
で? で? と期待に満ちた蝶々の熱い足踏みが伝わる。
ホイップはぺろっと前足を舐めた。
――イザベラと合流し次第、決行する。アーサー小父に伝えてくれ。俺が皆を解放し、父上を救いにいく、と。
――分かった! 頼んだぜ!
蝶々は武者震いして飛んでいった。
いい笑顔で飛び立っていった友の美しい翅を、ホイップは薄暗い隘路からひっそりと見送った。
――お前には、いつも苦労を掛ける……。
潜伏中の第三王子、タイタスだろうと、お尋ね者の黒猫、ホイップだろうと、どちらの姿でも今は大っぴらに動けないタイタスの為、彼はあんなにも小さな体で、いつだって文句ひとつ言わず飛び回ってくれる。
どこにいるとも知れぬイザベラに会い、王都郊外にて待機しているアーサー・ハンブル辺境伯と連絡を取る為に、彼は今宵、きらきらこぼれる鱗粉の輝きを振りまきながら、どれほどの距離を飛ぶのだろう。