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3.駆落篇(前)

 ホイップ……。あなたがまさか、タイタス殿下だったなんて……。


 うう、グウェンドリン、絶対断られると思った、と切れ切れに呟くタイタスから割ときつめに抱きしめられながら、グウェンドリンはかつて式典などで見かけた彼の姿を思い出していた。


 ただそこに立っているだけで、誰もが目を奪われる、退廃的な美しい王子。


 優美さで知られる西ストランド王族の中でも、彼の佇まいは殊に別格で、同席していた貴婦人方が扇の陰で囁きを交わすほどだった。


 ――あの方が次の王ではなくて?


 西ストランドでは、不思議と物腰の優美な者が王になる傾向がある。


 まさか本当にそんな理由で決めている訳でもなかろうが、かの国は長子相続ではなく、王自らが後継を指名するという方式を取っており、その選考基準は謎に包まれていた。


 どれくらいそうしていたのだろうか。


 こほん、と遠慮がちに咳払いが聞こえ、タイタスがはっと腕の力を抜いた。グウェンドリンがばねのように彼から離れる。


 ――わ、私としたことが。ついホイップの感覚で……!


 頬を真っ赤に染め、目を回さんばかりに恥じ入っているグウェンドリンを気の毒に思ったのだろう。咳払いの主である自警団長は何も見なかった風を装い、淡々と状況を説明した。


「もう一頭も無事に仕留めました。他にはいないようです」

「負傷者は」

「いません。全員無事です」


 グウェンドリンがほっと息を吐く。先に立ち上がったタイタスが手を取り、彼女を立ち上がらせた。


「――シスター・グウェンドリン」


 決して威圧的ではないが、さりとて甘やかさなど一かけらもない澄んだ声がした。


 その場にいる者は全員、その声が響いた瞬間、弾かれたように背筋を正した。


「シスター・マデリーン……」


 孤高の女剣士といった趣きの、背の高い修道女が剣を鞘に納め、タイタスとグウェンドリンに静かな眼差しを向けている。


 この頃には避難していた者たちも外に出てきて後始末を手伝ったり、炊き出しの準備を始めたりと、辺りは賑やかさを取り戻しつつあったが、彼女の周囲だけは別世界のような静謐さが漂っていた。


「そちらの方。シスター・グウェンドリンの窮地をお救いくださったと聞きました」


 シスター・マデリーンはそう言って、剣士のように一礼した。


「こちらこそ、シスター・グウェンドリンに命を救っていただきました」


 タイタスも優美に礼を返す。


「恐れ入ります。シスター・グウェンドリンに尋ねます。――こちらの方は……ホイップでしょうか」


 辺りの空気が一瞬で凍りついた。


 シスター・マデリーンは普段から口数が少なく、真実以外を口にするくらいなら沈黙を選ぶという高潔な修道女である。


 誰が呼んだか「ペハヴィーンの良心」なる二つ名を持つ彼女は「決して嘘を吐かない」ことで、王都にまでその名を轟かせていた。


「シスター・マデリーン! こちらの方は、命懸けでシスター・グウェンドリンをお助けに……!」

「存じています。シスター・グウェンドリン、答えてください」

「シスター・マデリーン! 世の中にはいちいち言葉にしなくてもいいことがあるという気が……!」

「ちょっと黙ってください。私はシスター・グウェンドリンと話をしているのです」


 ――この方に、小手先の誤魔化しなど通用しないだろう……。


 グウェンドリンが覚悟を決めて、顔を上げた時。


「あー、ええと、この人はジョンです」


 先んじて声を発したのは、丁度近くにいたグレースだった。


 この辺りを掃き清めに来たと見え、箒を手にしている。普段は修道院併設の宿泊所で受付を担当している、えくぼの可愛い十六歳だった。


「うちの宿泊所にちょっと前から泊まってる方なんですが、剣を嗜むとかで討伐にご協力を」

「……ジョン……」

「ジョン・スミスさんです」


 グレースは曇りなき眼で言い切った。


 堂々たるその言いっぷりと、氏名不詳者(ジョン・スミス)というあんまりなネーミングに周囲がどよめく。


 シスター・マデリーンはグレースの言葉を吟味するように口を閉ざした。


「――私にも状況を説明してもらえるかしら」


 しん、と辺りが静まり返る中、どこか楽しんでいるような、朗らかな声が響いた。


院長様マザー……!」


 皆がその声の主に帽子を取り、あるいは胸に手を当てて敬意を表す。柔和な笑みを絶やさぬペハヴィーン女子修道院長、マザー・セシリアは鷹揚に頷き、タイタスに目を向けた。


「そちらにいらっしゃる方が、もう一頭の魔獣を倒された方ね? この度はありがとうございました」

「いいえ、こちらこそ」

「お名前は?」

「――ジョン・スミスさんだそうです」


 誰かがひゅっと息をのむ。


 答えたのは誰あろう、ペハヴィーンの良心ことシスター・マデリーンだった。


「院の宿泊所に少し前からお泊まりになっている方だそうですが、剣を嗜むとかで討伐にご協力を」


 皆が驚愕の表情を浮かべる中、シスター・マデリーンがグレースの言葉を淡々と踏襲する。


「そうでしたね? グレース。念の為、宿泊台帳の確認を」

「あっ……は、はいっ!」


 シスター・マデリーンに促され、グレースは宿泊所に駆けていった。確認の為ではなく、ジョン・スミスと急ぎ書き足す為である。


「長生きをすると、面白いものが見られるわね……」


 修道院長は感慨深げにそう言って、グウェンドリンとタイタスの方へ再び視線を戻した。


「スミスさんとシスター・グウェンドリンは私の部屋へ」


 穏やかではあるが、有無を言わさぬ口調だった。






「シスター・グウェンドリン。残念ですが、あなたは修道女に向いていないようです」


 院長室に入って早々グウェンドリンに言い渡されたのは、明快な見切り宣告だった。


 見習い修道女となってひと月も経たぬうちのことである。


「あ、あの、ですが、マザー……」

「向いてるから残れって言われても困るでしょ?」


 しどろもどろに何か言いかけるグウェンドリンに構わず、修道院長はさらっと続ける。


「実は私、全部見ていたの。あなたの騎士があなたを庇って致命傷を負ったところも、あなたが愛の力でそれを癒したところも。全部、窓から」


 ニャッ⁉ と慌てる二人を面白そうに眺め、修道院長は表情を改めた。


「……グウェンドリン」


 震える声ではいと応えるグウェンドリンに、修道院長は穏やかに告げる。


「あなたの使命はここで祈りと奉仕の日々を過ごすことではありません。あなたにもそれは分かっているでしょう。あなたはあなたの道を行きなさい」

「マザー……」

「愛しい娘よ、巣立っておいき」


 修道院長はそう言って、柔らかに微笑んだ。


 感極まったグウェンドリンは、まるで幼い少女のように、修道院長に抱きついた。修道院長は彼女を腕の中に迎え入れ、あらあらと笑みをこぼす。


「嬉しいわ。あなたの方から抱きついてきてくれるなんて……。グウェンドリン、変わりましたね」


 声を抑えて泣いているグウェンドリンは返事も出来ない。


 ――ここでの日々があったからこそ、王都で擦り切れそうになっていた私は、自分自身を取り戻すことが出来たのだ……。


 内紛を終結させる為、西ストランドに戻るというタイタスの手を取ったのはグウェンドリン自身である。


 だが、それは同時に、終の棲家と定めたペハヴィーン女子修道院を去るということを意味していた。


「ふふ……。こうしていると、さっきのあなたを思い出すわ。どこを切り取っても優等生のあなたがまさか、あんな……。長生きをすると、本当に面白いものが見られるわね」


 タイタスに抱きついたあの瞬間のことを言われているのだと分かり、グウェンドリンは耳まで赤くなった。すべてを見ていたと言うからには、当然あれも見られていたのだろう。


「ち、違うんです。あれはつい、ホイップの……」

「スミスさん、頼みましたよ」


 修道院長はタイタスにそう言いながら、一秒も無駄に出来ぬとばかりにグウェンドリンの髪を覆う見習い修道女の白いヴェールを外しにかかる。


「行方知れずと言われている西ストランドの王子が何故か(・・・)ここにいることも、あなたに聖女の力が発現したことも、いつまでも隠し通すことは出来ない。追手がかかる前に逃げなさい」


 するりと外したヴェールを見、修道院長は顔をしかめた。


「あら、あなた。頭の後ろを怪我してるんじゃない? 血が……」

「あ、いえ、これは私の血ではなく、後ろから邪魔してきたエイナルを無力化しようとして」

「そう。じゃあいいわ。気をつけてね」


 修道院長はひらひらと手を振った。言うべきことは言ったから、さっさと行けということだろう。


「――寂しくなるわ、ホイップ」


 修道院長はそんな言い方でタイタスに別れの言葉を告げ、タイタスはホイップの時と変わらぬ優雅さで腰を折った。


「彼もきっと、そう思っています」


 院長室を出た後は、グウェンドリンは小さな自室で出立の支度を、タイタスは「スミスさん、今日お発ちですか? では荷物をおまとめに」と宿泊所に案内される。そこには男物の服や旅支度一式が揃えてあった。


「何と礼を言ったらいいか――」

「お気になさらず。ペハヴィーンはあなた方のような二人を、全力で応援する土地柄なんです」

「俺たちのような二人……?」

「ええ。だから、絶対に幸せになってくださいね」


 グレースは可愛いえくぼを見せて笑った。


 はい、とタイタスは陽だまりにいる猫のように目を細めた。


 旅装を整え、落ち合った二人は、ほんの数刻前までグウェンドリンの同輩だった見習い修道女、シスター・シェイラの案内で裏口まで連れていかれる。ホイップの尾のように優美なロートアイアンの門扉の向こうには、自警団長の四男、ロイが待っていた。十を少し超えたばかりの、大人びた赤毛の少年である。


 別れの直前、グウェンドリンはシスター・シェイラにきつく抱きしめられた。


「グウェンドリン……頑張ってね。応援してる」

「ありがとう。あなたも元気で。私、皆にお礼も言えてない。どうか」

「分かってるわ。いいから急いで」


 シスター・シェイラに急かされるまま、二人は慌ただしく門を出る。


「頼んだわよ」と言いたげにシスター・シェイラがロイに目配せし、ロイは「心得た」というように頷いた。


 歩きながら、ロイがタイタスにちらりと目をやって尋ねる。


「ひとまずは西ストランドにいる遠い親戚を頼るって聞いたけど」

「ああ。ハンブルに向かう」


 タイタスが何食わぬ顔で頷くと、「じゃあ、こっちだ」とロイが斜め前方を指した。


「この先に古い坑道がある」


 それは地元の者しか知らない抜け道で、ペハヴィーンとハンブル辺境伯領との間にある、広い森の入口へと続いているという。普段はあまり使われていないが、急ぎ森へ行く必要がある時や、「あなたたちのような二人」が使う道だとロイが説明した。


「ハンブルに向かう最短ルートだ。小一時間程度で森の前まで着く」

「俺たちのような二人……?」

「私たちのような二人……?」


 思わず声を揃えた二人に、ロイは肩をすくめてみせた。


「話は聞いてるよ。駆落ちだって?」

「えええっ⁉」


 いつどこでそんな話になったのか。


 ふらりとよろめくグウェンドリンを支え、タイタスは物憂くとろけるようなサファイアブルーの瞳をロイに向けた。


「実はそうなんだ」

「――殿下?」


 小声で尋ねるグウェンドリンの唇に素早く指を当てる。今のタイタスは殿下ではなく、ジョン・スミス。


「俺が、修道女様を愛してしまって」

「じゃあ仕方ないね、愛ならば」


 ロイは罪深き男を責めもせず、しみじみと頷いた。


 坑道の入口まで来ると、「ここだよ」と二人を行かせ、控えめに手を振る。


「スミスさん、大変なこともあるだろうけど、まあ頑張って。シスター・グウェンドリン、お元気で……あっ」


 タイタスが優美に手を伸ばし、ロイを引き寄せて額に口づけを落とした。


 あ、これは西ストランドの流儀だわ……と、グウェンドリンが気づき、微笑ましげに目を細めた。


 かの国では王族や高位の聖職者が、まるで加護を与えるように、子供の額に口づける風習がある。


 近隣諸国の歴史や文化、風習について、王太子妃となる予定だったグウェンドリンはよく学んでいた。


「スミスさん……あなた、只者じゃないね」


 ロイは面映ゆそうに額を撫で、大人びた口調でぼそりと言った。


「ありがとう。君も元気で」

「うん」


 ロイに別れを告げ、タイタスが先に立って薄暗い坑道の中へ入る。


「グウェンドリン、手を」


 差し出される指先の角度まで美しい、人間の王子の優美な手が伸ばされる。グウェンドリンは彫像のように固まった。


「足元が暗くて、危ないですから」

「は、はい……」


 タイタスに再度促され、グウェンドリンは恐縮しながら彼の手を取った。


 小さなランタンの灯りを頼りに、しっかりと手を取り合った二人が暗い坑道を急ぐ。


 それはまさに駆落ちとしか言いようのない光景だった。

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